第1巻 第4節
「ああーはあっ」
教室の窓から差し込む朝の光が、私の机に斜めに降り注いでいる。私はしょぼしょぼした目をこすりながら、大きなあくびをした。
「望月さん、すごく疲れてるみたいね」
いつからそこにいたのか、冬坂美穂がストロベリーミルクのパックを手に、私の机のそばに立っていた。
「ああ…昨日はあまり寝てなくて」
私は曖昧に応えて、思わず目の下のクマを触ってみた。
昨日はあまりにも多くのことがあり、体はすでに疲れ切っていたのに、千代子さんのアパートに戻ったら杏子ちゃんの説教まで聞かなきゃいけなかった——ほんとに、彼女の説教は長すぎるんだから……
でも、文句は文句として、杏子ちゃんの気持ちは理解できた。
説明もせずに勝手に夜に出かけたことについては、本当に申し訳なく思っていた。特に、携帯に杏子ちゃんからの着信履歴が十件以上もあったのを見て、その気持ちはさらに強くなった。
……次は、携帯の通知ミュート機能を切っておこう……
私はそっとため息をついた。
すると、少し離れたところから、何人かの生徒のひそひそ話が聞こえてきた——
「ねえねえ、聞いた…?」
「マジで…?」
彼らの話す時の大げさな様子を見れば、何の話かは言わなくてもわかる。きっと石原先生が殺された事件のことだ。昨日ニュースを見た瞬間、このことが学校で噂されるだろうと予感していた。
人はいつもそうだ。良くても悪くても、自分に関係のないことなら、気軽に話題にできる。
でも、私も人のことは言えない……もし石原先生を知らなければ、きっと彼らと同じように、今回の悲劇をただの雑談のネタにしていただろう。
そう思うと、またため息が出そうになった。
「ため息ばかりついてると、顔にしわが寄っちゃうよ」
冬坂が手にしていたストロベリーミルクを私の机の上に置いた。
「はい!これを飲んで元気出してよ」
彼女の顔には心配そうな微笑みが浮かんでいた。
「あ、ありがとう……」
私は少し戸惑いながらストロベリーミルクを手に取った。冷たい感触が指先から伝わり、いくらか眠気が覚めた。
ストロベリーミルクか…子供の頃は結構好きだったんだよな、甘ったるい味に幼い私はいつも夢中だった。
ストローをパックに差し込み、ストロベリーミルクを少しずつ飲んだ。冷たい液体が喉を滑り落ち、さわやかさを感じさせてくれた——今は全く甘く感じなかったけれど。
「よお!ヒカルン!」
渡辺陽太が突然後ろのドアから飛び込んできた。彼は三歩を二歩にする勢いで私の席まで駆け寄り、私の机に両手をついた。
「おはよう、渡辺くん」
私はバカみたいな顔をした渡辺に微笑みながら挨拶した。
「それに言ったでしょ?そんな変な呼び方で呼ばないでって」
「え?言ったっけ?」
……はあ、もういいか。
渡辺の呼び方の問題については、もうこだわらないことにした。彼の性格からして、どう直しても無駄だろうから。
すると、渡辺は突然声を潜め、こそこそと言った。「聞いたか?学校の先生が殺されたって話」
「知らないわけないでしょ…」
渡辺が神秘的な様子を見せていたけれど、この話は全然秘密なんかじゃない。だってついさっきまで、あんなに熱心に話していた人がいたんだから。
「なんだー、みんな知ってるのかよ」
渡辺はがっかりした顔をした。
「今学校中でその話をしてるんだから、知らないほうが難しいわよ」
冬坂は呆れたようにため息をついた。どうやら彼女はこういう話題があまり好きではないようだ。
「そうだ美穂、この件について隆之おじさんから何か聞いたことあるか?」
「隆之おじさん?」
渡辺の口から突然見知らぬ名前が出てきた。
「ああ、美穂のパパのことだよ」と渡辺が説明した。「え?ヒカルン知らなかったの?美穂のパパは刑事なんだぜ」
渡辺がそう言うと、少し思い出したような気がした…
そうだ、昨日の夜の刑事さんも冬坂って言ってた。つまり、あの人が美穂の父親ってこと?うーん…二人は全然似てないなあ…
渡辺の話が終わると、冬坂は手を伸ばして軽く彼の頭を叩いた。
「望月さんがそんなこと知るわけないでしょ…私が話したことないんだから」
実は昨日の夜に気づくべきだったんだ…
「で?隆之おじさんから何か聞いた?事件に関することなら何でもさ?」
渡辺は冬坂に近づき、期待の光を目に輝かせながら尋ねた。
「パパは仕事の話は私に絶対しないの」と冬坂は首を振り、渡辺の顔を押しのけた。「それに、こういうことはあまり詮索しないほうがいいよ…」
「なんだよ、つまんねー」
渡辺は口をとがらせた。
「まあそうだな、殺人事件なんて警察に任せとけばいいんだ。そうだそうだ、もうすぐゴールデンウィークだぞー」
渡辺はまたあのバカっぽい表情を見せて、話題を殺人事件から迫りくる休みに移したが、私は今そんな気分ではなかった。
「冬坂さん、お願いがあるんだけど」
私は真剣な表情で渡辺の話を遮った。
「な、なに?」
冬坂は一瞬呆気に取られ、私が突然こんなに真面目になるとは思っていないようだった。
私は深く息を吸い、声を潜めて言った。「事件の進展を知りたいの…冬坂さん、お父さんに聞いてみてもらえないかな?」
「え、えっ?」
冬坂はとても驚いたようだった。
「望月さんまでそんなことに興味があるの?あっ!もしかして陽太の影響で…」
「違う違う!これは私自身の意思なの…」
私は慌てて説明した。
「実は、殺されたあの先生、知ってるんだ」
「なにっ?!」
