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第1巻 第5節

 翌日の放課後、私もいつも通り部室へと向かった。


 ドアを押し開けると、部室には誰もいなかった。あるのは、ブラインドを通して差し込む陽の光が床に落としたまだらな影だけ。丸テーブルの上に散らばった本は、昨日私たちが帰った時のままだった。


 私は窓辺まで歩いていき、苦労して窓を少し開けた。四月の風がひんやりとした空気を運び込み、部屋のこもった空気を吹き飛ばした。遠くからはグラウンドで運動部の叫び声が聞こえ、推理部の部室の静寂と対照的だった。


「やあ、君が新入部員かな?」


 どこかで聞いたことのあるような声が背後から響いた。振り返ると、そこには優しそうな男の先生が立っていた。


「は、はい。望月光です」


 私は慌てて自己紹介した。


「おや?君ってあの転校生じゃないか」男の先生はハッと悟ったような表情を見せた。「確か登校初日に職員室で南さんに絡まれてた子だよね」


 そういえば、彼はどこか見覚えがあったような気がする…


「まずは自己紹介をしよう。私は山城貴志やましろたかし、スクールカウンセラーで、ついでに推理部の顧問もやってるよ」


 山城…山城…


 あっ、思い出した。


 あの日、勢いよく職員室に飛び込んできた南先輩に詰め寄られていた人だ…


「君たちが石原先生の事件を調査してるって、本当かい?」


「え?そ、それは…」


 私は言葉に詰まり、そんな私の様子を見て山城先生は優しい笑みを浮かべた。


「緊張しなくていいよ、責めるつもりはないからね」


 そう言われて、私はまだ完全には安心していなかったが、うなずいた。


「そうか…」


 山城先生は突然、興味深そうに私をじっと見た。


「ねえ、望月さん。君がそんなに石原先生の死を調べることにこだわる理由はなんだい?」


「えっ?」


 この突然の質問に私は言葉を失った。


「だって…石原先生を殺した犯人を見つけて…石原先生の仇を討ちたいから…」


 私はうつむき、声はだんだん小さくなり、最後は呟くような囁きになった。


「そうかい…?」


「む…」


 どう答えればいいのかわからなかった。それを見て、山城先生は思案しながら顎に手を当てた。


「私は石原先生と親しかったわけじゃないけど、同じ学校の先生だから、多少の付き合いはあったよ」


 なぜか、山城先生は突然過去を語り始めた。


「半年前くらいの飲み会でね、石原先生が酔っ払って、そばにいた私に涙を流しながら『今の生活に耐えられない、何かを変えたい』って繰り返し言ってたんだ」


「それって…どういう意味ですか?」


 山城先生はそっと首を振った。


「それは僕にもわからないよ。その時はできるだけ励ましただけだった」


「……どうして、急にそんな話を?」


 山城先生は窓の外を眺めるようにして、ほとんど聞こえない声で呟いた。「さあね…」


「こんにちはー!」


 その時、部室のドアが誰かに押し開けられ、南先輩の元気な声が響いた。


「あれ?山城先生?」


「こんにちは、南さん」


 山城先生はにこやかに南先輩に挨拶し、続けて彼女の後ろにいる川島先輩と黒田先輩を見た。


「川島くんと黒田くんもこんにちは」


「山城先生、こんにちは!」


 川島先輩は熱心に山城先生に挨拶した。黒田先輩は軽くうなずいただけだった。


「ところで、山城先生が今日突然部室に来たのはどうして?」


 南先輩は丸テーブルに鞄を適当に置きながら、ついでに尋ねた。


「随分と変な質問だね、南さん」


 山城先生は肩をすくめた。


「僕は推理部の顧問だよ?ここに来てはいけない理由なんてないだろう?」


「なによ…廃部になりそうな時は、山城先生何もしなかったくせに」


 南先輩は不満そうに口をとがらせた。


 南先輩の愚痴を聞いて、山城先生は大げさに胸を押さえた。


「うっ…否定はできないな…」


 南先輩は腰に手を当て、部下に対するような口調で山城先生に言った。「まったく、ちゃんと反省してよ!」


 南先輩の説教に対して、山城先生はただ笑って何も言わなかった。


 その時、黒田先輩が突然口を開いた。「山城先生、他にご用は?なければ、どうか私たちの邪魔をしないでください。これからやるべきことがありますので」


「黒田くんは冷たいね」山城先生は苦笑いした。「わかったわかった、そんな目で見ないでくれよ。今行くから」


 そう言って、山城先生は去ろうとした。しかし、彼は入り口のところで突然立ち止まった。


「望月さん」


「は、はい?」


 突然名前を呼ばれて、私は胸がドキンとした。


「さっき僕が聞いた質問についてさ、君が答えたこと…それは君の本当の『理由』じゃないんだ。君はただ、自分の『理由』がそうだと『思っている』だけなんだよ」


「え?」


 私が何か返答するよりも前に、山城先生の姿はドアの向こうに消えていた。


「あいつ、わけのわからないこと言って…」


 南先輩は山城先生の去った方向を見つめ眉をひそめた。


「なあ黒田、さっきのはちょっと言い過ぎじゃないか?」川島先輩は黒田先輩に賛同しない目を向けた。「山城先生がここにいても確かに役に立たないけど、そうやって追い出すのは可哀想だろ」


