返却者
夜の図書館を歩くと、まるで別世界に迷い込んだような錯覚に囚われる。
昼間の温かい光は消え、蛍光灯の白い明かりだけが、棚という棚を無機質に照らしていた。
紙と埃、そして古びた木材の匂いが空気の奥に沈殿し、歩くたびに足元でそれらが揺れるように思える。
佐伯は、返却ポストに溜まった本を淡々と仕分けていた。
図書館に勤めて八年、夜勤にも慣れていたが、この時間帯の静寂だけはどうしても好きになれない。
時計は二十二時三分を回っている。あと数分で施錠時間だ。
館内に人影はない。カウンター奥の窓から見える外灯が、ガラスにぼんやりと黄色を落としている。
そのとき。
「すみません、まだ開いてますか」
背後から、か細い女の声がした。
驚いて振り返ると、自動ドアの向こうに細身の女性が立っていた。黒いコート、長い髪。逆光で顔はよく見えない。
この時間に利用者が来るのは滅多にない。だが閉館まで数分ある。
佐伯は軽く会釈し、カウンターへ戻った。
「返したい本があって……」
女が差し出した本を見て、佐伯は眉を寄せた。
古い。異様に古い。
表紙は擦り切れ、布地のような素材は茶に染まり、角は崩れ、背表紙には文字らしい跡すら残っていない。
触ると湿っていて、皮膚に冷たく貼りつくような不快な感触がある。
「こちら……当館の蔵書には見えませんが」
「借りましたよ、十年前に」
十年前。
佐伯はこの図書館に勤めていなかったが、貸出記録は残っている。
データベースを開き、検索画面を呼び出す。
タイトル不明、著者不明、資料番号不明。
入力できる項目がほとんどない。
困りながら Enter を押したその瞬間、
ピッ。
画面が勝手に更新され、一行が浮かび上がった。
【返却期限:2015/11/03 借り手:蟬谷ノゾミ】。
「……蟬谷さん、ですか?」
「はい。私、蟬谷と言います」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
五年前、全国ニュースになった行方不明事件。
大学生だった蟬谷ノゾミが自宅近くで忽然と姿を消し、捜索は難航した。
結局、手掛かりは一つも見つからず、事件は未解決のままだ。
「本当に……ご本人なんですか?」
「ええ。ずっと返したかった。でも、この本……家にあると、眠れないんです」
女の声はどこか掠れている。
近づくと、髪に土が混じっているのが分かった。
コートの裾は濡れていて、そこからぽたぽたと水が落ちて床に黒い点が残る。
異様だ。
だが視線は本へと向いた。
なぜ湿っている?
雨か? いや違う。
これは、もっと……地下のような匂いがする。
「……お客様、この本、いったいどこで?」
「借りたところに返しに来ただけですよ」
「借りたところ、とは……」
「ここです。あなたのところです」
背筋が凍りついた。
「十年前、あなたは私にこの本を渡しました。“読むといい”って。そして、私だけじゃない。あなたも借りたんです」
「私は……そんな記憶は……」
「覚えてないんですね」
女が薄く笑った。
だがその目は笑っていなかった。
「でも、本は覚えています。借りた人の匂いを」
その瞬間、本が勝手に開いた。
ページの隙間から、黒い指のようなものが伸びた。
乾いている。
紙ではない。
正真正銘、人間の指だ。
佐伯は息を飲んだ。
「触らないほうがいい」
女が言った。
「この本は、借り手を探すんです。返しに来た人を食べるわけじゃない。その人の“記憶”が必要なんです。消えた記憶。忘れた約束。本は、それを返してもらいたがっているんです」
ページの奥から、複数の指が這い出た。
二本、三本、四本……
まるで本の中に埋められた人間が、死後に蘇ってこちらへ手を伸ばしているようだ。
そして……
『返せ』
声がした。
ページの奥の暗闇から響く、冷たい囁き。
佐伯の名前を呼んだ気がした。
「返してください。次はあなたの番です」
女が後ずさる。
その足跡は、泥と水で黒く滲んだ。
「ま……待って……!」
女は振り返らない。
自動ドアが開く。
外の暗い夜気が流れ込む。
「私はもう……返しましたから」
ピシャ、と最後の一言を置いて、女は夜の闇へ消えた。
次の瞬間、図書館の照明が一斉に落ちた。
真っ暗。
その中で、佐伯の足首に冷たい指が触れた。
引きずられる。
床をかきむしっても無駄だ。
闇の奥で、ページの擦れる音がする。
返セ。
返セ。
返セ。
肩を掴まれ、背中に冷たい手が滑った。
息ができない。
佐伯の視界が白く染まった。
翌朝。
開館作業に来た職員が見たのは、返却カゴの中にぽつんと置かれた古びた本だけだった。
表紙には、昨日までは無かったはずの文字が浮かんでいる。
『新シイ借リ手ハ 次ノ借リ手ヲ 返却セヨ』
パソコンには最後のログが残っていた。
【返却確認:借り手・佐伯 完了】。
佐伯の姿は、どこにもなかった。
夕方。
図書館の入り口に、一人の少年が現れた。
抱えるのは、薄汚れた古い本。
「すみません……これ、返したくて……」
自動ドアが音もなく開く。
館内に、人の姿はなかった。
しかし奥から、紙の擦れるような声だけが聞こえる。
返セ。
返セ。
次ヲ。
少年は怯えたように本を差し出した。
その表紙には、また一行の文字が染み出すように浮かんでいた。
『借リ手ノ記憶ハ 次ノ頁ニ書込マレル』
本が勝手にパラリと開く。
ページの隙間から、黒い指がそっと覗いた。
図書館は静かだった。
静かすぎた。
その奥深くで、返却され続ける記憶が、また一つページに吸い込まれていった。
都市伝説のように語られることがある。
深夜の図書館で、返却カゴに自分の名前が印字された本が見つかることがある、と。
そんな本を開いてはいけない。
見つけても触れてはいけない。
なぜなら『返却者』は、必ず次の借り手を探しているからだ。




