辺境で再就職したら元婚約者が上司でした
港に近づくにつれて、潮風が紙のように頬を叩いた。
ルシア・ハーランドは、小さなトランクを片手に駅の階段を降りた。
王都の石畳はもうなく、土と潮の匂いが混じる風が彼女を包んだ。
「ようこそ、マリンベル行政局へ。今日からあなたの職場になるわ」
出迎えたのは課長のローナ。豪快な笑い声に、ルシアの肩の力がわずかに抜けた。
王都を追われて一年。今日からは一介の地図官として働く日々が始まる。
「堅苦しくしなくていいわよ。辺境に来る人間なんて、みんな何かしら理由を抱えてるものよ」
その言葉に、ルシアは苦笑した。図星だった。
だがその数時間後、彼女の再出発は冷たく止められる。
「新任の地図官、ルシア・ハーランドです」
執務室の扉をノックすると、低い声が返ってきた。
「入ってくれ」
聞き覚えのある声。
信じたくないまま扉を開けると、デスクの向こうにいたのは、かつての婚約者――カイル・フェルナーだった。
「……久しぶりだな」
「ええ。ずいぶんと、辺境がお似合いになりましたね」
皮肉を込めて返すと、彼は変わらぬ無表情で言った。
「今日からここで働くのか」
「はい。上司があなたと伺いました」
淡々と応じながらも、胸の奥では心臓が暴れていた。
婚約破棄のあの日、彼は冷たく告げた。
「君のような人間を、妻にはできない」
あの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
*
午後、古い地図の整理をしていると、背後から聞こえた声に手が止まった。
「進捗を確認する」
「急かさないでください。ここでは線一本引くのにも潮風が敵です」
「そんな口の利き方を覚えたのか」
「もう令嬢ではありませんので」
沈黙のあと、カイルは一枚の地図を指差した。
「この線、右上が甘い。君の癖だ」
ルシアは動きを止めた。
彼は、まだ覚えている。自分の線の癖まで。
「……余計な詮索をしないでください」
「仕事の話だ」
声は低く、しかしどこか抑えた響きがあった。
そこに、課長のローナが入ってきて笑う。
「もう火花散らしてるの? いいわね、若いって」
「仕事の確認をしていただけです」
二人同時に言い、目をそらした。
*
日が沈む頃、ルシアは港の見晴らし台に立っていた。
新しい地図用紙の上に、風で揺れる線を丁寧に描く。
「この線が、私の再出発」
潮風が髪を揺らす。
遠く、行政局の灯の向こうにカイルの姿が見えた。
――なぜ、彼がここに。
その疑問が胸の奥で静かに灯った。




