絆が丘クインテット、再結成!①
ーーああ、この匂い。懐かしいな。
毛筆の大きな白い字で『ふぇすてぃばる』と書かれた、藍色の暖簾。葛城理沙はその店の前で、もう一度深く息を吸い込んだ。
匂いは古い記憶を呼び起こすのだと、何かの本で読んだことがある。揚げ物とは違う、独特の油っぽさ。こってりした空気に混じって、出汁の香りも漂っている。もんじゃ焼きなんて、もう何年食べていないのだろう? 大学生の頃は、何かと理由をつけて食べに来ていたのに。
ガラガラ、という引き戸の音と共に、理沙は店内へと入った。向かって左側にはテーブル席が、右側には広めの座敷がある。全てのテーブルの中央には、ピカピカと輝く大きな鉄板がはまっていた。待ち合わせまでにはまだ五分ほど時間があったけれど、目当ての座敷には既に二人、先客が座っていた。
「理沙ちゃん!」
爽やか、と表現するのがピッタリな声を聞いて、理沙の胸に再び懐かしさが押し寄せてきた。頭の下の方で括られた、艶やかな黒髪。細いメタルフレームのメガネの奥に、優しい瞳が覗いている。さほど遠くもないのにぶんぶんと手を振る碓氷萌の姿を見て、理沙の口元は思わず緩んだ。胸のそばで、控え目に手を振り返す。
「萌先輩、お久しぶりです」
「ホントだねー! 何年振りだろう。結婚式以来? だよね」
「えっと、誰の結婚式が最後でしたっけ」
「んー……わかんない! でも、『トウカン』の誰かの結婚式だよ」
「何ですか、それ」
バレエシューズを脱いで座敷に上がりながら、理沙は苦笑する。萌が、身体をずらして理沙の分のスペースを空けてくれた。空になった座布団をぼんぼんと叩いて、理沙を誘導する。
「ちょっと早く来て、大学見てきちゃった。すごく久しぶりだったから」
そう言って、萌がスマートフォンの画面を見せてくれる。理沙が覗き込むと、そこには青々とした緑に囲まれた大きな門扉が写っていた。縦書きの立派な字で『東央学園大学』と彫られた看板が付いている。
「……懐かしい。変わらないですね」
「入口はね。でも、中は結構変わってた気がするな。知らない建物があったから」
「キャンパス、入らなかったんですか?」
「入れないよー。もう学生じゃないし、そもそも私、他大生だったしね」
そう言って笑いながら、萌が画面をスワイプする。大学キャンパスの外観が、スライドショーのように次々と表示されていく。その全てにどことなく覚えがある自分が、理沙には不思議だった。
東央学園大学管弦楽団、通称『トウカン』はいわゆるインカレサークルで、理沙と萌は外部の大学からオーケストラに参加していた。自分の大学よりも、何なら、家よりも長い時間を過ごしていた場所。卒業以来ほとんど縁がなくなってしまったけれど、脳の片隅にはちゃんと、当時の記憶が仕舞われていたらしい。
「そういえば、匡くんは? 一緒に来るんだと思ってたよ」
「急に仕事が入ったみたいで。ちょっと遅れるって」
「げ。教師ってマジで休日ないんだな。いやはや、信じがたい」
男性にしては高めの声が、理沙と萌の会話に割って入った。テーブルを挟んで向かいに座る声の主を見て、理沙の眉間に皺が寄る。
「集。もんじゃ焼き屋に持ち込むものじゃないでしょ、それは」
それまで俯いていた岡山集が、理沙の言葉に目線だけを上げた。あぐらをかいた身体の中に、ノートパソコンがすっぽりと収まっている。右耳には、有線のイヤホンがはまっていた。
「言っとくけど、俺は仕事じゃないよ? でも、時間が惜しいわけ」
「……作曲? コンペ、近いの?」
理沙の呆れたような声に、集がニッと笑う。そして彼はまた、パソコンへと視線を戻した。瞳まで届きそうなほど長く伸びた前髪に、大きなメガネ。ひとたび俯くと、表情がほとんど見えなくなってしまった。
「ホント変わらないよねえ、集くん。ミスター・マイペース」
萌が、のんびりとそんなことを言う。理沙は小さくため息を吐いた。