 黒田先輩は隣の川島先輩を一瞥した。


「これから話すことは山城先生には聞かせられない――さもないと、私たちが事件を調査していることがバレてしまう」


「それは…まあそうだけど…」


 川島先輩は小声で呟いた。


 黒田先輩は部室のドアまで歩いていき、そっとドアを閉めた。室内には微妙な沈黙が流れた。


「と、とにかく!」南先輩は手を叩いて沈黙を破った。「まずは昨日の調査結果を共有しましょう!」


 南先輩はカバンからノートを取り出した。そこには昨日の調査結果が書かれている。彼女は軽く咳払いをして、真っ先に報告を始めた。


「私と望月さんは昨日、石原先生のアパートに行って、第一発見者を見つけたの。石原先生の隣に住んでいるおばさんよ」


 …昨日はまだ「お姉さん」って呼んでたのに…


「そのおばさんによると、石原先生は首を吊って自殺したらしいけど、ニュースでは警察がこれは他殺だと考えてるって書いてあった。だから、警察は現場を調べて何かを見つけたんだと思う。それが理由でそう結論づけたんじゃないかな」


 完全に南先輩の言う通りだった。冬坂さんが昨日送ってくれた文書には確かに、事件現場に偽装された痕跡があったと書かれていた。


「それからそれから、事件に関係あるかどうかわからないけど…事件当日に石原先生のところに配達の人が来てたみたい。スニレの社員っぽくて――」


「あ、それについて補足があります」私は南先輩の言葉を遮った。「実は昨日、先輩と別れた後、私もスニレに行って、石原先生のアパートに届けられた荷物について少し聞いてきたんです」