冬坂と渡辺は同時に目を見開き、声を思わず八度ほど上げてしまった。周囲の生徒たちが好奇の目を向けてきたので、私は急いで人差し指を唇に当てた。
「しっ…静かにして」
渡辺はすぐに口を押さえ、冬坂は私に近づき、声を潜めて尋ねた。「本当?望月さん、被害者を知ってるの?」
私はうなずき、指で無意識にストロベリーミルクのパックをこすった。
「うん…同じ部活の先輩の国語の先生で、名前は石原莉子さん、昨日のニュースにも出てたはず。前に先輩と帰る途中で会ったことがある」
私は少し間を置き、言葉を選んだ。
「私と石原先生はそんなに親しいわけじゃないけど、知り合いが殺されたって聞くと、心の中が少しざわつくんだ…」
冬坂の表情が次第に険しくなり、そっと私の手を握った。
「そうだったんだ…ごめんね、望月さん、さっき私たちあんなに軽々しく話してて」
渡辺も頭をかきながら、珍しく申し訳なさそうな表情を見せた。「ああ…お前が彼女を知ってるなんて知らなかったよ、ごめんなヒカルン」
「謝らなくていいんだよ」
私は無理に笑顔を作り、首を振った。
「だから、捜査の状況を知りたいんだ。あっ、もし冬坂さんが都合悪かったら、無理にって言わなくても大丈夫だよ」
冬坂は少し躊躇したが、結局うなずいた。
「まあ、望月さんがそうお願いするなら、断れないよね」
彼女は優しい笑顔を見せた。
「パパに聞いてみるよ。でも、教えてくれるかどうかは保証できないからね」
「うん、それで十分だよ、ありがとう」
私は感謝の気持ちを込めて彼女に向かってうなずいた。
ちょうどその時、授業開始のチャイムが鳴り、冬坂と渡辺は急いで自分の席に戻っていった。
先生が教壇に立った後、私も教科書を開いた。本の上に並んだ黒い文字を見ながらも、心の中はもう授業に集中する気持ちはなかった。
◇
放課後、私は昨日南先輩と約束した通り、推理部の部室へ向かった。しかし、部室の前に立った瞬間、急に足がすくみそうになった。
——もし部室の中にあの子だけだったら……
初めてここに来た時に感じたあの冷たい視線を思い出すと、思わず背筋が凍った。
「ふぅ…」
ただ呆然と入り口に立っているわけにもいかない。
私は深く息を吸い、決心したかのように部室のドアを開けた。部室の中には確かに一人いたが、一番会いたくなかったあの子ではなく、前に会った眼鏡の男子だった。名前は黒田何とかって覚えている。
「お、お邪魔します…」
「…」
彼は私を全く無視する様子で、机の前に座って自分の持っている本を一心に読みふけっていた。いったいどんな本があんなに夢中にさせるんだろう…
私は彼の向かいの椅子に座った。私の角度からは表紙がはっきり見えた。好奇心から、こっそりと一瞥した。表紙には『ギリシアの棺の謎』と印刷されていた。この本は覚えがある、作者の名前はエラリー・クイーンだったはずだ。
私はそっと視線を戻し、周囲を見渡した。部室は昨日来た時と変わらず、丸テーブルの上には相変わらず本や雑誌が積まれていたが、ただ人の気配が少なかった。
「あの…他の人はいつ来るんですか?」
私は試すように口を開いた。静かな部屋の中で声が特に目立った。
黒田先輩はようやく顔を上げ、鼻の上の眼鏡を押し上げた。レンズの向こうの目は静かで波一つなく、どんな感情も読み取れなかった。
「南と川島はクラスの日直だって、すぐに来るよ」と彼は少し間を置いた。「星野は…彼女はいつも自由気ままだからね」
「そ、そうですか…」
私は気まずそうにうつむき、指で無意識にスカートの裾をもじもじした。空気は再び沈黙に包まれ、黒田先輩がページをめくるサラサラという音だけが響いていた。
「石原先生の件、聞いたよ」
ページをめくる合間に、彼は突然言った。
「南はすごく悲しんでる」黒田先輩の声は相変わらず落ち着いていたが、かすかに気づきにくい優しさが込められていた。「彼女はずっと石原先生を慕ってたから」
「…うん」
私はそっと相槌を打ったが、どう返事をしていいかわからなかった。
ちょうどその時、部室のドアが再び開けられ、南先輩と黒田先輩が言っていた川島が入ってきた。
「あっ、望月さんもう来てたんだ」
南先輩は私に手を振りながら、私の隣の椅子に座った。
「おお、望月ついに推理部入ることにしたんだな」川島先輩はにこにこしながら椅子を引いて座った。
「昨日南から入らないって聞いて、心配してたんだぜ!」
「ほ、本当にすみません…」
そう言われると、思わずうつむいてしまった。
「大丈夫だって!結果オーライなら問題ないよ!」
川島先輩は爽やかに私に向かって手を振った。
南先輩は何かを探すように周囲を見回し、がっかりした表情を見せた。
「あの子今日も来ないのかな…」
南先輩が言う「あの子」はおそらく星野茉莉奈のことだろう…さっき黒田先輩も彼女は「自由気まま」と言っていた。
「そうみたいだね」
黒田先輩は手にしていた『ギリシアの棺の謎』を閉じ、そっと机の上に置いた。
「そういうことなら、彼女のことは気にせず、本題に入ろう」
「う、うん!」
南先輩は力強くうなずいた。
「今日みんなをここに集めた理由は、もうみんな知ってると思う」
南先輩は深く息を吸い、両手を机の上に置いて立ち上がった。彼女の指先は少し白っぽく、明らかにかなり力を入れているようだった。
「石原先生が…殺されたの。彼女の教え子として、推理部の一員として、私はただ傍観しているなんてできない!」
南先輩の声は少し震えていたが、目は異常に固く決まっていた。彼女は私たち一人ひとりを見渡し、まるで支持を求めているようだった。