どっちもどっち……そんな単語が理沙の頭を掠めていく。萌はとても大らかで、とりわけ、集に甘い。
「理沙ちゃん、まだ続けてるんだね。オーケストラ」
萌の問いかけに、理沙は小さく頷いた。
「はい。変わらず、トウカンのOBオケで」
「いいなあ〜。私たちに近い代の子たちも乗ってる? 同期の子とか」
「今は……私だけかもしれません。匡も降りちゃいましたし」
「そうらしいね、もったいない。匡くん、あんなに上手なのに」
それは先輩だって同じでしょうーー理沙は、咄嗟に浮かんだ言葉を喉元で揉み消した。萌は、同世代の中でも抜群にファゴットが上手で、『天才肌』という言葉がよく似合うプレイヤーだった。『トウカン』の卒団と同時に楽器も卒業すると聞いたとき、理沙は荒れに荒れたものだ。もったいない、あんなに上手なのに!? と。理沙のように、努力ですべてを捩じ伏せてきた人間には、届きようのない場所にいるにもかかわらず、なぜそれをあっさり手放せるのか……そんな風にグチグチと拗ねていた期間が、それなりに長かった。
「全体調整に出したよ、楽器。楽器屋さんに持っていくの、怖かったなあ……虫歯を見て見ぬふりし続けてきた後の歯科検診みたいだった」
「何ですか、それ」
萌が楽器に対して前向きであることが改めてわかって、理沙はちょっと……いやだいぶ、浮かれていた。ピアノに定期的な調律が必要なように、管楽器にも定期的な調整が必要だ。つまり、今の萌には楽器を吹く意思がある、ということだ。
千可から突然、グループチャットの誘いが来たときは何事かと思ったが、こんな展開になるとは……最近塞ぎ込みがちだった理沙にとって、嬉しいサプライズだった。
ーーまた、萌先輩と一緒に吹ける!
心のうちで静かにはしゃいでいる理沙の横で、萌がぐるっと店内を見回した。
「いやー、しかし変わらないね、『ふぇすてぃばる』。ホント、あの頃のままな気がする」
「変わらなすぎて引きましたよ。入ったとき、ここだけ時間止まってんのかと思った」
顔を上げないままで、集が萌の言葉に応じる。空いている左耳で一応、理沙たちの会話を聞いていたらしい。
「十年ですよ? 十年。俺たちが現役だった頃生まれた子ども、もう小学生ですから」
理沙が、集の言葉を受けてわずかに目線を下げた。萌が身を乗り出して、楽しそうに応じる。
「そう思うと、すごいよね! 割と昨日のことのように思い出せるんだけどなー、現役時代のこと」
「いや、萌さんはマジで変わってないっすよ。二十代と間違われません? そのビジュアル」
「どうせ幼いですよー、私は。でも、集くんだって全然変わってないじゃない」
「えぇ!? そう見えます?」
目の前で弾んでいる会話に、理沙は上手く入ることができなかった。ぐるり、ぐるりと大きく弧を描く大縄跳びの前で立ち尽くしているときのような、疎外感。
「しかし、あの千可ちゃんが結婚とはねー」
しみじみとした様子で、萌が話題を変えた。集がげんなりとしたような表情になる。
「あいつ、あれでも落ち着く気あったんスね。一生遊び回ってるのかと思った」
「あはは。まあ、恋多き女? だもんねー、千可ちゃんは。定期演奏会の度に紹介される彼氏、毎回違う人だったし」
「俺、振られたから付き合え!って部室で捕まって、朝まで居酒屋にいたことありますよ」
「えー、初耳! それ、何人目のとき?」
「えーっと……二年の春の定期演奏会前だから」
そう言いつつ、集が指折りなにかを数え始めた途端、店のドアがガラガラ! と音を立てて開いた。スラリとした高身長の男女が、店に入ってくる。葛城匡と、川俣千可。理沙たちの待ち人が二人、同時に現れた。
「駅で、千可ちゃんと行き合ったんだ。一緒に来た」
千可が、花が咲いたように顔を輝かせる。待ちきれない! と言わんばかりに、理沙たちのいるテーブルに駆け寄ってきた。緩いパーマがかかったミディアムヘアの茶髪が、ふわっと揺れる。
「きゃー、萌先輩! お久しぶりですー!」