雨の影
雨の日は、外に出るのが怖い。
でも、今日はどうしても行かなくちゃいけなかった。
私は傘をさしながら、小さな商店街を歩いた。
水たまりに映る街灯は、揺れている。
その揺れが、まるで誰かが後ろを歩いているように見え、足音もした。
でも、誰もいない。
振り返ると、雨に濡れた路地は静かだった。
私は少し安心して歩き出す。
でも、足音は消えない。
私の後ろから、何かがついてきている。
息が詰まりそうになる。
誰もいないはずなのに、足音は一歩一歩、確かに聞こえる。
私は走り出した。
傘を振りかざし、靴の底を水たまりで跳ねさせる。
でも、足音も走る。
どこまで行っても、止まらない。
雨はますます強くなり、傘の骨に当たる音が耳に響く。
心臓が痛いくらいに早く打つ。
角を曲がると、古いビルが見えた。
その前で、足音が一瞬止まった。
私は立ち止まり、呼吸を整える。
「誰か……いるの?」
返事はない。
でも、暗闇の窓に、黒い影が動いた。
人の形……でも、人じゃない。
体の形はあるのに、顔がない。
目も鼻も口もない。
ただ、濡れた服だけが揺れている。
私は叫んだ。
「やめて……!」
影は、私の前に立った。
息が、冷たい。
風もないのに、服が濡れた感触で肌に触れる。
ーー逃げよう。
走ろうとした瞬間、足が地面に張り付いたように動かない。
影は、私の腕に手をかけた。
冷たい。硬い。湿った手。
『ついてきて……』
声は、私の声に似ていた。
でも、歪んでいて、濁っていて、聞きたくない声だった。
私は泣いた。
雨の中で、傘の下で、誰も助けてくれない。
手を振りほどこうとしても、腕は動かない。
影は、少しずつ、私を引き寄せる。
その時、目の前のビルのドアが開いた。
白い光が差し込む。
ーー逃げられる。
私は必死で手を伸ばした。
光の中に踏み込もうとした瞬間、影が声を上げた。
『まだ……だめ』
腕を強く引かれ、私は地面に倒れる。
水たまりに映る私の顔は、歪んでいた。
泣いているのか、笑っているのか、もうわからない。
そして、影は笑った。
声にならない笑いが、雨音に混ざった。
私は目を閉じた。
暗い。寒い。
でも、耳の奥に声が残っている。
私の声。でも、私じゃない。
気が付くと、足音だけが残った。
雨は止んでいた。
でも、私の後ろに、影が立っている気配は消えない。
傘を開ける力もなく、立ち上がろうとするけど体が言うことを聞かない。
街灯の下で、自分の影を見た。
影が、二つ。
もう一つの影は、私の動きに合わせて、微笑んでいる。
顔は見えない。
だけど、確かに笑っている。
私は後ずさりした。
でも、どこにも逃げられない。
商店街の道は、まるで迷路のように曲がりくねって、出口がない。
その時、雨上がりの空に雷が光った。
光と同時に、私は倒れた。
地面に映った二つの影が、ゆっくり、重なっていく。
消えることはない。
ずっと、後ろにいる。
夜が明けても、影は消えなかった。
私は、家に戻ろうとしたけど、扉は開かない。
窓も、鍵も、何もかも、影の中に溶けていった。
雨の影に、飲み込まれたまま。
朝になっても、商店街には私の姿はなかった。
ただ、濡れた傘と、濁った水たまりだけが、私の痕跡だった。
雨はまた降り始めた。
そして、私を呼ぶ声が、どこからか聞こえた。
『……おいで』