「石原先生が一体誰に殺されたのか、はっきりさせたいの。でも私一人じゃ絶対に無理!だから…みんなの力を借りたいの…」
「南の頼みなら、俺は断らないぜ!」
川島先輩はためらわずに応え、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべた。
「でも具体的に何をすればいいんだ?所詮俺たちは高校生だろ、できることなんて限られてるよな?」
「うーん…それは…」
南先輩は困ったような表情を見せた。どうやら彼女は石原先生の死の真相を探る決心はしたが、具体的に何をするかは全く考えていなかったようだ。
すると、黒田先輩は眼鏡を押し上げ、冷静に言った。
「まず、既知の情報を整理する必要がある。警察が現在公開している手がかりは限られているが、石原先生の生前の行動や人間関係から入り、何か異常が見つからないか確認できる」
彼の声は落ち着いていて理性的で、まるで鋭い刃のように混乱した思考を切り開いていくようだった。
「南、それと向こうの君。君たちは前に石原先生に会いに行ったんだろ?何か気づいたことはあるか?」
…「向こうの君」って…失礼だ、私は一応名前があるんだから。
でも今はそんなことにこだわっている場合じゃない。私は軽く咳払いをし、自分が知っているこの件に関係ありそうなことを全部ぶちまけた。
私が男が石原先生の家に押し入ろうとしたと話した時、黒田先輩は眉をひそめた。
「まさかそんなことが起きていたのか?」
「本当です!私と望月さんの身をもっての経験です!」
南先輩は感情的に言った。
「うむ…とにかく、無事で何よりだ」
黒田先輩は南先輩の顔を見つめながらそう言った。
「え?あ、ありがとう…」
南先輩は少し不自然そうだった。多分、ずっと見つめられていたからだろう。
なんと、黒田先輩ってこんなに身近な人を気にかけるんだ。本当に優しくて思いやりがあるんだな。
でも言っておくけど——私もその場にいたよ?南先輩と同じように危険に直面していたよ?私のことも気にかけてくれてもいいんじゃない?
まあ、そんなどうでもいいことは置いておこう。
「こいつは怪しいな…多分犯人で間違いないだろう」
川島先輩は顎に手を当てながら、確信ありげに言った。
「いや、今結論を出すのは時期尚早だ」
黒田先輩は首を振った。
「まず情報を整理しよう。第一に、石原先生は最近ずっと精神状態が良くなかったし、昨日は体調不良で休んだ。第二に、正体不明の男が彼女の家に押し入ろうとし、態度が非常に悪かった。第三に、石原先生の携帯のアドレス帳と通話履歴は全て消去されていた」
黒田先輩はそう言いながら、ノートに素早くメモを取った。
「これらはどれも怪しい…だが最も気になるのは石原先生の言ったあの言葉だ——『全部自分が作った業なんだ』」彼は顔を上げ、レンズの奥の目が鋭くなった。「この言葉には何か深い意味があるに違いない」
「もしかしてあの男との関係じゃないのか?」川島先輩が推測した。「例えば借金とか?」
「その可能性も排除はできない」黒田先輩はうなずいた。「だがもっと情報が必要だ。南、君は石原先生と比較的親しかったが、彼女に親族や友人はいるか知っているか?」
南先輩は唇を噛みながらしばらく考えた:「石原先生のご主人は半年前に亡くなった。それ以外には特に親族はいないみたい」
「うむ…ここから手を打つべきかどうか…」
黒田先輩はとても悩んでいるようだった。
その時、私はあることを思い出した。
「事件は昨日の夜に起きたんですよね?」
「うん?そうだと思うが」黒田先輩は私を見た。「何か問題が?」
「石原先生は自宅で殺害された、そして親族もいないとなると、一体誰が石原先生の遺体を発見したんですか?」
私の投げかけた質問に部室は一瞬沈黙に包まれた。
「多分…隣人か?」
川島先輩が推測した。
「かもね…」
私は片手で顎を支え、独り言のように言った。「でも誰であれ、その人を見つけられれば、もしかしたら情報が得られるかもしれない…」
「でも…どうやってその人を見つけるの?」
南先輩は首をかしげながら困惑した。
「うーん…とにかく石原先生のアパートに行ってみよう」
私は立ち上がり、スカートの上にない埃をはらった。
「え?」南先輩は驚いて瞬きした。「警察が高校生に現場を調べさせるわけないでしょ?」
「あっ、現場を調べるとは言ってないよ」
私も高校生が現場で何か発見できるとは思っていなかった。
「近所の人に聞いてみようと思っただけ。もしかしたら何か知っている人がいるかも」
「なるほど!」南先輩の目が輝いた。「じゃあ急ごう!今すぐ出発しましょう!」
「待て、南」
黒田先輩は冷静に彼女を止めた。
「全員が行くのはあまりにも目立ちすぎる」
彼は眼鏡を押し上げ、私たち一人ひとりを見渡した。
「二手に分かれて行動することを提案する。一組は石原先生のアパートの近くで情報を聞く。もう一組は他の手がかりを集める」
「じゃあ私と望月さんで一組!」
南先輩はすぐに手を挙げ、私を見て興奮した。
「いいかな、望月さん?」
「うん、私も問題ないよ」
私はうなずいた。提案した私が参加しないわけにはいかない。
「えーっ、女子二人で一組かよ?」
川島先輩は大げさにため息をついた。
「じゃあ俺は黒田と組むのか?」
黒田先輩は無表情で彼を一瞥した:「不満なら一人で行動すればいい」
「冗談だよ!ユーモアの欠片もない奴だな」
