鏡のむこうの放課後
冬の夕方。
放課後の教室はほとんど空っぽで、窓の外には橙色の光が沈みかけていた。
一年生の香澄は、忘れ物を取りに戻っただけのつもりだった。
ランドセルに入れ忘れた音読カードを探し、机の中を覗く。
「……あれ、ない」
困って立ちすくむと、教室の隅にある鏡がふと目に入った。
その鏡は、古い。
校舎が建てられた頃からずっとある、黒ずんだ縁の姿見で、生徒の間では“見ると風邪を引く鏡”なんて噂もあった。
「……映ってるだけなのに、変なの」
香澄が近づくと、鏡の向こうに自分が映った。
ただ、それだけだった。
忘れ物を探している子供の姿だ。
だが。
鏡の中の“香澄”が、動いた。
香澄自身が動くより、一瞬、早く。
「……え?」
もう一度動いてみる。
手を上げる。
鏡の中の自分も手を上げる。……が、ほんのわずか、遅れた。
反応が遅れている。鏡なのに。
背筋に寒気が走る。
「や、やだ……」
香澄は視線を鏡からそらした。
その瞬間、鏡の中の“香澄”が、そらさなかった。
じっと、こちらを見つめ続けた。
顔の中心をピクリとも動かさず、ただ目だけが、香澄を追いかける。
「ふ、ふざけてるの……?」
何かの悪ふざけ、照明の反射、そう信じたかった。
しかし、鏡は香澄の息づかいとは違うテンポで曇り、鏡の中の“何か”が、ゆっくりと口を開けた。
『……カスミ、こっちへおいで』
「いや……いやっ!」
香澄は反射的に後ずさり、机に背中をぶつけた。
鏡の中の“香澄”は、香澄が動かないのに、勝手に前へ踏み出す。
鏡の中なのに。鏡の向こう側なのに。
『だいじょうぶ。おたがい入れかわったら、だれも気づかないよ』
その口の動きは、香澄の声の形ですらなかった。
「や、やめて……!」
香澄はランドセルをつかんで教室から逃げようとした。
だが、背後からガシャン、と鏡の割れたような音が響く。
振り返ると、鏡が揺れている。
まるで“中から”叩いているように。
ガンッ、ガンッ。
ゆっくりと鏡の縁にひびが入る。
だが、ガラスは割れない。
割れないのに、内側が膨れ上がり、そこから“香澄”の手が、にゅるりと伸びた。
『ねえ、かわってよ……わたし、そっちにいきたいの』
「いやあああああ!!」
香澄は廊下へ飛び出し、泣きながら階段を駆け下りた。
下駄箱の前でようやく教師に捕まえられ、震えながら事情を話した。
教師たちはすぐに教室へ向かった。
だが、鏡はどこにもなかった。
◇
翌朝。
校舎の裏手に新しい“姿見”が置かれていた。
縁は黒ずみ、ガラスは古く曇っている。
先生たちは「不法投棄だろう」と処理しようとしたが、ガラスが重くて持ち上がらない。
大人四人がかりでも動かない。
その鏡は、まるで地面と接着しているようだった。
やがて昼休み。
二年生の男子が鏡の前で立ち止まった。
「あれ? なんか、ズレてね……?」
その鏡は翌週、教室の隅に“元からあった鏡”として戻された。
先生は誰も、気づいていない。
ただひとり、香澄を除いて。
放課後の教室。
香澄はそっと鏡の前を通り過ぎる。
鏡の中の自分は、その視線を追った。
見つめ返すと、ほんの少しだけ、笑った。
それは香澄と完全に同じ笑顔ではなかった。