「え?本当?!」


 南先輩は興奮して私の前に詰め寄った。


「う、うん」


 近い…


 南先輩はとてもいい匂いがした。それに気づいた私は無意識に椅子を後ろにずらした。


「荷物の中身は…チョコレートでした」


 私は必死に声を落ち着かせた。


「誰かが石原先生に贈ったプレゼントのようでした」


「チョコレート?」川島先輩は眉をひそめた。「バレンタインプレゼントか?でもバレンタインはまだ先だろ?」


 川島先輩の隣にいた黒田先輩は眼鏡を押し上げた。


「贈り主は誰だ?」


「それ、私にはわかりません」私は首を振った。「その人はスニレに偽の名前と携帯番号を残していました」


 黒田先輩は思案しながら指で机を軽く叩き、規則的なコツコツという音を立てた。


「偽の情報を残すか…つまり自分の正体を明かしたくないわけだ…怪しいな…」


 独り言のように呟き、レンズの奥の目つきが鋭くなった。


「待てよ――」


 川島先輩が突然机を叩いた。


「チョコレート…もしかして毒殺?石原先生はまず毒を盛られて、それから首吊りに見せかけられたんじゃないのか?」


「それは、おそらくありえないと思います」


 私がそう言うと、そこにいた全員の視線が私に集まった。


「だ、だって…」


 私は唾を飲み込み、調査報告書のことを公表すべきかどうか躊躇した。昨日、冬坂さんにこの報告書の存在を他の人には知らせないと約束したからだ。


「だって何だ?」


 川島先輩はせかすように言った。


 ここまで来ては、隠し通すわけにもいかない。私は彼らに全てを打ち明けることにした。


「だって、石原先生は絞殺されたんです。毒で死んだわけじゃありません」


 私は深く息を吸い込み、彼らの追求を待った。


 案の定、黒田先輩がすぐに異議を唱えた。「どうしてそんなことがわかるんだ?」


 彼の目には疑念が渦巻いていた。


「そんな情報、警察は公表していないはずだろ?」


「実は…」


 私はスマートフォンを取り出し、昨日冬坂さんが送ってくれた文書を皆に見せた。


「私、事件の調査報告書を持っているんです」


 その瞬間、全員が凍りついた。どれくらい経っただろうか、南先輩がようやくゆっくりと口を開いた。「えっと、望月さん?それ…冗談じゃないよね?」


「冗談じゃないですよ」


「え?あ、そうなんだ…」


 南先輩の表情は驚きから困惑へ、そして最後に奇妙な興奮へと変わった。彼女は突然私の手首を掴み、指先がかすかに震えた。


「まさか…君、実は警察の潜入捜査官とか?」


 高校生を潜入捜査官にするなんて?そんなことしたらこの国の司法もおかしい。


 私はそっと首を振った。


「この事件を担当している刑事は、私の友達の父親なんです。その友達に頼んで、この報告書を手に入れてもらいました」


「そ、そうだったのか…」


 南先輩は少しがっかりしているようだったが、同時に安堵の気持ちも混ざっていた。


 しかし川島先輩は心配し始めた。「つまり、警察の内部資料ってことか?本当に大丈夫なのか?」


「今はそんなことを考えている場合じゃない」


 黒田先輩は私のスマホの画面に近づいた。レンズが冷たい光を反射している。


「死因は機械的窒息か…確かにチョコレートではこうはならないな…」


 彼の長い指が画面の調査報告書を滑った。


「19時15分、防犯カメラにフードを被った男がアパートに入る姿が映っている…」


「え?防犯カメラに不審者が映ってたの?」


 南先輩はまず驚いた表情を見せ、すぐに憤慨した。


「なによ!昨日の警備員、警察が防犯カメラを調べて何も見つからなかったって言ってたのに!」


「いや、これも確かに決定的な発見とは言えない」


 黒田先輩は首を振り、報告書をさらに下にスクロールした。


「映像が荒く、顔の特徴は判別不能。身長約175cm、痩せ型…この説明は漠然としすぎている」


「つ、つまり…何も得られなかったってこと…?」


 南先輩は少し落胆しているようだった。


「フフン…」


 その時、突然誰かが得意げな笑い声をあげた。私は声のした方を見ると、川島先輩が腕を組み、神秘的な微笑みを浮かべていた。


「ど、どうしたの急に…」


 南先輩は川島先輩の突然の笑い声にびっくりし、警戒して半歩後退した。


「いやあ、俺と黒田の昨日の調査成果、まだ話してなかったよな?」


 川島先輩は神秘的に紙袋をカバンから取り出し、皆の前で揺らした。


「それ何?」


 南先輩は興味津々で手を伸ばしたが、川島先輩は素早くかわした。


「慌てるなよ」彼は得意げにウインクした。「昨日俺と黒田は石原先生が以前住んでいた所に行って、そこの住民たちから面白い噂を聞いてきたんだ」


 黒田先輩は眼鏡を押し上げ、補足した。「石原先生は生前、フードを被った男にしつこく付きまとわれていたようだ」


「フードを被った男?」私の心臓が突然速く鼓動し始めた。


「そうだよ」


 川島先輩はようやくその紙袋を開け、一枚の写真を取り出した。


「他の住人がこっそり撮ったんだ。どうやらあの男はよく石原先生の家の前で待ち伏せしてたらしい」


 写真には、フードを被った男が建物の入り口に立っていた。角度の関係で、男の横顔しか見えなかったが、それでも彼の痩せた顎とすらりとした体格は識別できた。


「待って、この人…」


 写真の人物がますます見覚えのあるものに思えてきた。


「この前、無理やり石原先生の家に入ろうとした男じゃないですか?!」


「なに?!」


 南先輩は急いで川島先輩の手から写真を奪った。


「こ、これがあの男の姿なの?!」


 そういえば、あの時玄関であの男と対峙したのは私で、南先輩は彼の姿を見ていなかった。


「間違いないと思います」


 私は確信を持ってうなずいた。


「この人の体格は、防犯カメラの不審人物とも一致しています」


 黒田先輩が突然立ち上がり、レンズの奥の目が鋭い光を放った。「どうやら核心的な手がかりを見つけたようだな」


「この人の身元はわかってるんですか?」私は詰め寄るように尋ねた。


「わかってるよ」川島先輩は勝ち誇った笑みを見せた。「俺たち、すごく苦労して聞き出したんだから――」


 彼はわざとらしく語尾を伸ばしたが、南先輩が我慢できずに彼のふくらはぎを蹴った。


「痛たた!言うよ言うよ!」


 川島先輩は蹴られたふくらはぎを揉みながら、慌てふためいて言った。「こいつは大河銭三郎おおかわぜにさぶろう、32歳、無職。もともと貧しい生活を送ってたんだけど、交通事故に遭って、多額の賠償金を手に入れたらしい」


 川島先輩は肩をすくめた。


「でも今は元気いっぱいの様子を見る限り、当時は大した怪我じゃなかったんだろうな」


 南先輩は詰め寄った。「で、彼と石原先生の関係は一体何なの?」


「それはな、大河銭三郎の評判は良くなくて、若くて綺麗な女性をよくストーカーしてたらしいよ。さっきも言っただろ?石原先生にもストーカーしてたって」


「ま、まさか許せない!」


 南先輩は怒りで頬を赤らめ、拳を机にドンと叩きつけた。


「まあまあ南、落ち着け。まだ怒る時じゃないよ。これからの話の方がもっとひどいんだから」


 川島先輩は苦笑いしながら手を振った。


「聞くところによると、そこの住民は時々、石原先生の家から罵声や女の人の泣き声が聞こえてきたらしいんだ」


 南先輩の顔色も青ざめ、声を震わせて尋ねた。「まさか…あのクソ野郎が!」


 南先輩は全身が震えていた。


「南先輩…」


 私はそっと南先輩の肩を叩き、彼女の感情を落ち着かせようとした。彼女の肩は張り詰めた弓のように硬く、私の触れたことで微かに震えていた。


「大丈夫…」南先輩は無理やり笑みを作った。「じゃあ、やっぱりこの大河って男が石原先生を――」


「まだ断定はできない」


 黒田先輩は冷静に南先輩の言葉を遮った。


「実際のところがどうなのかは、本人の話を聞いてからでないと結論は出せない」


「え?つまり、先輩たちは大河銭三郎がどこにいるか知ってるんですか?」私は少し驚いた。


「もちろんだ!俺たちを舐めるなよ!」


 川島先輩は私たちに親指を立てた。


「住所まで調べ上げたんだぜ!」


 川島先輩はポケットからくしゃくしゃの付箋を取り出し、得意げに空中で揺らした。


 南先輩はその付箋を奪い取り、素早く住所を目で追った。「銀ノ川町1丁目…学校からすごく近いじゃない?」


「ああ、商店街の裏にあるあの古いアパートだ」黒田先輩は眼鏡を押し上げた。「議論が終わったら、すぐに彼を訪ねるつもりだ」


 私の心臓が突然速く鼓動した。「き、今日行くんですか?急すぎじゃないですか…」


「ちょうどいいタイミングだ」黒田先輩は冷静に言った。「もし彼が犯人なら、長引けば長引くほど逃げる機会を与えることになる」


 南先輩は拳を握りしめ、目に揺るぎない光を宿した。「絶対に直接聞くわ、どうして石原先生にそんなことをしたのか!」


「よし!熱くなってきたぜ!」川島先輩が突然席から立ち上がり、拳を空中に振りかざした。


 どうやら今日は行かざるを得ないようだ…


 私は思わずため息をついた。


 はあ…またあの恐ろしい奴と対峙しなきゃいけないのか…


 ♢


 銀ノ川町1丁目の古いアパートは、私が想像していた以上に荒れていた。外壁のペンキは剥がれ落ち、鉄製の階段手すりは錆だらけで、一歩踏み出すたびにキーキーと耳障りな音を立てた。