黒田先輩はわずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあそう決まった。調査の時は安全に気をつけること。それと…」
彼の口調は真剣で、特に南先輩の方を長く見つめた。
「余計なトラブルを避けるためにも、私たちが事件を調査していることはなるべく人に知られないように」
「わかってるよ、黒田くんはほんとにおせっかいだね」
南先輩はいたずらっぽく舌を出した。さっきの黒田先輩の注意をどれだけ聞き入れているのかはわからない。
「じゃあ行くよ!」
南先輩はカバンを持ち上げ、私にウインクした。私はうなずき、彼女と一緒に部室を出た。
◇
たった一日で、私は南先輩と再び石原先生のアパートに来た。これでここに来るのは三度目だが、前の二度と違い、今回は石原先生の家の前には立入禁止のテープが張られていた。
「すごく現実味がないね…」
南先輩はテープの外に立ち、ぼんやりと見慣れたドアを見つめていた。
「…南先輩、調査を始めようか?」
私はそっと南先輩の袖を引っ張り、彼女の思考を現実に戻した。
「う、うん!」
南先輩は自分の頬を強く叩き、こうすることで自分を奮い立たせようとしているようだった。
「じゃあ早速始めよう!」
私は周囲を見渡した。アパートの廊下は静まり返っており、数軒のドアが閉まっているだけで、人がいるかどうかはわからなかった。
「うーん…まずは隣の部屋から聞いてみよう」
私たちは一緒に石原先生の隣の部屋のドアの前に行き、そっと呼び鈴を押した。
しばらく待つと、ドアの内側から足音が聞こえ、中年の女性がドアを開けた。
「まったく…荷物は管理人室に置いておいてって言ったでしょ——あら?」
中年女性は入り口に立っているのが二人の高校生だと気づき、明らかに一瞬驚いた。
「君たちは…?」
「お邪魔してすみません、お姉さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいですか?」
南先輩は軽くお辞儀をし、明るい笑顔を見せた。
「あらまあ!この子は本当にお上手ね、そんな風に言うなんて!」
中年女性は南先輩の「お姉さん」という呼び方にすっかりご機嫌になり、顔のしわもほぐれた。彼女は髪を整え、口調は明らかに親しみを帯びていた。
「何を聞きたいの?お姉さん、知っていることは全部教えてあげるわよ!」
うわー——彼女は本当にすごいなあ…
私は心の中で南先輩のコミュニケーション能力に感嘆し、こっそり一歩後ろに下がり、主導権を彼女に譲った。
「お姉さんは隣の石原先生…石原さんを知ってますか?」
「石原?」
中年女性は目を閉じてしばらく考え、突然何かを思い出したように手を叩いた。
「あああ!リコちゃんのことね!」
「え?お姉さんと石原先生は仲が良かったんですか?」
南先輩は驚いて目を見開いた。
「石原『先生』?なるほど…あなたは彼女の教え子なんだね」
中年女性は思うところがあるようにうなずき、笑顔が少し引っ込んだ。
「特別親しいってわけじゃないわ」
中年女性は手を振ったが、口調にはいくらか親しみが込められていた。
「でもたまに手作りのお菓子を届けたりしてたの。あの子、ご主人が亡くなってからはいつも一人で家に閉じこもってて、見てて可哀想だったから」
石原先生のご主人は半年前に亡くなった…南先輩が私に話してくれたことだ。これは今回の事件と関係があるだろうか?
「じゃあお姉さんは石原さんってどんな人か知ってますか?」
南先輩はそう言いながら、ポケットからノートを取り出した。
「それは知らないわ」
中年女性は両手を広げた。
「リコちゃんは最近引っ越してきたのよ、彼女のご主人は半年前に亡くなったんでしょ?その人のことは噂でしか聞いてないの、詳しくは知らないわ」
「そうですか…」
南先輩の口調には少し落胆が混じっていたが、彼女はすぐにまた元気を取り戻した。
「それじゃあ…お姉さんは昨夜誰が石原先生の…えっと…」
南先輩は少し躊躇し、その言葉を言い出すのをためらっているようだった。
「遺体?」中年女性はとても率直だった。「私が見つけたのよ」
「えっ?!」
私と南先輩は同時に声を上げた。
「昨夜、家でお菓子を作ってたんだけど、うっかり作りすぎちゃって、リコちゃんに届けようと思ったの」
中年女性はため息をつき、目が曇った。
「呼び鈴を長い間押しても誰も出てこなくて、ドアが鍵かかってないのに気づいたの。リコちゃんに何かあったんじゃないかと心配になって、部屋に入って様子を見たの。そしたら…ああ…」
彼女は首を振り、深くため息をつき、声も低くなった。「こんなにいい子が、自殺なんてするなんて本当に惜しいわ…」
「え?自殺?」
思わず口に出てしまい、南先輩と顔を見合わせた。
「あの…なぜ石原先生が自殺だと思ったんですか?」
「え?なぜって…」
中年女性は困惑した表情を見せた。
「だってリコちゃんは首を吊って死んでたんだもの…」
昨夜のニュースではそんな話は出てこなかった。それに、私の記憶では昨夜テレビで「他殺」という言葉を聞いたような気がする。
「間違いないですか?」
「失礼ね!」
中年女性は腰に手を当て、少し不満そうに私を見つめた。
「最近は視力が少し落ちてるけど、でもあんなに大きな人間が天井からぶら下がってるのを間違えるはずないわよ!」
彼女の表情からすると、嘘をついているようには見えなかった。
ではこれは一体どういうことなんだろう?
