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最後の席

 終電間近の地下鉄。車内はまばらで、静かだった。

 システムエンジニアの 田島亮(たじまりょう)は、重い体を引きずるように乗り込むと、いつもの位置に腰を下ろした。

 七人掛けの長い座席。右端には、誰も座らない席が一つだけある。

 そこは「最後の席」と呼ばれていた。

 会社の若手がふざけ半分に言った噂によれば、

『その席に座って、鏡に自分が映らなかったら、もう戻れない』

 地下鉄の端にある反射板を鏡代わりにして見ると、自分の姿がちゃんと映るはずなのに、映らない人がいるのだという。

 半分冗談、半分怪談。

(くだらない)

 そう信じているはずなのに、亮は、今日に限って胸騒ぎを抑えられなかった。

 照明の蛍光灯が、時折弱々しく明滅する。

 発車のアナウンスが流れ、車両は静かに動き出した。


 亮はふと、向かいの座席の端に座った中年の男と目が合った。

 痩せこけた顔。

 ぎょろりとした目。

 笑っているのか、怒っているのか分からない表情。

 男は動かない。

 まるで人形のように座っている。

(気味が悪いな……)

 視線をそらし、亮は車両前方の反射板に目を向けた。

 鏡のようにかすかに映る車内の光景。

 座っている乗客や、手すり、広告。

 そして、自分の座る「最後の席」。

(ちゃんと映ってる……はず)

 亮はそっと身を乗り出し、反射板を凝視した。

 目を細める。

 そこに映るべき自分の姿が……ない。

 背筋が氷のように冷えた。

(いや、そんな馬鹿な——)

 目をこすり、もう一度見る。

 周りの座席は映っている。

 吊革も、手すりも、広告も。

 けれど、亮が座っているはずの場所だけ、ぽっかりと空白になっていた。

(どういうことだ……?)

 胸がざわつく。

 思わず立ち上がった瞬間、後ろから声がした。


「立たないほうがいいですよ」


 振り向くと、向かいの座席の中年男が、いつの間にかすぐ目の前にいた。

 息がかかるほど近い。

「動くと、気づかれます」

「……気づかれる?」

 男は頷いた。

「座っているときは、まだ“向こう”に見つかりません。でも、立つと……ね」

 ぞくりと背筋が震えた。

「な、何の話ですか」

「知らないんですね。この席の本当の噂」

 男はくすりと笑った。

「この席に座れるのは、近いうちにいなくなる人 だけです」

 亮は一歩後ずさった。

 しかし、足が重い。

「いなくなるって……まさか」

「みんなそう言う。“まさか”とね。でもそれは、もう始まっている」

 男はゆっくりと亮の肩に手を置いた。

 触れられた瞬間、指先から強烈な寒気が走った。

「あなた、気づいていないんですか?今日は、電車が一度も止まっていない」

 亮ははっとした。

 始発駅からずっと乗っている。

 いつもなら、いくつもの駅で停車するはずだ。

 しかし、扉は一度も開いていなかった。

 走行音だけが途切れず、流れる景色はずっと真っ暗だった。

「ここはもう、普通の電車じゃありません」

 男の声は冷たく低く変わった。


「死んだ時に乗る電車を知っていますか? あれは行き先の表示が出ないんです。ずっと先へ行くだけで」

 亮は震えた。

「そんな……俺は死んでなんかーー」

 その瞬間、車内灯がすうっと消え、車両は闇に沈んだ。


 そして、目の前で男の顔がくっきり浮かび上がった。

 目も鼻も口も消えていた。

 あるのはただ、黒い穴のような空洞だけ。


「気づいたなら、もう戻れません」


 亮は叫ぼうとしたが、声は出なかった。

 闇の中、どこからともなく囁き声がした。


『最後の席……』

『おかえり……』

『もうかえれない……』


 足が消えていく感覚。

 体が崩れ、視界が黒に染まる。


 

 気づけば、亮は座っていた。


 同じ車両。

 同じ席。

 同じ姿勢。


 しかし、向かいの座席にいた男の姿はなく、乗客は誰もいなかった。

 目の前の反射板を見る。

 そこには今度こそ自分の姿が映っていた。

 ただし、笑っていた。

 現実の亮は笑っていない。

 反射の中の亮だけ、ゆっくりと口角が上がっていく。

 鏡の中の自分が口を開く。


「次は、ならく」


 電車の案内音声が響いた。

《まもなく、終点。扉が開いても、決して降りないでください》

 車両が止まり、扉が開く。


 暗闇の向こうから、誰かの足音が近づいてきた。

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