窓の向こう
夜勤を終えた大森悠人は、重い身体を引きずるようにアパートへ帰ってきた。
眠気と疲労で視界が揺れる。
深夜三時。
静まり返った住宅街に、風がすれ違う音だけが響いていた。
築三十五年のオンボロアパート。
家賃の安さと会社からの近さだけが取り柄で、防音も断熱もほとんどない。
廊下の蛍光灯はちらちらと明滅し、足音を立てると床がぎしぎし軋む。
(いつ建て替えになるんだか……)
部屋のドアを開け、コートを脱ぎ捨てる。
灯りをつけた瞬間、足元に散らばったチラシが目に入った。
ポストから溢れて、床に落ちたのだろう。
何気なく拾い上げる。
その中に、見覚えのない紙が混じっていた。
白い紙に黒い文字。
印刷ではなく、どこか筆跡の荒い字体。
『深夜四時に、窓の外をのぞかないでください』
悠人は思わず笑い、紙を丸めてゴミ箱へ投げた。
(子どものいたずらか)
だが、胸の奥に小さな棘が残った。
時計を見る。
針は 三時十八分。
(寝たほうがいいな)
布団にもぐり、いつものように部屋の灯りを消した。
しかし、眠れなかった。
神経が妙に冴え、頭の奥で警鐘のような痛みが響く。
気づけば時計の針は三時五十九分を指していた。
同時に、部屋の窓ガラスが、小さくコン、コン、と震えた。
風の音ではない。
確実に、人の指の音。
悠人は凍りついた。
(気のせいだ……気のせいだ……)
布団を握りしめ、目を閉じる。
コン、コン、コン。
先ほどより強い。
脳裏に嫌な予感が走った。
そして思い出した。
『深夜四時に、窓の外をのぞかないでください』
胸が跳ねた。
見てはいけない。
わかっているのに。
人は、「見るな」と言われるほど、見たくなる。
時計の針が四時を指した瞬間、音が止んだ。
静寂。
悠人は、ゆっくりと身体を起こした。
(……誰もいないはずだ)
自分でも止められなかった。
まるで糸で引かれているように、
窓の前へ歩く。
そして、カーテンの隙間をほんの少しだけ開いた。
そこに、人の顔があった。
目と目が合った。
距離は、わずか数センチ。
異様に白い皮膚。
血の気のない唇。
開ききった黒い瞳孔。
それは笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、完全な無表情でこちらを見つめていた。
悠人は声を失い、後ずさった。
しかし、顔は動かなかった。
ガラスに張りついたように、そこに在り続けていた。
瞬きができないほどの恐怖。
見つめ返すしかできなかった。
ほんの数秒のはずが、永遠のように長かった。
そして、その顔の口が、ゆっくり開いた。
「みえた」
低い声が耳の奥に直接響いた。
悠人は叫んだ。
カーテンを閉め、部屋の隅に駆け込んだ。
震える手でスマホをつかみ、警察へ電話した。
「誰かが窓の外に——」
しかし警官は言った。
『その住所、最近同じ通報が多いんですよ。でもみんな、朝になったら誰もいないって言うんです』
「いま確かに、顔がっ……」
『見たんですね?』
「え……?」
『それを見た人は、みんな引っ越したあと行方不明になります』
背筋が凍った。
『見ちゃったんですよね?』
次の瞬間、電話越しの声が低く歪んだ。
『いま、あなたのうしろにいます』
心臓が止まった。
振り向くことができない。
視界の端で、カーテンの隙間から漏れるわずかな光が揺れた。
そして、耳元で囁き声がした。
「みつけた」
朝、アパートの管理人は、異様な静けさに違和感を覚え、大森の部屋を訪れた。
鍵はかかっていなかった。
部屋の中はきれいなまま。
争った形跡も、血の跡もない。
ただ、窓ガラスに小さく、指で書かれたような跡が残っていた。
『つぎは だれ』