私が深く考え込んでいると、南先輩が突然口を開いた。「それで昨日、石原先生に誰か訪ねてきた人はいましたか?」
「そうねえ…」中年女性は眉をひそめ、思い出そうとしているようだった。「誰かと話している声は聞こえたような…うーん…声からすると相手は二人の女の子みたいだった…」
…それは多分私と南先輩だろう…
「えっと…それ以外には?」
「うんーそうだ!」中年女性は突然手を叩き、目を輝かせた。「昨日配達の人が来てたわ」
「配、配達の人?」
中年女性はうなずいた:「多分、あの女の子たちが去ってすぐ後だったと思う。その時私もちょうど出かけるところで、制服を着た男がリコちゃんの家の前に立っているのを見たの」
これは重要な情報かもしれない。
「その男がどんな人か覚えてますか?」
「そんなの覚えてないわよ…」
中年女性は仕方なさそうに手を広げた。
「その時私は小さな公園にいる息子を迎えに行くのに急いでて、その人の顔なんてろくに見てなかったの。でも着てた制服は知ってるわ」
「教えてもらえませんか?」南先輩が切迫して追及した。
「うーん…なんて言ったかな…スニレ…」と彼女は顎に手を当てて思い出しながら。「最近町に新しいスーパーができたでしょ?あの男が着てたのはそこの制服よ」
「スニレ…あっ!先週オープンしたチェーンスーパーだね?お母さんと行ったことがあるよ」
南先輩は合点がいったように言った。
「そうそう、そこよ!」
中年女性は何度もうなずいた。
「でもね、これって本当に便利よね、配達サービスって言うんでしょ?出かけなくても買い物ができるなんて、私が若い頃は…」
彼女は過去を思い出しているようで、ぶつぶつと昔話を始めた。
中年女性が過去の思い出に浸っている間、私は南先輩の方に目を向けた。「南先輩、どう思う?」
「え?何が?」
突然の質問に彼女は一瞬戸惑ったようだった。
「石原先生がスニレの人が来た時に出てこなかったのは、その時にすでに殺されていたからじゃないか?」
「そ、そうかも…」
南先輩はゆっくりとうなずき、私の推測に賛同しているようだった。
私たちが去ってすぐにここで殺人事件が起きたのか…もし私の推測が正しければ、これは本当に後味が悪い。
「石原先生の荷物が気になるんだ」
「うーん…これと石原先生の死に関係あるのかな?」
私はそっと首を振った。「わからない、ただ単純に気になるだけなんだ…」
南先輩は私をしばらく見つめ、それから中年女性の方を向いた。
「あの…お姉さん、石原先生が買った荷物が何か知ってますか?」
南先輩の声が彼女を思い出の中から引き戻した。
「ああ、ああ——それはわからないわ」中年女性は首を振った。「でもあの配達員さん、ずっと呼び鈴を押してたけど誰も出てこなくて、最終的に荷物は管理人室に預けられたはずよ」
「そ、そうですか…」
南先輩はかすかにうなずいた。
「中身が何か知りたいなら、階下の管理人室で誰かに聞いてみたら?多分誰か知ってる人がいるかもよ」
「はい、わかりました!」
南先輩は彼女に向かって深くお辞儀をした。
「本当にありがとうございました!」
私も南先輩に続いてお辞儀をして感謝した。
親切な隣人に手を振って別れを告げると、私と南先輩は階下へ降りた。
管理人室はアパートの入り口にあり、ガラス越しに制服を着た若い男性が座っているのが見えた。
彼は今、椅子の背もたれにもたれ、帽子で顔を覆い、どうやら居眠りをしているようだった。
南先輩と私は顔を見合わせ、そっとガラスをノックした。
「お邪魔します——」
「むにゃ…ん?!」
管理人は飛び起き、帽子が落ちて、眠そうな顔を露わにした。彼は慌てて背筋を伸ばし、口元を拭い、わざとらしく咳払いをした。
「おっ…何か用かね?」
「ちょっとお聞きしたいんですが、ここに石原莉子さんの荷物はありませんか?」
「石原…莉子…?」
管理人は呆けたようにその名前を繰り返した。
こいつ、ここの住人を知らないんじゃないだろうな?
「303号室に住んでた女性です…」と私は付け加えた。「昨日スニレの配達員が荷物を届けに来たはずです」
「そう言われれば覚えがあるな」
彼は手を叩き、どうやら思い出したようだった。
「石原莉子…あの昨夜死んだ女教師だろ?確かに彼女の荷物は届いたよ、何か問題でも?」
「その荷物を見せてもらえませんか?」
「はあ?それはさすがに無理だろ!住民のプライバシーを守る義務があるんだ。それに…」
管理人は頭をかきながら、困惑した表情を見せた。
「それに…あの石原さんは昨日の午後にはもう荷物を受け取って行ったよ」
「え?本当ですか?」
「そんなこと嘘つくかよ!」管理人の口調は少し不満げだった。「たしか昨夜の7時過ぎだったな、彼女が直接管理人室に受け取りに来たんだ、絶対に間違いない!」
「そ、そうですか…」
もし管理人の言うことが全部本当なら、石原先生は昨夜7時過ぎに管理人室に荷物を取りに行った、つまりその時点ではまだ生きていた。
つまりさっきの推測は覆された。
でもよく考えてみれば確かに、昨夜現場で検死した医者が石原先生の死亡時刻は7時から8時の間と言っていた。私がさっき推測した時間はその範囲内にはなかった。
「昨日何か怪しい人はここに来ましたか?」
「怪しい人?」管理人は眉を上げた。「昨日はいないな、今日は二人いる、今目の前に」
彼は悪意のある目で私たち二人をじろじろ見た。
「私たち怪しい人じゃないです!」
南先輩は顔を真っ赤にして反論した。
「ふん!」
南先輩の心からの反論に、彼はただ鼻で笑うだけだった。本当に嫌な奴だ。
