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ひそやかな穴

 夜の図書館は、音がしない。

 司書の伊東いとう燈子とうこは閉館作業をしながら、時折ふと自分の呼吸音がやけに大きく感じられる瞬間に身震いした。

 古い建物だが、利用者は多い。リニューアルを重ねて清潔さこそ保たれているが、天井の梁や階段の踊り場には昔の名残が残っている。

 そしてこの図書館には “ひとつだけ妙な場所”がある。

 一階奥の壁。

 棚の裏に隠れるようにして、拳ほどの黒い穴がぽつんとあいているのだ。

 数年前の耐震工事でも塞がれず、理由を聞いても「構造上の問題で」と曖昧な返事しか返ってこない。

 だが燈子は、その穴がどうしても気になって仕方がなかった。

 ときどき、穴の奥に、白いものが“ちらり”と見える。

 目の錯覚だと職員たちは言うが、燈子には、どう見ても“目”のように思えた。


     ◇


「灯子さん、帰るよ」

 先輩司書の本間さんが声をかけてきた。

 柔らかな雰囲気の中年女性で、職場の母のような存在だ。

「はい……本間さん、あの、例の穴って……」

「またその話? 大丈夫よ。誰も近づかないし、危険じゃないから」

 そう言われてもうなずけない。

 穴は棚の影になっていて、利用者の多くは気づかないが、燈子は毎日その横を通るたびに、視線を感じずにはいられなかった。

「じゃあお先にね。閉め作業、気を付けて」

「はい……」

 閉館まであと二十分のアナウンスが流れ、燈子は返却本を片付け、館内の確認に出た。

 階段をのぼると、古い木材の軋む音がする。

 その音は嫌いではなかった。

 だが、穴の前だけは空気が違う。

 ひんやりしている、というより、“吸い込まれる”ような感覚だった。

 棚のすき間から、黒い丸い穴が見える。

 燈子は一度息をのみ、そっと視線を近づけた。

 穴の奥は真っ暗だった。

 どこまで続いているのかわからない。

「……気のせい。気のせい……」

 自分に言い聞かせたその瞬間だった。

 穴の奥で、“白いもの”がスッと動いた。


     ◇


 その夜。

 家に帰った燈子は何度も穴のことが頭に浮かび、眠れなかった。

(やっぱり誰かがいる? でも穴の直径は十センチもない。人間なんて入れない……)

 悶々としたまま布団に入り、ようやく浅い眠りについたとき。

 コン……コン……

 耳もとで、固いものが木を叩くような音がした。

「……え?」

 目を開ける。

 部屋は真っ暗。

 だが耳は覚えている。

 あの音は、図書館で、穴の奥から聞いた音だった。

(まさか……)

 壁のほうに目を向ける。

 その瞬間、思わず悲鳴をこらえた。

 自室の壁に、拳ほどの黒い穴があいていた。


     ◇


 翌朝、穴は“なくなっていた”。

 壁はもとどおり。

 ただ、じわりと丸いシミがついていて、天井に向かって細い黒い筋が伸びていた。

「夢……だったのかな」

 そう思おうとしたが、鳥肌がどうしても引かない。


     ◇


 翌日の勤務。

 図書館に到着すると、本間さんが血相を変えて駆け寄ってきた。

「灯子さん! 聞いた? 穴の場所に、何か挟まってたって!」

「え?」

「これ……」

 本間さんはビニール袋を見せた。

 中には、図書館の貸出票のような小さな紙切れが入っている。

 だが、その紙の中央に穴があき、黒い縁が焼け焦げたようになっていた。

「昨日の閉館後の点検で見つけたんだって。棚の裏に落ちてたらしいけど……こんな燃え方、変よね」

 燈子の背筋が硬直する。

(穴……昨日、私の部屋にも……?)

