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音のない部屋

 深夜、山崎直樹は一人、古びたアパートの廊下を歩いていた。

 周囲は静まり返り、唯一聞こえるのは彼の足音だけだった。

 以前住んでいたアパートの一室で起きた出来事に、どうしても引き寄せられるような思いがあった。

 あの部屋には、何か不穏な空気が漂っていた。


 その部屋に入ることを決めたのは、偶然だった。

 ある晩、仕事を終えて帰る途中、アパートの前を通り過ぎた際、ふと目に留まった「賃貸」の張り紙。

 特に興味があったわけではない。

 ただ、その時、なぜか無性に気になって、管理人に話を聞いた。

「ええ、この部屋はね、以前、少し変わった人が住んでいましたよ」

 管理人は、うわべだけの笑顔を見せながら話し始めた。

 しかし、その表情のどこかに、不安を感じるものがあった。

 だが、直樹はそれを気にせず、部屋を借りることにした。

 安くて広い部屋だったからだ。


 部屋に入って数日が経ち、何も問題はなかった。

 ただ、部屋の中には不思議な静けさがあった。

 昼間も、夜も、常に何も聞こえない。

 まるで音が全て吸い込まれてしまったかのような、空虚な静けさが支配していた。

 最初はそれが普通だと思っていた。

 しかし、日に日にその静けさが不安になり、心の中で何かが引っかかってきた。

 物音一つしない部屋で、ただ自分一人だけが空気を切り裂くように動いている。

 そんな日々が続くうち、直樹は次第にその部屋に違和感を覚え始めた。

「音が、ない……」


 ある夜、直樹は目を覚ました。

 何の前触れもなく、目が覚めると、部屋の中は真っ暗で、周囲には一切の音がなかった。

 普段であれば、外の車の音や風の音が微かに聞こえてくるはずなのに、その日は一切の音がない。

 全てが沈黙に包まれているようだった。

 ふと、直樹は耳を澄ませた。

 だが、何も聞こえない。

 呼吸の音すら、消え去ったような気がした。

 彼は心臓の鼓動が自分の耳に響いていることに気づき、焦り始めた。


 そのとき、ふと、目の前に一つの影が現れた。

 その影は、薄暗い部屋の中でゆらりと揺れ動きながら、直樹の方に近づいてきた。

 最初はただの影だと思ったが、その動きが人の形をしていることに気づくと、直樹の体は硬直した。

 その影は、まるで自分を見ているように、じっと直樹を見つめていた。

 何も言わず、ただ静かに。

 直樹は、恐怖に駆られて動けなくなり、目を見開いてその影を見つめ続けた。

 やがて、その影は彼のすぐ横まで近づき、直樹の耳元で囁いた。

「お前も、音が欲しいか?」

 その言葉を聞いた瞬間、直樹は金縛りにあったかのように動けなくなった。

 全身が凍りつき、目の前に広がる暗闇の中で、何かが自分を取り込もうとしているのを感じた。

 恐怖が彼の心臓を締め付け、息を呑むことすらできなかった。


 その時、突然、部屋の中に音が戻った。

 まるで、何かが壊れるような音が、部屋の隅から響き渡った。

 それは、風に揺れる木の枝の音のようでもあり、誰かが壁を叩くような音でもあった。

「お前が求める音は、もう聞こえなくなったんだ」

 その声が再び耳元で囁かれた。

 直樹は恐怖のあまり、声も出せなかった。

 彼の体は、まるで動かないかのように感じられた。

 だが、心の中で一つだけ確信があった。

 その部屋には、何か恐ろしいものが住んでいて、音を支配している。

 次の瞬間、部屋の隅から耳をつんざくような音が響き渡り、直樹は思わず手で耳を塞いだ。

 しかし、その音は止まることなく続き、やがて彼の頭の中まで入り込んでくるような感覚に襲われた。

 心臓の鼓動、血の流れる音、自分の呼吸、何もかもが異常に大きく、そして不気味に響き渡っていた。


 その時、直樹は気づいた。

 あの部屋には、音を吸い取る力があるのではなく、逆に音を呼び寄せる力があるのだと。

 そして、その音はただの音ではなく、何か悪しき存在を引き寄せ、支配する力を持っているのだと。

 恐怖に駆られた直樹は、必死で部屋を飛び出し、廊下を走り抜けた。

 しかし、どうしても振り払えないその音の波が、彼を追いかけてきた。

 背後から迫る音の中で、直樹は気づいた。

 あの部屋の扉が、今も彼を待っていることを。


 その後、誰かがあの部屋に住み始めた。

 だが、その人もまた、同じように音に引き寄せられていった。

 やがて、その部屋は再び空っぽになり、また次の人が来る。繰り返されるその呪いのような循環は、今も続いている。


 そして、今もどこかで、その部屋からは音が聞こえているという噂がある。

 だが、誰もその音の正体を確かめることはできない。



 アパートの廊下を歩く直樹の足音が、いつの間にか消えていた。

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