表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/68

裏返る町の井戸

 町の中央に、使われなくなった井戸がある。

 コンクリートの縁に錆びた滑車、口を塞ぐ木蓋は半分割れて、覗けば暗闇が喉の奥まで続いている。

 誰も近づかない。

 理由は簡単だ。落ちた者が、戻ってくるからだ。

 戻ってくる、と言っても、身体が戻るわけではない。

 人が戻るのだ。

 歩き方や声色は同じ、癖も同じ。

 ただ、何かが裏返っている。


 私は地方紙の記者で、町の再開発を取材するためにここへ来た。

 編集部はこの井戸の噂を面白がり、ついでに書いてこいと言った。

 私は笑って受けた。怪談の類は、数字にならないと知っていたからだ。

 宿に荷を置き、夕方、井戸のある広場へ向かった。

 冬の手前で、空気は乾き、子どもの声はなかった。

 井戸は想像よりも浅く見えた。人が落ちて死ぬほどの深さには思えない。

「覗くのは、やめといたほうがいい」

 背後から声がした。

 振り返ると、作業着の老人が立っていた。

 町内会の腕章が擦り切れている。

「取材で来たんです。噂を聞いて」 

「噂は噂のままがいい。書くと、裏返る」

 老人はそう言って去った。

 私は苦笑し、メモ帳にそのまま書いた。

 裏返る。

 意味のない言葉ほど、見出しに使いやすい。


 その夜、宿で古い新聞をめくった。

 井戸の記事は確かにあった。

 二十年前、三十年前、四十年前。

 失踪、発見、帰還。

 どの記事にも、帰ってきた者の証言は載っていない。

 家族が口を閉ざし、本人は町から出ない。


 翌朝、私は役場で名簿を借りた。

 帰還者の名前は五人。うち三人はすでに亡くなっていた。

 残る二人の住所を控え、まず近い方へ向かった。


 家は井戸から徒歩五分の古民家だった。

 戸を叩くと、すぐに返事があった。

「はい」

 出てきたのは、四十代ほどの女性だった。名簿の年齢と一致する。

「突然すいません、井戸のことで」

 彼女は一瞬だけ目を伏せた。

「話すことは、ありません」

「少しでいいんです、井戸であったことを教えていただけないですか?」

 それでも、私は食い下がった。

 仕事だからだ。

 彼女はため息をつき、私を台所に通した。

 湯気の立つ急須。

 きちんと揃えられた箸。

 見る限り生活は整っている。

 私は安心した。異常はない、と。


「落ちたのは、私の弟です」

 彼女はそう言った。

「夜、酔っ払って。深くなかったから、すぐ上がってきた。でも」

 彼女は言葉を探した。

「弟は、弟のままでした。でも、私を姉と呼ばなくなった」

「それは、どういう……」

「名前で呼ぶようになった。昔は、絶対に呼ばなかったのに」

 それだけです、と彼女は言った。

 私はそれ以上、聞けなかった。

 些細な変化は、誰にでもある。


 帰り道、私は井戸の前で足を止めた。

 木蓋の隙間から、冷たい空気が上がってくる。

 覗くな、と言われた言葉が一瞬頭をよぎった。


 私は覗いた。


 暗闇の奥に、水面は見えなかった。

 代わりに、底にもう一つの口が見えた。

 井戸の底に、井戸がある。

 縁も、滑車も、同じ形だ。

 目を離した瞬間、足を滑らせた。

 落下は一瞬だった。

 背中を打ち、息が詰まる。

 だが、痛みはなかった。

 私は立ち上がった。

 井戸の底に、私は立っていた。


 目の前に、もう一つの井戸がある。

 私は笑った。

 取材のネタになる。そう思って、縁に手をかけた。

 そのとき、上から声がした。

「覗くのは、やめといたほうがいい」

 私自身の声だった。

 見上げると、私がいる。

 地上に、私が立っている。

 目が合った。彼女は、いや、私は、微笑んだ。

「代わりだ」


 次の瞬間、私は引き上げられた。

 地上の空気が肺に入る。

 私は井戸の縁に倒れ込んだ。


 町は、変わっていなかった。

 夕方の色、冷たい風。

 何事もなかったかのようだ。


 宿に戻ると、女将が声をかけてきた。

「お客さん、新聞の人でしたっけ」

「はい」

「さっき、もう一人、同じ顔の人が出て行きましたよ」

 私は笑って誤魔化した。疲れているのだ、と。


 その夜、私は記事を書いた。

 井戸の噂を、淡々と。

 誇張せず、否定もせず。

 書き上げた記事を編集部に送信し、ベッドに横になった。


 夢を見た。

 井戸の底で、誰かがこちらを見上げている。

 顔は見えない。

 だが、わかる。

 あれは、私だ。


 朝、私は町を出た。

 駅で切符を買うと、係員が首をかしげた。

「昨日も、同じ切符を買いましたよね?」

 私は、何も言わなかった。

 帰社すると、編集長が記事を褒めた。

「いい落ち着きだ。余計な色がない」

 私は頷いた。

 鏡に映る自分の顔は、少しだけ左右が違って見えた。

 気のせいだ。

 私は自分にそう言い聞かせた。


 数日後、町から電話が来た。

 井戸が埋められたという。

 再開発が始まるらしい。

 

 その夜、私は自分の名前を呼ぶ声で目を覚ました。

 部屋の隅に、誰かが立っている。

「戻る番だ」

 声は、私のものだった。


 翌朝、私は出社しなかった。

 代わりに、私と同じ癖でコーヒーを淹れる私が、原稿を仕上げた。

 町の井戸は、もうない。

 だが、裏返る場所は、形を変えて残る。

 名前で呼ばれる違和感、左右のずれ、同じ切符。


 落ちるのは、いつも、覗いた者からだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