でもよく考えてみれば、昨日本当に怪しい人が来ていたとしても、サボってばかりのこの管理人が気づくとは思えない。
その時、私は横にあるパソコンに気づいた。画面にはこのアパートの出入り口の監視カメラの映像が映っている。管理人がどんなに頼りなくても、監視カメラは役立つ情報を記録しているはずだ。
そこで、私は管理人に監視カメラの映像を見せてほしいとお願いした。相手も快く——
「ダメダメ!まったく、今どきのガキは探偵ごっこが好きだな。さっさと帰れよ、昨日もう警察がここに来てカメラを調べたんだ、何も役立つものはなかった!」
彼は私たちに手を振り、犬を追い払うかのようにうんざりした様子で追い返した。
「警察はもう調べたんですか?」
南先輩は驚いて目を見開いた。
「ああ、だから君たちはここで邪魔しないでくれ」
管理人は再び帽子で顔を覆い、椅子の背にもたれかかり、明らかにもう相手にするつもりはなかった。
思わず深くため息をつき、そっと隣の南先輩の袖を引っ張り、声を潜めて言った。「行きましょう、南先輩」
南先輩の表情からすると、とても不服そうだったが、今は他に手立てがなかった。
管理人のいびきの中、私たちは仕方なくその場を後にした。
◇
石原先生のアパートを離れた後、私と南先輩は長音で今後の行動について話し合った。
「ほんと、あの管理人何様のつもりなの!」
南先輩はムッとした様子で箸を割り、目の前のラーメンをグイグイと突いた。
「仕事中サボってるくせに!仕事中サボってるくせに!!仕事中サボってるくせに!!!」
彼女は一言言うたびに、箸で器の中の麺を強く突き刺し、まるでラーメンがその管理人であるかのようだった。
「落、落ち着いて…」
私は必死に南先輩の感情をなだめた。
「でもね——」
「はい、ツキちゃんが注文したアイスコーヒー」
南先輩はまだ文句を言いそうだったが、早乙女ユキの元気な声に遮られた。
「つ、ツキちゃん…?」
「うんうん~私がつけたあだ名、どう?可愛いでしょ?」
うーん…少なくとも「ヒカルン」よりはマシかな。
「そういえばね、ツキちゃんはほんと罪深い女ね——」早乙女は私の向かいの南先輩を一瞥した。「杏ちゃんに内緒でこんな可愛い子とデートしてるなんて、告げ口しちゃうよ?」
はあ…まともなことを言うのを期待するのが間違いだったな。
「『こども』って呼ぶのは失礼ですよ。この南美奈子さんは私たちの先輩ですから」
「えーー?マジで!?見た目がこんなに小さくて!」
こいつ、気づいてなかったのか?南先輩は三年生の制服を着てるんだよ!
早乙女の自分に対する小ささの評価を聞き、南先輩は顔を真っ赤にした。
「わ、私はまだ成長期なだけよ!これから数年のうちに、きっとぐんぐん伸びるんだから!」
…今はもう高3だよ…
「はいはい」
早乙女は南先輩の頭をポンポンと叩き、まるで逆立てた子猫をなだめるようだった。
「でもツキちゃん、ラーメン屋でコーヒーしか注文しないの?」
「だって杏子ちゃんが夜ご飯を作ってくれるから…」
「おおお!」早乙女はニヤニヤ笑いを浮かべた。「つまり、杏ちゃんがツキちゃんのために愛の夕食を作ってるってことか、でもツキちゃんは他の女とイチャイチャして…痛っ!」
あら?体が勝手に動いちゃった…
「ツキちゃんひどい!」
早乙女は私に手で叩かれた額を押さえ、泣き出しそうなふりをした。
「早乙女さんのせいですよ」
そう淡々と言った後、私はテーブルの上のコーヒーを一口飲んだ。
すると、少し離れたところから男の怒鳴り声が聞こえてきた。「早乙女!何度言ったらわかるんだ!仕事中に客とおしゃべりするな!」
「うわ!わかってるってば!」
早乙女は深くため息をついた。
「じゃ、明日学校でね」
「はいはい。また明日」
私は適当に手を振り、彼女が厨房のドアの向こうに消えていくのを見送った。
南先輩は早乙女が厨房のドアの向こうに消えていく姿を不思議そうに見つめ、小声で言った。「望月さんとあの店員さん、知り合いなの?」
「ええ…まあね」
私は曖昧に応じた。
南先輩は厨房の方を向き、思わず感嘆した。「ほんとに活発な人だね」
この点には私も強く同意する。
私がコーヒーを飲み終え、南先輩の前の器も空になった頃、南先輩は携帯を取り出して時間を確認した。
「あ、もうこんな時間…」彼女は少し驚いたように眉をひそめた。「そろそろ帰った方がいいかな?」
私はうなずき、席から立ち上がった。「うん、今日の調査はこれくらいにしよう。残りは明日黒田先輩たちと合流してから話し合おう」
「じゃあ明日ね、望月さん!」
「うん、また明日」
私はラーメン店の入り口に立ち、彼女の後ろ姿が街角に完全に消えていくのを見送った。
私も出ようとしたその時、軽快な音楽が私のポケットから聞こえてきた——私の携帯の着信音だ。
携帯を取り出すと、画面には「杏子」という名前が表示されていた。通話ボタンを押すと、電話の向こうから杏子ちゃんの声が聞こえた。
「あ、ヒカル、まだ外にいるの?」
「今から帰るところだけど、何かあった?」
「今夜シチューを作ろうと思ってるんだけど、家の醤油が切れちゃって、買ってきてもらえないかな?」
「うん、わかったよ」
電話を切った後、私は近くで一番近いスーパーを検索した。すぐに、地図にここからそう遠くないところにスニレスーパーがあると表示された——ちょうどさっきの隣人が言っていたあの店だ。
「スニレか…」
私は少し躊躇したが、ある考えが頭をよぎった。石原先生が生前最後に受け取った荷物がスニレからのものなら、そこで調べてみれば何か手がかりが見つかるかもしれない。
