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灯らない窓

 深夜一時、団地の廊下は風一つ通らず、息を潜めるように静まり返っていた。帰宅が遅れた美沙(みさ)は、薄暗い共有廊下を足早に歩きながら、バッグの中で鍵を探した。

 蛍光灯は二つ切れたままで、夜の廊下は陰が濃い。最上階のこの階は、ほとんど住民がいない。引っ越してきたとき、管理会社も「ここは空室ばかりですよ」と言っていた。


 美沙の部屋は、一番奥の505号室だ。

 そこへ向かう途中、彼女はふと足を止めた。

 暗がりの中、505の向かい――504号室の窓だけが、ぼんやりと淡く赤く灯っていた。

 おかしい。

 あの部屋は空室のはずだ。

 入居者募集の紙も、ずっと剥がれかけたままだった。

 美沙はそっと目を凝らした。

 赤いのは照明の色ではない。もっと生っぽい、炎の裏側のような色。

 しかも、窓の中央に影が立っている。動かない。

 人影……だろうか。

「……誰かいるの?」

 声に出した途端、背筋に冷たいものが走った。

 影の輪郭が、ひどく歪んで見える。


 美沙は足早に自分の部屋へ入った。

 カチリとドアを閉め、すぐチェーンをかける。

 だがそれでも胸のざわつきは収まらない。

 シャワーを浴び、寝る準備をしても、頭の片隅に“隣の空室の赤い窓”がこびりついて離れない。

 眠りにつく直前、美沙はふと気づいた。

 部屋の外からコツ……コツ……と、何か硬いものが壁を叩く音がする。

「……隣?」

 壁に耳を当てると、確かに叩いている。

 リズムも一定だ。

 まるで誰かが、部屋の壁越しに合図を送っているかのように。

 美沙は恐る恐る声を出した。

「……504号室の人、ですか?」

 返事の代わりに、コツ、コツ、コツ。

 叩く回数が増えた。

「……あの、何か……?」

 そのとき。

 壁の向こう側から、低く湿った声がした。

『暗い』

 美沙は飛び退いた。

 人の声。

 しかし、普通ではない。くぐもり、土の底から響いてくるような声。

『暗い……暗イ……アカリ……チョウダイ……』

「……無理。無理無理。誰かが悪戯してるだけ」

 そう言い聞かせ、布団に潜り込む。

 だが壁はいつまでも叩かれ続けていた。

 その晩、美沙はほとんど眠れなかった。



 翌朝。

 出勤前、美沙は思い切って管理会社に電話した。

「504号室に人がいるんです。昨日の夜、明かりがついてて……」

『いえ、あの部屋は今も空室ですよ。他の階と間違えていませんか?』

「いえ、絶対に……」

『では確認しておきます。ですが、鍵は私どもしか持っていませんので……』

 美沙は言葉を失った。

 鍵がないなら、誰も入れないはずだ。

 その日の仕事は、ほとんど手につかなかった。

 そして帰宅時間。

 嫌な予感は的中した。


 505号室の前に立つと、昨夜と同じように、504号室の窓が赤く灯っていたのだ。

 しかも、“影”がこちらを向いている。

 赤い窓を背に、窓いっぱいの闇が、美沙の方をじっと見ていた。

「……嫌だ、もう無理」

 そう呟き、部屋に駆け込んだ途端。

 コン……コン……コン……

 壁がすぐに叩かれ始めた。

「やめて……ッ!」

 悲鳴を上げても止まらない。

 叩き方が昨夜より激しい。

 そしてまた、声がした。

『……アカリ……アケテ……アカリ……ヲ……』

「開けない!絶対!」

 震える声で叫び返すと、叩く音がピタリと止まった。

 静寂が戻ったかと思った瞬間だった。

 ドアの方から、ガサ……ガサ……という乾いた音が聞こえてきた。

 誰かが外で、ドアの前に“何か”を置いた音。

 美沙は恐る恐る覗き穴を覗いた。

 そこで息が止まった。

 ドアの前に立っていたのは、

 昨日、504号室の窓に立っていた“影”だった。

 黒い、輪郭の崩れたシルエット。

 顔も、体の境界も曖昧で、煙のように揺れている。

 影は、覗き穴の位置に顔を寄せた。

 赤い光の反射が、覗き穴いっぱいにじわりと広がった。

『……アカリ……ヲ……』

「ひっ……」

 美沙は覗き穴から飛び退き、すぐにチェーンを確認した。

 だがその直後。

 ガンッ!!

 ドアが激しく叩かれた。

 チェーンが軋む。

 今にも壊されそうだ。

『ア……ケ……テ……アカリ……』

 その声は、もはや人ではなかった。

「イヤ……来ないで……来ないで……っ!」

 泣きながら部屋の奥へ逃げる。

 ドアは叩かれ続け、チェーンは危険な角度でしなる。


 そして、急に、全ての音が止んだ。

 沈黙。

 耳鳴りだけが残る。

 美沙は震える指でスマホを掴み、警察に電話しようとした。

 しかし、画面の上に一つの通知が浮かんだ。


『504号室の窓が開きました』


 団地の古い監視システムからの、自動通知だった。

「……え?」

 美沙はゆっくりと顔を上げた。

 自分の部屋の暗い天井の上で、カサ……カサ……という音がした。

 何かが、天井裏を這っている。

 天井の一点が、ミシ……と沈んだ。

 次の瞬間、赤い光が、天井の隙間から漏れた。

『アカリ……トドケニ……キタ』

 囁き声は、すぐ頭上にあった。


 天井が、抜けた。



 翌朝。

 警察と管理会社は、美沙の部屋で不自然に壊れた天井を見つけたが、彼女の姿はどこにもなかった。

 ただ、隣の504号室だけは、

 昨夜よりも、はるかに濃い赤い光で満ちていたという。

 窓には、新しい影が立っていた。

 人の形に似た、しかし決して人ではない“何か”。

 それは窓越しに、静かに団地の廊下を見下ろしていた。


 次ノアカリヲ マツ。

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