「ここだ、203号室だ」


 川島先輩は付箋を見比べ、声を潜めて言った。


 南先輩は深く息を吸い込み、手を上げてノックしようとしたが、黒田先輩にさえぎられた。


「待て」彼は眼鏡を押し上げた。「相手は殺人犯かもしれない。こんなに軽率に行動するのは危険すぎる」


「じゃあどうしろって言うの?」南先輩はイライラしながら彼の手を振りほどいた。


 黒田先輩はカバンから小さな録音機を取り出した。「少なくとも証拠は残さないとな。望月、君はドアの脇に立ってろ。もし何かあったらすぐに通報しろ」


 私はうなずき、黙って廊下の角に下がった。指はすでにスマホの緊急通報ボタンの上に置かれていた。


「準備はいいか?」


 黒田先輩は私たちを一瞥し、肯定の返事を得ると、手を上げてドアをノックした。


「誰だ?」


 ドアの向こうからしわがれた男の声が聞こえた。


 黒田先輩は深く息を吸い込んだ。「私たちは銀川高校の生徒です。いくつか質問があります」


 ドアの向こうの男はしばらく沈黙した後、怒鳴り返した。「お前らガキどもと話すことなんて何もねえ!さっさと失せろ!」


 男の声が廊下全体に響き渡り、廊下のセンサーライトを明滅させた。


 しかし黒田先輩は一ミリもひるまなかった。彼は再びドアをノックし、さらに強い口調で言った。「私たちの質問に答えるまでは、ここを離れません!」


「……」


 ドアが突然勢いよく開かれ、あの日石原先生の家の前で見た顔が再び私たちの前に現れた。


「お前ら本当に死にたいのか…」


 大河銭三郎は陰険な顔で入り口に立ち、濃厚な煙草と酒の匂いを漂わせていた。


 黒田先輩は大河の脅しを無視し、鼻の上の眼鏡を押し上げた。「君は昨日の午後7時過ぎに石原先生のアパートに行ったんだろう?」


「はっ、何言ってんだかわかんねえよ…」


「ふざけるな!」


 南先輩が突然前に飛び出し、怒りで声が震えた。


「防犯カメラに映ってるんだぞ!昨日確かに石原先生のアパートにいたじゃないか!」


 確かに防犯カメラの映像は荒く、映っている人物が大河銭三郎かどうかは識別できなかったが、こういう時は虚勢を張るのが効果的だ。


 大河銭三郎の表情は明らかに動揺しているように見えた。


「ちっ、行ったよ、それがどうした?」


 ほら、効いた。


 黒田先輩は続けて尋ねた。「君はもう石原先生のことを知っているんだろう?」


「知ってるよ、あの女が死んだってことだろ?」大河銭三郎は嫌な笑みを浮かべた。「でも俺には一切関係ねえ!」


 大河のこの言い分を聞いて、川島先輩は眉を上げた。


「はあ?そんなウソ誰が信じるんだよ――」


 川島先輩の言葉が終わらないうちに、黒田先輩が遮った。「石原先生の死亡推定時刻は昨日の夜の7時から8時の間だ。そして君が石原先生のアパートに行った時間もその時間帯だ。君がこの事件と無関係なわけがない」


「う、うるせえ!関係ねえって言ってんだろ!」


 大河銭三郎の額に細かい汗が滲み、目が泳ぎ始めた。


「そ、それとも…お前らガキども、俺があの女の家の中に入ったって証拠でもあるのか?な?!」


「そ、それは…」


 黒田先輩は思わず半歩後退した。


 防犯カメラはアパートの入り口に設置されていた。大河銭三郎が映っていたとしても、彼がアパートの建物に出入りした瞬間しか撮影できず、彼が現場に入った証拠にはならない。