そう思うと、私は方向を変え、スニレスーパーへと歩き出した。
スーパーの規模は思っていたより大きく、明るい照明の下、商品棚が整然と並んでいた。客は少なからず多からず。私は買い物カートを押しながら、醤油の棚を探しつつ、店内の環境を観察した。
「あ、見つけた」
調味料コーナーで醤油のボトルを一つ取ると、レジに向かった。
「ありがとうございます。お会計380円になります」
レジの女性は笑顔で商品を袋に入れた。
「ありがとう」
お金を払った後、少し躊躇して、試すように聞いてみた。「ところで、ここは配達サービスやってますか?」
「はい、確かにそのサービスを行っております」とレジの女性は熱心に答えた。「当店でお買い上げの商品であれば、無料で配達サービスをご利用いただけますよ」
「配達の社員は固定ですか?それとも交代制ですか?」
山田さんは怪訝な表情を見せた。「それは…通常はその日の担当社員が配達を担当します。何か問題でも?」
「いえ、ただ気になって」と私はさりげなく尋ねた。「昨日の午後にも配達の注文はありましたか?」
「え?確かに…」
レジの女性は首をかしげながら思い出した。「昨日の午後なら…確か三件の配達注文がありました」
「じゃ、その三件の中にこの住所に届けたものはありますか?」
私はポケットから携帯を取り出し、石原先生のアパートの住所を表示して見せた。
レジの女性は画面に近づいて見た。
「うーん…少々お待ちください…」
そう言うと、彼女はレジの奥のパソコンに歩み寄り、素早くキーボードを叩いた。
「あ、ありましたありました」
レジの女性は画面を見つめながら読み上げた。「昨日の午後6時20分、確かに一件この住所への注文が…注文した商品は…」
「何ですか?」
思わず詰め寄ってしまった。
「…チョコレート一箱です」
「チョコレート?」
「そういえば、思い出しました」
レジの女性は突然手を叩き、目を輝かせた。
「昨日、ある男性がこのチョコレートを持って当店に来て、配達をお願いできないかと聞いてきたんです。友達へのプレゼントだと言って。当店は本来外部の商品はお受けできないのですが、そのお客様はとても態度が良く、追加でサービス料も払ってくださったので、店長が特別に承諾したんです」
「その人はどんな人でしたか?」
私は切迫して尋ねた。
「うーん…それは覚えていないんですけど、名前と携帯番号は残してくれました。ちょっと待ってください…」
レジの女性はうつむいてパソコンの記録を確認し、しばらくして顔を上げた。「あ、見つかりました。登録された名前は…山田太郎さん」
…ある意味、この名前もかなり珍しいな。
「連絡先を見せてもらえますか?」
レジの女性は困った表情を見せた。「すみません、これはお客様のプライバシーに関わることなので、お伝えできません…」
さっきまであんなに色々教えてくれたのに…
仕方ない、こんなことはしたくなかったんだ。
私は深く息を吸い、両手を合わせて懇願するポーズを取り、目を少し潤ませながらレジの女性を見つめた。
「お願いします!これは本当に大事なことなんです!その…その山田さんは実は家出した私の兄で…家族みんな心配してるんです…」
レジの女性は明らかに動揺した。彼女はためらいながら下唇を噛んだ。「でも…これはルール違反で…」
「そういうことはわかってます、でも…」
私はうつむき、声を詰まらせた。
「お母さんが兄のことを心配して病気になっちゃって…私はただ彼が無事かどうか確かめたいだけなんです…」
「わ、わかりました…」
レジの女性はようやく折れ、周囲を見渡した後、素早くメモ用紙に数字を書き、私に渡した。
「でも絶対に私が教えたって言わないでくださいね」
「あ、ありがとう…」
本当に信じてしまったんだ…
急に深い罪悪感を感じたが、これも石原先生の死の真相を調べるためで、やむを得ないことだと自分に言い聞かせた。
私は慎重にメモ用紙をしまい、レジの女性に深くお辞儀をして、スーパーを後にした。
スーパーのドアを出て、私はそのメモ用紙を取り出し、そこに書かれた電話番号を数秒見つめた。深く息を吸い、私はダイヤルボタンを押し、携帯を耳に当てた。
「プーッ」
電話がつながる音で心臓が高鳴った。
「おかけになった番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上、おかけ直しください…」
機械的な女性の声が無情にもこの番号が偽物であることを告げた。私はその場に立ち尽くし、指が無意識にメモ用紙を握りしめた。
「やっぱり偽の情報だったか…」
私はつぶやきながら、紙を丸めてポケットに押し込んだ。どうやらこの「山田太郎」は最初から本物の情報を残すつもりはなかったらしい。これはむしろ私の確信を強めるものだった——
あのチョコレートは絶対に怪しい。
◇
「ただいま」
「おお、おかえり」
千代子さんがリビングのソファに座り、私が帰ってくると、だらりと手を振った。
「あ、ヒカル帰ったんだ」杏子ちゃんがキッチンから顔を出し、エプロンを着けたままだ。「醤油買えた?」
「うん、はい」
私は買い物袋を彼女に渡した。杏子ちゃんは受け取って中を覗き、満足そうにうなずいた。
「本当に助かったよ、ありがとねヒカル」
「ああ、別に…」
杏子ちゃんが私に優しい笑顔を見せた後、「夕飯すぐできるからね」と言ってキッチンに戻っていった。
「ふぅ…」