 そのとき、警備員が駆けこむようにカウンターに来た。

「本間さん、伊東さん。穴の周りに“新しい痕跡”があります。テープで封鎖したはずなんですが……」

 燈子は嫌な予感を覚えながら穴の前へ向かった。

 棚をずらすと、そこにあったはずの黒い穴は少し大きくなっていた。

 十センチ程度だった直径が、十五センチほどになっている。

 縁は湿ったように黒く、壁紙が吸い込まれたように薄く伸びている。

「……なんで?」

 本間さんも青ざめた顔でつぶやいた。

 穴の奥が、以前よりも浅く見える。

 まるで、誰かが内側から“せり出してきている”かのようだった。


     ◇


 その日の夕方。

 閉館作業中、燈子は視線を感じた。

 穴のほうではない。

 階段の踊り場。

 見上げると、暗がりに、誰かが立っていた。

 白い顔。

 黒い影。

 だらりと垂れる腕。

 穴の奥で見た、あの“白いもの”に似ている。

「……誰……?」

 呼吸が浅くなる。

 次の瞬間、その影はスッと消えた。

 だが、階段に“痕跡”が残っていた。

 黒い丸いシミ。

 燈子は悟った。

 あれは“穴の向こう側の存在”だ。

 そしてそれは、穴から滲み出るようにして、図書館の中を歩き回っている。


     ◇


 閉館後、燈子は恐怖に耐えられず、急いで帰宅した。

 だが自室の玄関を開けて固まった。

 壁に二つ、穴があいている。

 一つは昨日と同じ場所。

 もう一つは、そのすぐ横。

 黒い縁は濃く、まるで焦げ跡のよう。

 その周囲には、小さな黒い点が散っている。

「いや……いや……」

 燈子は震えながら壁から距離を取った。

 穴の奥は真っ暗。

 だが、わずかに何かの息づかいのような、湿った空気の振動を感じる。

 穴が、呼吸している。


 その夜、燈子は眠れなかった。

 穴は増えていく。

 一時間おきに数が増え、深夜三時には五つになった。

 どの穴も、奥に白いものがちらりと揺れている。


     ◇


 翌朝。

 図書館に出勤すると、本間さんがいなかった。

 ロッカーはそのまま、財布も置きっぱなし。

 ただ、本間さんのデスクの横の壁に、黒い穴が一つあいていた。

「……いや……まさか……」

 燈子は震えながら、穴を見つめた。

 穴の奥で、白いものが動く。

 穴は、ときに小さく、ときに大きく。

 音もなく、壁に広がり、天井に移り、床に染みこむ。

 どれも同じ形。

 あの存在の入口。


     ◇


 その日の閉館後。

 燈子はついに警察に駆け込もうと決意した。

 だが職員用通用口に向かったとき、背後で音がした。

 カサ……

 振り返る。

 暗い廊下の奥に、無数の黒い穴が並んでいた。

 壁だけでなく、天井にも、床にも、書架にも。

 穴はゆっくりと“こちらへ向かって”移動してきていた。

 穴の奥から、白い手が伸びた。

 一つ、また一つ。

 穴が開くたびに、あちら側の存在の“手”が伸び、壁を引っかく。


 カリ……

 カリ……

 カリ……


 燈子は悲鳴を上げて走った。

 だが穴は追いかけてくる。

 壁がふやけるように黒く染まり、穴が開き、手が伸びる。

 そして、図書館の大きなガラス扉の前に立ちはだかるように、人間ほどの大きさの穴が開いた。

 穴の向こうで、白い顔がこちらをのぞいている。

 あの階段の影。

 穴の向こうの住人。

 ずっと燈子を見ていた何か。

「いや……いやああああああ!!」

 燈子が倒れ込んだ瞬間、館内の照明が一斉に消えた。

 穴の奥に無数の白い手が見えた。


     ◇


 翌朝。

 図書館は臨時閉館となった。

 理由は「電気系統のトラブル」。

 だが職員のあいだでは噂になっていた。

 伊東燈子が失踪した、と。


 ただ、それより不可解なのは、問題の“穴”が、どこにも見つからなくなっていることだ。


 封鎖していた壁も、棚の裏も、全部調べても穴はない。

 壁紙は新品のようにきれいで、焦げ跡も残っていない。

 消えたのだ。

 図書館から、そして、燈子の家からも。

 まるで最初から、存在しなかったかのように。


     ◇


 だが、数日後。

 図書館の新米職員が控室でつぶやいた。

「なんか……ロッカーの裏の壁、変じゃないです?」

「え?」

「黒い丸いシミが一つ……これ、もしかして穴……?」

 別の職員が冗談めかして笑った。

「まさか。穴は、この前ぜんぶ塞いでもらったでしょ」

「ですよねぇ……」

 新米職員は苦笑し、壁の黒いシミを指でなぞろうとした。

 その瞬間、シミの中央が、ぽたり、と落ちた。


 黒い液が床にしみこみ、ゆっくりと丸い“穴”へ変わっていく。


 彼は青ざめて後ずさりした。

「え……これ……」

 穴の奥で、白いものが揺れた。

 

まるで“目”のように。

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