 つまり、私たちの手元には確かに彼と石原先生の死に関係がある証拠はなかった。しかし、今それを認めてはいけない。


「そ、確かに…私たち…」


 黒田先輩は確かに根拠がないことを認めようとしているようだった。


 私は目を閉じ、深く息を吸い込み、そして――


「証拠はあります!」


 この瞬間、私は何も見えなかったが、皆の視線が私に集まっているのを感じた。その中に一筋、特に凶暴な視線があり、思わず唾を飲み込んだ。


「証拠があるって言うのか?だったら早く出してみろよ!」


 大河の声はとても切迫しているように聞こえた。


 同時に、耳元に南先輩の声が聞こえた。


「本当に大丈夫?望月さん?」


 大丈夫なわけがない…証拠があるならとっくに出してる…


 でもここまで言ってしまったら、黙ってはいられない。


 だから私は再び深く息を吸い込み、そして目を開けた。


「私たちには…証言者がいます」


「何だ?」


 大河は眉をひそめた。


「……石原先生の隣に住んでいるおばさんが、事件発生時にあなたが石原先生の家に入った瞬間を目撃したんです!」


 私は不安な気持ちで大声でそう叫んだ。そばにいた南先輩は心配そうな目を私に向けた。


「わ、望月さん?」


 彼女の口調には困惑と不安が満ちていた。


 その時、大河銭三郎が突然甲高い笑い声を上げた。


「そんな虚勢が通じると思ってんじゃねえぞ、この小僧!」


 大河銭三郎は地面に唾を吐いた。


「お前ら知らねえだろ、あの時近くにおばさんなんていなかったんだ!目撃者がいるってのは嘘だ!」


 ……


 一瞬、まるで世界が静まり返ったようだった。大河銭三郎の先ほどまでの勝ち誇ったような醜い笑みも、徐々に顔に固まっていった。


「なるほど…」


 私は片手であごを支え、思わず口元を上げた。


「『あの時近く』…か…」


 大河の表情が突然険しくなり、彼は猛然と後ろに下がりドア枠にぶつかり、「ドン」という鈍い音を立てた。


「このクソガキめ…」


「どうやら状況は非常に明白になったようだな」黒田先輩は冷たい視線で相手を見つめた。「大河銭三郎、君こそが石原先生を殺害した犯人だ!」


「…はあ」


 なぜか、大河銭三郎は不気味な冷笑を漏らした。


「青二才のガキどもが、いつも警察の真似事をしたがる。なあ、探偵ごっこもそろそろ飽きたんじゃねえか?」


「てめえ、何が言いたいんだよ?!」


 川島先輩が一歩前に出て、拳は真っ白になるほど握りしめられていた。


 しかし大河銭三郎はただ軽蔑したように彼を一瞥した。


「俺が犯人だ?笑わせるな!俺は確かに昨日の夜、あの女のところに行った。でも玄関で10分くらいノックしてたんだ、全然反応がなかったから、それで帰ったんだ。部屋の中で何があったかなんて、知るかよ!」


 そう言いながら、大河は川島先輩を押した。川島先輩はよろめき、地面に倒れそうになった。


「さっさと消えろ!時間の無駄だ」


「くっ…ちくしょう…」


 川島先輩は悔しそうに大河を睨みつけたが、相手はすでに振り返ってドアを閉めようとしていた。その千鈞一髪の時、南先輩が突然前に飛び出し、閉まろうとするドアに体を押し付けた。


「待って!あなた、どうして昨日の夜に石原先生のところに行ったのか、まだ説明してないわよ!」


 南先輩の声は微かに震えていた。怒りか恐怖か、どちらかだろう。


「説明する義務なんてねえ!」


 大河はそう言いながら、力いっぱいドアを押し続けた。どうやら答えるつもりはないようだ。


 しかし、彼が石原先生のところに行った理由は、私にもだいたい推測がつく。この男が口を開かないなら、私が教えてやろう。


「あなたが石原先生のアパートに行くのは初めてじゃないんですよね?」


 大河がドアを押す動作が突然止まった。


「覚えてます?事件の前日、私たちは石原先生の家の前で会いました」


「……」


 大河は再びドアを開け、凶悪な目つきで私の全身をじろじろ見た。


「ああ…思い出したよ、お前はあの時ナイフを持ってたガキか…」


 彼は私のスカートを一瞥した。


「ガキの小娘かよ…」


 私はできるだけ彼の不快な視線を無視し、話を続けた。「あなたは以前から若くて綺麗な女性をよくストーカーしていて、石原先生もその一人です」


「何が言いたいんだ…?」


「あなたが石原先生のアパートに侵入しようとした目的…彼女を犯そうとしたんですよね?」


 こう言う時、なぜか私の口調はとても落ち着いていた。その落ち着きとは対照的に、南先輩は衝撃を受けた表情だった。


「なに――?!」


 南先輩は急いで私の方を見た。瞳孔が激しく収縮した。


「望月さん、それ本当なの?!」


「この男の評判を考えれば、そう考えざるを得ません」


 私は大河を見た。彼の表情は先ほどと変わらず、彼の沈黙は少し気になったが、今はまず自分の推測を言い終えよう。


「事件の前日、この男は石原先生をレイプするためにアパートに侵入しようとしたが、私に阻止された。だから彼は翌日またそこに行ったんだ」


 私の脳裏に突然、初めて大川と対峙した時、大河の衝撃でギーギーと音を立てたドアチェーンが浮かんだ。


「つまり、たとえ石原先生がドアを開けなくても、彼は無理やりドアを破って入ろうとしたはずで、ただ去ったりはしなかった!」


 言い終わってから、私は再び大河を見た。彼が狼狽したり怒ったりする表情を見せると思っていたが、彼は一貫して余裕のある態度を崩さなかった。


「お前は、あの夜俺があの女を犯しに行ったって言いたいのか?」


「そ、そうじゃないのか?!」


 川島先輩の厳しい詰問に対して、大河はただ軽蔑したように口を歪め、驚くべき事実を投げつけた。


「あの女、とっくに味わったぜ?」


 大河銭三郎は口を大きく開け、得意げで悪意に満ちた笑みを見せた。


「ウソつけ!」


 南先輩は全身が震え、ほとんど飛びかからんばかりだったが、黒田先輩が必死に彼女を押さえていた。


「石原先生があなたみたいな人間と!」


「本当だぜ」


 大河は冷笑し、ゆっくりとポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出し、一本くわえて火をつけ、深く吸い込み、煙を南先輩の方へ吹きかけた。


「俺のケータイにはあの女の淫らな姿の写真が入ってるんだ、見てみるか?」


「なっ…なにが…」


 南先輩はまるで首を絞められたように、少しの音も出せなかった。


「それに、お前らが言ってる…俺が彼女を無理やり?ハッ!冗談はやめてくれよ!」


 彼の視線は私たち数人の間を往復し、最終的に私の顔に定まった。


「もし本当にそうなら、なぜ彼女は警察に通報しなかった?」


「え、え?」


 大河は冷笑した。


「俺はとっくにあの女を手に入れてた。もし俺が彼女を無理やりにしたなら、あの女が死ぬまで、彼女には通報するチャンスはいくらでもあったはずだ。でも彼女はそうしたか?してねえだろ?」


「それは…確かに…」


 認めたくないけど…


「それに、お前は俺が無理やり家に入ったって言うのか?だったらドアは壊れてるはずだろ?今すぐ彼女の家のドアを調べてみろよ、本当に壊れてるのか」


「む…」


 実際には調べる必要すらなかった。冬坂さんが送ってきた資料には、現場のドアの鍵には破壊された痕跡がないと明確に書かれていた。


「どうやら言うことなしか」


 大河のこの一連の言葉は棍棒のように、私の頭頂を強く打ちつけた。私は口を開け、何かを言おうとしたが、一言も反論の言葉が出てこなかった。


「これでわかったか?」


 大河は手に持っていた火のついた煙草を地面に投げ捨て、靴底で強く踏みつぶした。


「あの女は自ら進んでやったんだ。無理やりなんてものは一切ねえ」


「ウソよ…」


 このかすかな反論が南先輩の最後の力を尽くしたようだった。彼女は一瞬でぐったりとし、黒田先輩が支えていなければ、立っていることすら難しかっただろう。


「ふん!ウソかどうかはお前らも心の中ではわかってるんだろ?」


 む…反論できない…


 石原先生がこんな人間クズと関係を持とうとは信じられないが、今や証拠が目の前にあり、疑う余地もない…のか?


