表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/59

返却者

 夜の図書館を歩くと、まるで別世界に迷い込んだような錯覚に囚われる。

 昼間の温かい光は消え、蛍光灯の白い明かりだけが、棚という棚を無機質に照らしていた。

 紙と埃、そして古びた木材の匂いが空気の奥に沈殿し、歩くたびに足元でそれらが揺れるように思える。

 佐伯は、返却ポストに溜まった本を淡々と仕分けていた。

 図書館に勤めて八年、夜勤にも慣れていたが、この時間帯の静寂だけはどうしても好きになれない。

 時計は二十二時三分を回っている。あと数分で施錠時間だ。

 館内に人影はない。カウンター奥の窓から見える外灯が、ガラスにぼんやりと黄色を落としている。


 そのとき。

「すみません、まだ開いてますか」

 背後から、か細い女の声がした。

 驚いて振り返ると、自動ドアの向こうに細身の女性が立っていた。黒いコート、長い髪。逆光で顔はよく見えない。

 この時間に利用者が来るのは滅多にない。だが閉館まで数分ある。

 佐伯は軽く会釈し、カウンターへ戻った。

「返したい本があって……」

 女が差し出した本を見て、佐伯は眉を寄せた。

 古い。異様に古い。

 表紙は擦り切れ、布地のような素材は茶に染まり、角は崩れ、背表紙には文字らしい跡すら残っていない。

 触ると湿っていて、皮膚に冷たく貼りつくような不快な感触がある。

「こちら……当館の蔵書には見えませんが」 

「借りましたよ、十年前に」

 十年前。

 佐伯はこの図書館に勤めていなかったが、貸出記録は残っている。

 データベースを開き、検索画面を呼び出す。

 タイトル不明、著者不明、資料番号不明。

 入力できる項目がほとんどない。

 困りながら Enter を押したその瞬間、

 ピッ。

 画面が勝手に更新され、一行が浮かび上がった。


【返却期限:2015/11/03 借り手:蟬谷ノゾミ】。


「……蟬谷さん、ですか?」

「はい。私、蟬谷と言います」

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。

 五年前、全国ニュースになった行方不明事件。

 大学生だった蟬谷ノゾミが自宅近くで忽然と姿を消し、捜索は難航した。

 結局、手掛かりは一つも見つからず、事件は未解決のままだ。

「本当に……ご本人なんですか?」

「ええ。ずっと返したかった。でも、この本……家にあると、眠れないんです」

 女の声はどこか掠れている。

 近づくと、髪に土が混じっているのが分かった。

 コートの裾は濡れていて、そこからぽたぽたと水が落ちて床に黒い点が残る。

 異様だ。

 だが視線は本へと向いた。

 なぜ湿っている?

 雨か? いや違う。

 これは、もっと……地下のような匂いがする。

「……お客様、この本、いったいどこで?」

「借りたところに返しに来ただけですよ」

「借りたところ、とは……」

「ここです。あなたのところです」

 背筋が凍りついた。

「十年前、あなたは私にこの本を渡しました。“読むといい”って。そして、私だけじゃない。あなたも借りたんです」

「私は……そんな記憶は……」

「覚えてないんですね」

 女が薄く笑った。

 だがその目は笑っていなかった。

「でも、本は覚えています。借りた人の匂いを」

 その瞬間、本が勝手に開いた。

 ページの隙間から、黒い指のようなものが伸びた。

 乾いている。

 紙ではない。

 正真正銘、人間の指だ。


 佐伯は息を飲んだ。

「触らないほうがいい」

 女が言った。

「この本は、借り手を探すんです。返しに来た人を食べるわけじゃない。その人の“記憶”が必要なんです。消えた記憶。忘れた約束。本は、それを返してもらいたがっているんです」

 ページの奥から、複数の指が這い出た。

 二本、三本、四本……

 まるで本の中に埋められた人間が、死後に蘇ってこちらへ手を伸ばしているようだ。

 そして……

『返せ』

 声がした。

 ページの奥の暗闇から響く、冷たい囁き。

 佐伯の名前を呼んだ気がした。


「返してください。次はあなたの番です」


 女が後ずさる。

 その足跡は、泥と水で黒く滲んだ。

「ま……待って……!」

 女は振り返らない。

 自動ドアが開く。

 外の暗い夜気が流れ込む。

「私はもう……返しましたから」

 ピシャ、と最後の一言を置いて、女は夜の闇へ消えた。


 次の瞬間、図書館の照明が一斉に落ちた。

 真っ暗。

 その中で、佐伯の足首に冷たい指が触れた。

 引きずられる。

 床をかきむしっても無駄だ。

 闇の奥で、ページの擦れる音がする。


 返セ。 

 返セ。

 返セ。


 肩を掴まれ、背中に冷たい手が滑った。

 息ができない。

 佐伯の視界が白く染まった。


 翌朝。

 開館作業に来た職員が見たのは、返却カゴの中にぽつんと置かれた古びた本だけだった。

 表紙には、昨日までは無かったはずの文字が浮かんでいる。


『新シイ借リ手ハ 次ノ借リ手ヲ 返却セヨ』


 パソコンには最後のログが残っていた。


【返却確認:借り手・佐伯 完了】。


 佐伯の姿は、どこにもなかった。


 夕方。

 図書館の入り口に、一人の少年が現れた。

 抱えるのは、薄汚れた古い本。

「すみません……これ、返したくて……」

 自動ドアが音もなく開く。

 館内に、人の姿はなかった。

 しかし奥から、紙の擦れるような声だけが聞こえる。


 返セ。

 返セ。

 次ヲ。


 少年は怯えたように本を差し出した。

 その表紙には、また一行の文字が染み出すように浮かんでいた。


『借リ手ノ記憶ハ 次ノ頁ニ書込マレル』


 本が勝手にパラリと開く。

 ページの隙間から、黒い指がそっと覗いた。


 図書館は静かだった。

 静かすぎた。


 その奥深くで、返却され続ける記憶が、また一つページに吸い込まれていった。



 都市伝説のように語られることがある。

 深夜の図書館で、返却カゴに自分の名前が印字された本が見つかることがある、と。

 そんな本を開いてはいけない。

 見つけても触れてはいけない。


 なぜなら『返却者』は、必ず次の借り手を探しているからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