私はソファにぐったりと座り、深く息を吐いた。今日は本当に疲れた…
「ねえヒカル、杏子の話じゃあ、もう部活に入ったんだって?」
千代子さんは携帯を見ながら、何気なく聞いてきた。
「あ、はい」
私はうなずいた。
「ああ、それなら安心だ」千代子さんはほっとしたように見えた。「ここに来たばかりで環境に馴染めるか心配してたんだけど、こんなに早く趣味の合う友達ができてよかったね」
「お気遣いありがとう…」
私は少し照れくさそうにうつむいた。
「そうだ、何の部に入ったの?」
千代子さんは携帯を置き、興味深そうに私を見た。
「え?そ、それは…」
なぜか言い出しにくかった。
「…推理部です…」
「…推理部?」
千代子さんは何かを思うような表情を見せた。
「あの…謎解きとか、事件解決とかする部活ってこと?」
「ええ…だいたいそんな感じです」
私は少し後ろめたい気持ちで答えた。
今は確かに実際の事件を調査しているが、普段はほとんどの時間を部室で推理小説を読んで過ごすんだろう…
「なかなか面白そうじゃない!」
千代子さんは突然乗り気になった。
「私も学生の頃、推理小説にすごくハマってたの!特にあの…なんていう名前だったっけ?いつもパイプをくわえてる探偵——」
「シャーロック・ホームズ?」
「そうそう!あの人よ!」千代子さんは興奮して手を叩いた。「ヒカルも読んだことあるの?」
「うん…少しだけ」
中学生の頃、推理小説がクラスで流行ったことがあって、クラスメートと話が合うように、私も少しだけ読んだことがあった。
でも千代子さんに答えた通り、私はほんの「少しだけ」で、これまでに最後まで読んだ推理小説はホームズシリーズとアガサ・クリスティの代表作数冊だけだ。
「まあ!ヒカルもこういうの好きだったんだね!」
千代子さんの目が輝き、まるで同志を見つけたかのようだった。
「ねえねえ、ヒカルは誰の作品が一番好き?」
「え、えっ?」
私は数人の作品しか読んでいなくて、どう答えていいかわからなかった…
私がどう返事をしていいか悩んでいると、私の携帯が鳴った。
「あっ、すみません、電話出ます」
私は慌てて携帯を取り出し、画面には見知らぬ番号が表示されていた。少し躊躇したが、やはり通話ボタンを押した。
「もしもし?望月さんですか?」
電話の向こうからは聞き覚えのある声が聞こえた。
「この声…もしかして冬坂さん?」
え?どうやって私の電話番号を知ったんだろう?
「ごめんなさいね、こんな遅くに電話して」冬坂の声には申し訳なさが込められていた。「クラスの名簿から電話番号を調べたんだ、気にしないでほしいんだけど」
「ああ、大丈夫…」私は空気に向かって手を振った。「何か用ですか?」
「うん、今日学校でお願いされた件なんだけど…」
「あっ!」
私はソファから急に背筋を伸ばした。心臓がドキドキしていた。
「冬坂さん、お父さんが何か教えてくれたんですか?」
声を潜めて尋ねた。指が無意識に携帯を握りしめていた。
「うん、うん…」冬坂はなぜか少し躊躇っていた。「実は…私がこっそりパパのパソコンを見て、事件の調査報告書を見つけたんだ」
「え、えっ?!」
「だ、だから!これは警察の内部情報だから、望月さん絶対に他の人に言わないでね!約束してくれたら報告書を送るから…」
これで本当に大丈夫なんだろうか…
少し心配だったが、好奇心に駆られて冬坂に約束した。
電話を切って間もなく、冬坂からのメッセージが届いた——
◇
**石原莉子事件調査報告書(内部資料)**
**事件概要:**
死者:石原莉子(28歳、銀ノ川高等学校教師)
死亡時刻:4月20日19:00-20:00
死亡場所:死者自宅(銀ノ川町3丁目サンシャインアパート303号室)
死因:機械性窒息(縊頸)
遺体状況:頸部に明らかな索痕、現場に凶器と見られるナイロンロープを発見(死者自身の指紋のみ)
**現場検証:**
1.室内に軽微な格闘痕跡あり
2.現場のドアの鍵に破壊痕なし
3.死者の携帯電話のアドレス帳及び通話記録が削除済み
4.現場に遺書は発見されず
**重要手がかり:**
1.死者はアウトドア用の服装(上着、ハイヒール)を着用していたが、死亡時は寝室にいた
2.19:15の監視カメラ映像にフードをかぶった男のアパート侵入を確認(身長約175cm、痩せ型、映像の画質不良のため顔の特徴は識別不能)
3.19:30に同男が慌てて退出
**補足情報:**
-死者は最近1ヶ月で現在の住居に転居
-死者の夫(石原健一)は半年前に病気で死亡、臨終前に地元の医師による救命処置を受けていた
-死者に他の親族はいない
**暫定的判断:**
1.現場は自殺を装っており、他殺の可能性が高い
2.監視カメラのフード男は重要な容疑者
3.死者の人間関係及び最近の活動の更なる調査が必要
(※文書末尾に小さな文字で記載:上記情報は内部参考用、外部への漏洩厳禁)
◇
冬坂から送られてきた内容を読み終えると、指が震えた。この報告書は思っていた以上に詳細で、警察が公表していない多くの詳細が含まれていた。
「ヒカル、夕飯できたよ!」
リビングから杏子ちゃんの声が聞こえ、私は急いで携帯の画面をロックし、深く息を吸って気持ちを落ち着かせた。
「今行く!」
私は応え、携帯をポケットに戻し、必死に表情を整えてリビングに戻った。
「はい、ヒカル」
杏子ちゃんがご飯をいっぱいに盛った茶碗を私に渡してくれた。
「あ、ありがとう…」
白石姉妹と夕食を共にした後、私は疲れを感じ、石原先生のこともしばらく考えないことにした。