置きっぱなしの椅子
その椅子は、最初から、そこにあった。
そう思っていた。
六畳の部屋の、壁際。小さな机の横に、木製の椅子が一脚置いてある。
座面に傷があり、背もたれが少しぐらつく。
引っ越してきたときから、ずっとそこにあった気がした。
ただ、ある日、ふと気づいた。
「……こんな椅子、買ったっけ?」
考えても、思い出せない。
前の部屋から持ってきた記憶もない。
かといって、だれかにもらった覚えもない。
気味は悪かったが、生活に支障はなかった。
椅子は、ただ置いてあるだけだ。
数日後、帰宅すると、椅子の向きが変わっていた。
机の横ではなく、部屋の中央を向いている。
自分が動かしたのかもしれない。
そう思おうとしたが、心のどこかで、否定していた。
椅子には、座らなかった。
なぜか、座る気になれなかった。
夜、ベッドに横になると、部屋の暗がりに、椅子の形が浮かぶ。
そこに「誰か」が座っている気がして、目を閉じる。
でも、足音も、呼吸も、何も聞こえない。
ただ、見られている感じだけが、残った。
ある朝、目を覚ますと、椅子が、ベッドのそばにあった。
昨夜、そんな場所にはなかったはずだ。
心臓が、どくんと鳴る。
持ち上げて、元の位置に戻そうとした。
そのとき、気づいた。
椅子の脚の裏が、少しだけ、すり減っている。
引きずった跡だ。
何度も、何度も。
部屋の床には、かすかな線が残っていた。
円を描くように。
まるで、椅子が、夜のあいだ、部屋を回っていたみたいに。
それから、夢を見るようになった。
暗い部屋。
自分は、椅子に座っている。
目の前には、もう一脚の椅子。
そこに、何かが座っている。
顔は見えない。
ただ、じっと、こちらを見ている。
目が覚めると、必ず、椅子の位置が変わっていた。
日中も、違和感は増えていく。
帰宅すると、部屋の空気が、すでに使われたあとのように、ぬるい。
誰かが、先に座っていたような。
ある日、友人が遊びに来た。
部屋に入るなり、言った。
「あれ、話してた椅子、二つだったっけ?」
「……一つだけど」
「いや、今、そっちに」
友人は、言葉を止めた。
何もない場所を見て、首をかしげる。
「気のせいか」
その日の夜、椅子は、二脚分の影を落としていた。
月明かりの中で、影だけが、並んでいる。
次の日、部屋から、椅子を捨てた。
粗大ごみの置き場に、確かに置いた。
伝票も貼った。
それで、終わったはずだった。
夜、部屋に戻ると、何もないはずの場所に、影があった。
椅子の影だ。
でも、本体はない。
影だけが、部屋の中央にあり、ゆっくり向きを変えている。
座るための影。
こちらを向いて、待っている。
翌朝、部屋には、椅子が戻っていた。
以前より、少しだけ、低くなって。
座面の高さが、人の目線に、近づいていた。
それ以来、椅子は動かなくなった。
ただ、置いてある。
部屋の中央で。
向かい合うように、もう一脚分の空間を残して。