 私の脳裏に突然、ある言葉が浮かんだ――「絶体絶命の時こそ、余裕の笑みを浮かべよ」。


 多分どこかのキャラクターの名言だろう。誰が言ったのかはもう覚えていないが、この言葉は今の状況に完璧に合っていた。


 だから私は深く息を吸い込み、無理やり自分を落ち着かせた。今こそしっかり考えなければならない。


 石原先生がこの男と関係を持ち、警察に通報しなかった。これは否定できない事実だ。


 問題は、なぜ石原先生がそんなことをしたのかだ。


 今でも石原先生が完全に自発的だったとは信じられない。あの日、大河が無理やり家に入ろうとした時、石原先生はまだ微かに震えていた…この心からの恐怖は演技ではできない。


 私が唯一考えられる説明は、石原先生が大河に何か弱みを握られていて、それで抵抗できなかったということだ。


 では、その弱みとは何だったのか?


 そうだ、大河がさっきケータイに石原先生の性的な写真を保存していると言っていた。これが原因かもしれない?


「……」


 私はすぐにこの仮説を否定した。こんな方法はまともじゃない漫画の中だけで通用するものだ。石原先生が握られた弱みはもっと深刻なものだったはずだ…


 『悪魔に惑わされたからね…』


 その瞬間、私はまるで雷に打たれたように、恐ろしい可能性が頭に浮かんだ。


「まさか…そんなこと…」


 あまりにも衝撃的な事実のため、思わず一歩後退し、背中が冷たい壁にぶつかった。


「望月さん?どうしたの?」


 南先輩の心配そうな声がそばから聞こえたが、私の耳はただブンブンと鳴っているだけだった。


 大河銭三郎は私の異常に気づいたようで、目を細め、身の毛もよだつ笑みを見せた。


「どうやらわかったようだな、あの女は――」


「違います」私は彼の発言を遮った。「石原先生は…あなたに脅されていたんですよね?」


「はあ!何を言い出すかと思えばな」


 大河は大げさに両手を広げ、ますます図々しい笑みを見せた。


「俺が彼女を脅した?じゃあ言ってみろよ、どうやって脅したんだ?」


「望月さん…」


 南先輩が心配そうに私を見た。


「大丈夫です」


 私はそっと彼女にうなずき、視線を再び大河に向けた。


「石原先生はかつて、自分が悪魔に惑わされたと言っていました。なら合理的に推測すれば、彼女は感情的になって取り返しのつかない過ちを犯したのでしょう」


「と、取り返しのつかない過ち?」


 南先輩の口調には混乱が満ちていた。


「半年前、石原先生は誰かに、今の生活に耐えられないと漏らしていました。この取り返しのつかない過ちは、それに関係しているはずです」


 私は間を置いた。


「石原先生が自分が悪魔に惑わされたと言った時、彼女は自分の右手――正確には右手の薬指を見ていました。私は以前、彼女の右手の薬指にはっきりとした跡があることに気づいていました」


