鏡の中の目
深夜、香織は部屋の隅でじっと鏡を見つめていた。全身を映す大きな鏡、その表面はまるで静かな湖のように穏やかだったが、彼女の目はその中に何かを感じていた。
恐ろしい予感と、どこか冷徹な何かが自分を見透かしているような気がした。
香織が一人暮らしを始めてから、ずっとその鏡があった。
中古の家具を買った際に、セットでついてきた古い鏡。特に気にしていなかったが、だんだんとその鏡が気になり始めた。
最初は何気なく使っていたが、次第に鏡を見るたびに胸の奥に違和感を覚えるようになった。
鏡の中の自分の姿が、どうにも不安定で、時折笑っているように見えるからだ。
香織はその違和感を感じながらも、何度も鏡に目をやった。
そして、今夜、その不安が現実になった。
香織は深夜遅く、寝室で本を読んでいた。
読んでいた本の内容は全く頭に入ってこなかった。
視界の隅にある鏡が、無意識のうちに気になり、目をそのたびに向けてしまう。
最初はただの風景だった。
自分が椅子に座っている姿、机の上に散らばった本、少し乱れた寝具。それだけだ。
だが、次第に鏡の中の「自分」がおかしくなった。
目を離した瞬間、鏡に映る香織の姿が少しずつ歪み始めた。
最初はほんのわずかだった。
顔の表情が、笑っているのか泣いているのか、判別できないほどに揺れ動き、その後、まるで誰かが背後に立っているかのように、香織の後ろに何かが映った。
「あれ……?」
香織は本を手放し、鏡に近づいて目を凝らした。
その瞬間、鏡の中の香織がにやりと笑った。
「え……?」
自分の顔が、笑うはずのない時に不自然に歪んだ笑みを浮かべている。
その表情が見た瞬間、彼女は背筋が凍るような恐怖を感じ、すぐにその場から立ち上がった。だが、鏡の中の自分は、動くことなく、ただその笑みを浮かべ続けていた。
「なんだ……これ?」
香織はゆっくりと後退し、目を離そうとした。
その時、鏡の中の自分が一度だけ目をパチクリと瞬き、そして、今度は手を差し出した。
まるで「こっちへ来い」と誘うように。
恐怖で足が震え、動けなくなった香織は、じっとその手を見つめた。
目を閉じれば何かが起こるのではないか、鏡の中から手が飛び出して自分を引きずり込むのではないかという恐れが彼女を支配した。
しかし、次の瞬間、鏡の中の自分が一歩前に出てきた。
「え?」
その一歩が、香織をさらに震えさせた。明らかに鏡の中の自分は、香織を見て笑っていた。
その目は、彼女をじっと見つめ、少しずつ近づいてきた。
その時、香織の背後に何かが触れる感覚がした。
振り向くと、部屋には何もない。
振り返った瞬間、鏡の中の香織が、今度は本当にその鏡から出てくるように、ゆっくりと腕を伸ばしてきた。
「まさか……!」
恐怖が全身に走り、香織は何も考えずに部屋を飛び出した。
だが、足元がふらつき、床に膝をついた。
すぐに立ち上がり、部屋のドアを開けようとしたが、ドアが開かない。
まるで誰かが部屋の外から鍵をかけているように、ドアはびくともせず、香織は手を震わせながら、必死にドアノブを回した。
その時、後ろからまたもや、鏡の中の自分が声をかけた。
「逃げられないよ」
その声が、今度は頭の中に響いてきた。
香織は振り向くことができなかった。
鏡の中の自分が、今度は完全に鏡の枠を越えて、現実の世界に足を踏み入れようとしているのが分かる。
「やめて……」
香織は必死に叫びながらも、恐怖で体が動かない。
鏡の中の自分がゆっくりと近づいてくるのを見た瞬間、何かが彼女を引き寄せた。
無理に振りほどこうとしても、何かに掴まれているような感覚がした。
「お願い……」
彼女の叫び声に、鏡の中の自分が静かに笑った。
その笑みが広がり、香織の目の前で、現実の世界の鏡がひび割れていく。
翌朝、香織の部屋は静まり返っていた。
扉も鏡もそのままで、外から見ても何も異常はない。
だが、部屋の中央には、誰もいないはずの場所に一つの物が置かれていた。
それは、香織が目を覚まし、鏡を見たときに最初に気づいた物だった。
その物の中に、香織の目が、どこか遠くを見つめるような形で映っていた。
その目は、確かに香織のものであり、でも、どこか違う目だった。
数日後、近隣住民は香織の家から異臭がすることに気づき、警察に通報した。
警察が部屋を開けたとき、香織の姿はどこにも見当たらなかった。
唯一残されていたのは、鏡の前に置かれた香織の写真だった。
鏡の中には、香織の姿は映っていなかった。
だが、鏡の中央には、ただ一つ、真っ赤に光る目があった。




