午前二時の階段
大学二年の春。深夜のアパートは、夜風に揺れる電線の音だけがかすかに響いていた。
隣室の住人はほとんどいない。古くて安い物件だから、夜はいつも静寂に沈んでいる。
そんな夜、サークルから帰宅した綾香は、アパートの前で不思議なものを見た。
階段の踊り場に、スマホが落ちている。
画面は暗く、誰のものかもわからない。
「……誰か落としたのかな」
拾おうと手を伸ばした瞬間だった。
スマホが勝手に点灯した。
真っ黒な画面に、文字が浮かぶ。
【午前二時になったら、階段を見ないでください】
綾香は一歩引いた。
悪戯か、変なアプリか。
だがスマホはロックがかかっておらず、ホーム画面には見覚えのないアイコンが一つだけある。
「なに、これ……“KaidanWatcher”?」
気味の悪さを覚えながらも、綾香はスマホを踊り場に置き直し、急いで自分の部屋へ戻った。
深夜一時五十五分。
布団に入っても、廊下のスマホのことが気になって眠れない。
アプリの名前が頭にこびりついていた。
階段を見るな?
午前二時?
何それ。
綾香はちらりと時計を見る。
デジタル表示が「1:56」を示している。
「……馬鹿みたい。寝よ……」
そう自分に言い聞かせ、目を閉じようとしたそのとき。
階段の方から、カツ、カツ、カツ……と、硬い靴音がゆっくりと上ってくる音がした。
こんな時間に誰?
上の階には誰も住んでいないはず。
音はゆっくり、確実に一段ずつ近づいてくる。
綾香の心臓が痛いほど鼓動する。
「……見なければいい。見なければ……」
だが、スマホの画面が頭をよぎる。
“午前二時になったら、階段を見ないでください”。
時計は――1:59を指していた。
靴音は、綾香の部屋の真横の踊り場に到達したようだ。
ピタリと止まる。
静寂。
綾香は息を殺した。
デジタル時計の数字が、カチリと変わる。
2:00
その瞬間だった。
ドアの郵便受けが、ゆっくり、勝手に開いた。
ギィ……という軋む音。
何かが、郵便受けの隙間から中を覗いている。
綾香は全身が凍りついた。
影が揺れ、ドアの向こうで誰かが身をかがめているのがわかる。
そして、
『……ミ……タ……?』
聞いたことのない、濁った声。
男なのか女なのかもわからない。
「み、見てない……見てない……!」
震える声で呟く。
郵便受けはしばらく開いたままだったが、やがてゆっくり閉じた。
靴音が、また階段を下りていく。
一段ずつ、ゆっくりと。
やがて完全に音が消えた。
翌朝。
部屋を出ると、階段の踊り場にはスマホがまだ落ちていた。
しかし画面には別の文字が浮かんでいる。
【見られずに済みましたね】
その下に、続けて通知が表示された。
【次は “3階の誰か” の番です】
綾香は戦慄した。
このアパート、3階に住んでいるのは……自分だけだ。
スマホの画面に、赤い表示が浮かび上がる。
【次は逃げられません】
綾香は恐怖で声も出なかった。
その瞬間、スマホのインカメラが勝手に起動した。
画面に映ったのは、自分の顔――ではなく、
綾香の“背後の階段”に立つ、白くぼやけた長身の影だった。
次の瞬間、スマホの画面は真っ暗になった。
カツ……カツ……
階段を上る音が、ゆっくりと近づいてきた。