「指輪の跡だ…」


 黒田先輩が小声で言った。


「その通りです」


 私はうなずいた。


「薬指に嵌める指輪で、私が一番可能性が高いと思うのは結婚指輪です」


「……」


 大河の表情が一瞬変わったようだった。


「この指輪――あるいは石原先生にこの指輪を嵌めた人が、石原先生が過ちを犯した原因だと思います…」


 私は深く息を吸い込み、大河の憎むべき顔をまっすぐ見つめた。「石原先生は…自分の夫を殺したんです」


 ♢


 空気が一瞬で凍りついた。


 廊下にはセンサーライトのジージーという電流音と、全員の荒く抑えた息遣いだけが残った。


 どれくらい経っただろうか、震える声が沈黙を破った。「望月さん、そんなの本当じゃないよね…」


 声の主――南先輩の声には嗚咽が混じっていた。


「石原先生が…そんなことするわけない…」


「南先輩…」


 こんなにも脆い南先輩を見て、私は胸が痛んだ。できれば、こんなことを認めたくなかった。


 私は大河を見た。今の彼は顔面蒼白で、先ほどの高飛びな態度はすっかり消えていた。


「はあ、はあ!まず俺で、今度はあの女か…てめえ…いったい何人を殺人犯扱いするつもりだ?」


 口ではまだ強がっていたが、声の震えが彼の動揺を露わにしていた。


「ねえ」川島先輩が突然私の肩をポンと叩いた。「石原先生は一体どうして自分の夫を殺したんだ?」


 私が口を開いて説明しようとした時、黒田先輩が先に答えた。「彼女が長年家庭内暴力を受けていたからだ」


「え?」


 川島先輩は呆然とした。


「それ、どうしてわかるんだ?」


 黒田先輩は彼を白目で見た。


「自分で調べたんじゃないのか?石原先生の家から時々罵声や女の泣き声が聞こえてきたって」


「ああ!そうだった!」


 川島先輩はハッと悟ったように額を叩いた。


「だからあの声は…」


 黒田先輩は眼鏡を押し上げた。


「石原先生は長年、夫からの暴力虐待に苦しみ、ついに我慢の限界に達して、相手を殺害した」


「そして大河銭三郎、君は偶然その秘密を発見した」


 私は大河の泳ぎ続ける目をじっと見つめた。


「君はこの点を利用して石原先生を脅し、関係を強要した」


「た、仮にそうだとして…」


 大河の額に汗がにじんだ。


「彼女が虐待されて自分の旦那を殺したなら、俺がどうしてあの女を殺す理由があるんだ?」


 私はすぐには答えず、頭を南先輩の方に向け、彼女に質問した。


「南先輩、事件の当日の午後、私たちが石原先生を訪ねた時、学校に戻るかどうか尋ねたのを覚えていますか?」


「え?うん、うん」


 南先輩は当時の場面を必死に思い出そうとした。


「石原先生の返事は『行くよ』だった…それだけだった…」


 私の記憶でもそうだった。


「でも彼女はあなたを騙したんです、南先輩」


 南先輩には少し残酷かもしれないが、真実を明らかにするために、私は続けた。


「当時、石原先生はもう学校に行けないとわかっていました」


 私の脳裏に当時の石原先生の悲しい表情が浮かんだ。


「ふん!まさかあの女が自分が死ぬってわかってたなんて言うんじゃねえだろうな?」


 大河は冷笑したが、まだ自信がなさそうだった。


「もちろん違います」


 私は首を振った。


「当時、石原先生は自首するつもりだったんです。警察に夫殺しの罪を告白するために」


 大河の体がガクンと震え、顔色が一瞬で真っ青になった。


「あの夜、君は石原先生のアパートに行き、ちょうど警察に自首しようと外出しようとしていた石原先生に遭遇した。君はいつものように彼女に無理な要求をしたが、自首を決意した石原先生はもう君の脅しに屈さず、君を拒否した」


「拒否されて逆上したのかもしれない。あるいは石原先生が自首すれば、自分も責任を追及されると気づいたのかもしれない。そして君は彼女を殺した」


 私が推理した事件の経緯を聞き終えた後、大河銭三郎の顔の筋肉が制御不能に震え始めた。


「でたらめ!お前の言ってること全部根拠のないこじつけだ!」


「ここまで来て、まだ石原先生を殺した真犯人だと認めないのか?」


 川島先輩は非常に軽蔑した目で今必死の男を見つめた。


「そんなの当たり前だろ?!」大河は自分を詰問する川島先輩を睨みつけた。「あの女は自分で思い詰めて、自分で首を吊って死んだんだ!俺とは一切関係ねえ!」


 本当にしつこい男だ。私ももう我慢の限界だ。


「あなたがこの事件と関係ないと言うなら、どうして石原先生が吊り下げられて死んだと思ったんですか?」


「そ、それは…ニュースで…そうだ!ニュースで見たんだ!」


 私は首を振った。


「ありえません。ニュースは警察がこの事件を他殺と見なしていると明確に述べています。つまり、目撃者と犯人以外、当時の遺体の状態を知る者は誰もいません」


 私は目を細めて大河の困惑した顔を見つめた。


「あなたはこれまでずっと、事件当日に石原先生の部屋に入っていないと主張していましたよね?」


「…はあ」


 大河は突然冷笑し、顔の狼狽が次第に歪んだ険しさに変わっていった。


「望月さん!下がって!」


 南先輩が突然叫んだ。私は反応する間もなく、大河がドアの後ろから冷たい光を放つ果物ナイフを抜き、私の体に向かって突き刺してきた。


 これは死ぬ!


 私は無意識に目を閉じたが、想像した痛みは来なかった。同時に、悲鳴が聞こえた。


 私はゆっくりと目を開けた。そこには川島先輩がいつか私と大河の間に飛び込んでいて、大河の刃物を持った手が宙に浮かび、川島先輩にしっかりと握りしめられていた。


「て、てめえこの野郎!」


 大河の顔は苦痛で歪んでいた。川島先輩の力が強まるにつれ、大河の手から果物ナイフが床に落ち、ガチャンと音を立てた。


「南、早く通報しろ」


 黒田先輩はそばにいる南先輩に指示した。


「お前ら…お前らこのクソガキども…」


 大河は窮地の獣のような目つきを見せた。川島先輩がさらに大河の行動を制限しようとした時、相手は猛然と力を入れて川島先輩の手を振りほどいた。


「まずい!逃げるぞ!」


 川島先輩は急いで前に出て大河を捕まえようとしたが、相手は先にドアの内側に飛び込んだ。


「ちくしょう!鍵をかけた!」


 川島先輩は前進して激しくドアを叩いたが、中から聞こえるのは慌ただしい足音と窓が勢いよく開けられる音だけだった。


「窓から逃げた!」


 黒田先輩はすぐに気づいた。


「急いで追いかけろ!」


 彼の一声で、私たち四人はすぐに階段を駆け下りた。


 ♢


 私たちが階下に降りると、周囲を見渡して大河の姿を探した。しかし夜はすでに深く、古いアパートの周りの路地は複雑に入り組んでいて、しばらくは彼の姿を見つけられなかった。


「分かれて探せ!」


 黒田先輩は即断した。


「俺と南は左!川島と望月は右へ!」


 私たち四人はすぐに二組に分かれ、反対方向へと走り出した。私と川島先輩は右側の狭い路地を走り、耳元には慌ただしい足音と互いの荒い息遣いが響いた。


「あいつは遠くへは逃げられない!」川島先輩は歯を食いしばって言った。「きっとこの辺りに隠れてるはずだ!」


 私はうなずき、考えられる隠れ場所を一つ一つ見渡した。その時、前方の角に黒い影が一瞬走り過ぎるのに気づいた。


「あそこ!」


 私は影の消えた方向を指さした。川島先輩は二の言もなく、足を速めて走り去った。


 待って――速すぎる!


 川島先輩は運動が苦手な私を全く顧みず、角の向こうに消えた。


「はあ…はあ…無理…」


 私は膝に手を置き、荒い息を吐いた。汗が頬を伝って落ちた。さっき影が消えた方向から数声の犬の吠え声が聞こえた。


 私が気を取り直し、川島先輩のところへ向かおうとした時、荒い手が突然背後から私の口と鼻を覆った。


「むむ!」


 背後からは吐き気を催すような煙草と酒の匂い、そして大河銭三郎の狂気じみた声が聞こえた。


「あのバカ女が自分で決めたことだ…俺のおもちゃとして大人しくしてりゃ…絞め殺すことなんてなかったのに…」


 やっぱりこの男だ!


 彼は顔を私の耳元に近づけ、湿った熱い息が私の肌にかかった。


「お前が余計なことをするから…あの女のところへ送ってやる…」


 大河の声には殺気が満ちていた。このままでは危ない!


 だから私は本能的に必死でもがいた。普通なら女子高生の力が中年男性に敵うはずはないが、彼の力は思ったよりも弱かった。


 だから私は少し力を入れ、大河の拘束を振りほどき、振り返って全身の力で彼を押した――


「ドン!」


 大河の後頭部が路地の煉瓦の壁に激しくぶつかった。彼は目を見開き、壁に沿ってゆっくりと滑り落ち、最後にはぐったりと地面に倒れた。


「死、死んだのか…」


 思わず唾を飲み込み、そっと大河のそばに近づき、手を伸ばして彼の息を探った――


「生きてる…」


 私はほっと一息ついた。


 普通なら正当防衛と見なされるはずだが、こんな人間のクズのために手を血で汚すのは割に合わない。


「おい!大丈夫か!」


 川島先輩の声が路地の入り口から聞こえ、続いて慌ただしい足音がした。彼は私の前に駆け寄り、私と気絶した大河の間を目で行ったり来たりした。


「こいつ…お前がやったのか?」


 川島先輩は目を見開き、声には信じられないという気持ちが満ちていた。


「え…う、うん」


 私は躊躇しながらうなずいた。


「人を見かけで判断しちゃいかんな…」


 川島先輩が私を見る目に突然敬意が混ざった。


「とにかく、無事でよかった」


 川島先輩はスマホを取り出し、ここでの状況を黒田先輩たちに知らせた。


 しばらくすると、黒田先輩と南先輩も現場に駆けつけた。南先輩は私を見るなり飛んできて、私の肩をしっかり掴み、上から下まで見た。


「望月さん!大丈夫?怪我は?」


「わ、私、大丈夫です、南先輩」


 ただ少し驚いただけです。


 黒田先輩はしゃがみ込んで大河の様子を調べ、眼鏡を押し上げた。「気絶しているだけだ。川島、縛れ」


「了解!」


 川島先輩はカバンから事前に用意したロープを取り出し、手際よく大河の手足を縛った。


「君たち…ロープまで準備してたの?」


 私は少し驚いて彼らを見た。


 南先輩は申し訳なさそうに笑った。「黒田くんが万が一に備えてって言うから。まさか本当に使うことになるなんて」


 その時、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえた。


 川島先輩は立ち上がり、手の埃を払いながら、重荷を下ろしたように感慨深く言った。「これでようやく終わったな」


 ♢


「すまない…」


 大功労者として扱われると思っていた私たちは、駆けつけた冬坂刑事にさんざん叱責されていた。


「お前らガキどもは無茶すぎる!勝手に殺人犯を追いかけるなんて?!もし何かあったらどうするんだ?!」


 む…反論できない…


「まあまあ」


 森村医師が横から割って入った。


「確かにこの子たちは軽率だったけど、事件の真犯人を見つけるのを手伝ってくれたじゃないか。これって大功一件ってことでしょ?」


「ふん」


 冬坂刑事は冷たく鼻を鳴らし、それ以上は言わなかった。


「でもなあ、君たち本当にすごいな!」


 森村医師はにこにこと私たちを見た。


「まだ高校生なのに、事件をこんなに詳しく調べて、警察ですらまだ完全に掴んでいなかった手がかりまで見つけちゃうなんてね!」


「あ、褒めすぎです…」


 思わずうつむいてしまった。褒められるのはなぜか照れくさい気がした。


「そうだそうだ!」


 森村医師は何かを思い出したように手を叩いた。


「あの気絶してた奴は?相手が殺人犯とはいえ、僕は医者だから放っておくわけにはいかない」


 黒田先輩は路地の奥を指さした。「あそこだ。俺たちが縛っておいた」


「おおお!頼もしいなあ!」


 そう言って、森村医師は大河の方へ歩いて行った。


「まったく、今時のガキどもは舐められないな…」


 冬坂刑事は呆れたように首を振った。彼の言葉が称賛なのか皮肉なのかはわからなかった。


「では、後は警察に任せよう」


 彼は私たちに向き直り、口調が厳しくなった。


「君たち、これから絶対にこんな危険なことをしちゃいけない、わかったな?」


「は、はい…」


 私たちは揃ってうつむいた。


 その時、森村医師が青ざめた顔で戻ってきた。


「先生、犯人の容体はどうだ?」


 冬坂刑事は何気なく尋ねたが、森村医師の表情が異常に険しいことに気づき、思わず眉をひそめた。


「一体何があったんだ?」


 森村医師は冬坂刑事を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「犯人…死んでいます」

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