第1巻 第2節
ピッピッピッ!
今日の目覚ましの音は、なんだかいつもと違う気がする。
私は布団から這い出すようにして起き上がり、眠い目をこすりながら周りを見渡した。見慣れない部屋だった。千代子さんの家に居候していることを思い出した。
隣にいた杏子は、もういなかった。
私は適当に目覚ましを止め、スリッパを履いて洗面所で身支度を済ませ、昨日杏子がくれたピンクのヘアクリップを髪に留めた。
「これで少しは可愛くなったかな…」
鏡に映る、もじもじした自分の姿を見て、思わず恥ずかしくなった。私は逃げるように洗面所を出た。
リビングに着いたときには、千代子さんと杏子はもう食卓に座っていた。
朝食の目玉焼きは湯気を立てていて、できたてのようだった。千代子さんの髪はぼさぼさで、私と同じく今起きたばかりの様子。どうやら朝食は杏子が用意したらしい。
「おはよう、光ちゃん。昨日はよく眠れた?」
声をかけてきたのは千代子さんだった。
「おはようございます、千代子さん。よく眠れました。ありがとうございます」
「そう、よかった。杏ちゃんのいびきで眠れなかったりしないか心配してたんだ」
「いびきをかいてるのは千代子の方だろ」
杏子はコーヒーを飲みながら、姉のデタラメに抗議した。
「おはよう、杏子。本当に早起きだね」
「おはよう、光ちゃん」杏子はかすかに微笑んだ。「みんなの朝食を作らないといけないから、ちょっと早めに起きたの」
本当にお淑やかだ。杏子は将来、いい奥さんになるだろうな。
でも、彼女は本当に結婚するんだろうか?男性に対してあんなに敵意を持っているのに、彼女の心を射止められる人がいるんだろうか?
朝食を食べていると、千代子さんが私の昨日との違いに気づいた。
「光ちゃん、それ、杏ちゃんのヘアクリップ?」
「あ、はい。変ですか?」
千代子さんは笑って首を振った。
「全然変じゃないよ。すごく似合ってる」
千代子さんの言葉に少し安心すると同時に、ちょっと照れてしまった。顔が赤くなっていなければいいけど。
食事が終わると、それぞれ着替えて玄関に集まった。
私の制服はまだ届いていないので、前の学校の制服を着ている。
杏子の銀川高校の制服は、白いブラウスに赤いリボン、紺のスカートだった。まるで漫画から飛び出してきたような少女だ。
ちなみに、私の今の制服は全身真っ黒で、銀川の制服と比べると死んだように暗く見える。
制服のデザインの良し悪しはさておき、今一番気になるのは——こんな風に他校の制服を着ていると、門で止められたりしないだろうか?ということだ。
千代子さんは私の心配を見抜いたようで、胸をポンポンと叩きながら言った。
「大丈夫だよ!見た目はともかく、私、生徒会の顧問の先生なんだから。事情を説明すれば、誰もあなたに難癖つけたりしないよ!」
この人が生徒会の顧問?どうやら銀川高校の生徒会は優秀なメンバーが揃っているらしい。
いずれにせよ、千代子さんの言葉で少し安心した。
私たちは玄関で靴を履き替え、家を出た。
銀川高校は千代子さんのアパートからそう遠くないので、歩いて行くことにした。今のペースだと、20分ほどで着くだろう。
「ねえ千代子、そのトーストまだ食べてるの?」
ポニーテールにした千代子さんは、バターを塗ったトーストをくわえていた。
「むぐむぐ…」
「それじゃわからないよ、千代子さん」
私の言葉に、千代子さんは口からパンを外した。
「わかんないんだな~。男の子の夢って、学校に急いでる途中で、パンをくわえた女の子とぶつかることなんだよ!私がドジな女の子を演じれば、運命の人に出会えるかもしれないんだから!」
女の子って部分は疑問だが、ドジって部分はわざわざ演じなくても大丈夫なんじゃないか?
それに、多分ほとんどの男子が憧れるのは、パンをくわえた女子高生だと思う。千代子さんはもう大人だよね?
もちろん、この言葉は口には出さなかった。
その時、杏子の背後から一つの手が彼女の首に絡みつき、元気な声がした。「杏子じゃん!おはよう!」
「由紀!後ろから急に襲わないでよ!」
杏子は怒ったふりをして、突然現れた早乙女を押しのけた。
「はは、ごめんごめんーあ、千代ちゃんもおはよう」
「先・生・て・呼・び・な・さ・い」
千代子さんは早乙女の頭をポンと叩いた。
「えー、別にいいじゃん」
早乙女と白石姉妹が冗談を交わした後、彼女はようやく杏子のそばに立つ私に気づいた。
「ねえ、この子誰?」
早乙女はそばにいる杏子をツンツンとつついた。
「杏子の友達?」
…こいつ、私のこと覚えてないのか?確か昨夜会ったばかりだよね?
「おはようございます、早乙女さん」
ツッコミたい気持ちを抑えて、私は挨拶した。
「わっ!なんで私の名前知ってるの?」
そろそろ本気で怒るよ?マジで。
「もしかして前に会ったことある?そういえば確かにどこかで見たような気が…でもその制服は本当に記憶にないや…」
早乙女は目を細めて私をじっくり観察し、片手を顎に当てて、何かを考えているようだった。
「光ちゃんだよ、由紀。昨夜、長音で会ったじゃない」
「光ちゃん…光ちゃん…」
早乙女は私の名前を繰り返し呟いた。
「あ!望月くんか!思い出した、昨日店にも来てたー」
早乙女の言葉は途中で止まり、何かに気づいたように表情が大きく変わった。
「ええええ?!望月くんなの?でもその格好はどういうこと?!」
まあ、普通は事情を知ればそうなるだろうね。
「まさか…望月くんって女装趣味があるんだ…」
ぶつぞ。
「違うって違うって」杏子が私の代わりに説明した。「光ちゃんはもともと女の子なんだよ」
「え?マジで」
早乙女は突然、杏子に異様な目線を向けた。
「ってことは、杏子は女好きー痛たたたー」
杏子は早乙女の両頬を強くつねり、考えなしの発言を遮った。
「そういえば」
早乙女を十分に懲り懲りさせた後、杏子は手を離した。
「今日は由紀が当番だったよね?こんなところでのんびりしてて大丈夫?」
「やばっ!完全に忘れてた!」
こいつ…千代子さんと同タイプだな…
「私、先に行くわ!学校で会おう、みんな!」
早乙女は手を振りながら、学校の方向へ走り去った。
「よし、私たちも学校に急ごう」
私たちは再び学校へ向かって歩き出した。道中、千代子さんと杏子は学校の面白い話をし、私は静かに聞きながら、時々口を挟んだ。
すぐに、私たちは校門に到着した。
「ちょっと、そこの生徒。待ってください」
私が校門に入ろうとした時、おさげ髪に眼鏡をかけた女生徒に呼び止められた。
「ここは本校の生徒のみ入場できます」
やっぱりこういう事態は起きるんだな。
「お疲れ様、青山さん」
千代子さんが割って入り、私をかばってくれた。
「白石先生?」
「こちらは、今日転校してきた望月光さんです。まだ銀川の制服が届いていないので、前の制服を着ています」
「転校生?この時期にですか?」
相手は驚いた様子だった。
「ああ、彼女の家で色々あってさ、可哀想でしょ、この子?」
なんで私が大きな家庭の不幸に遭ったみたいに言うんだろう?
「そうなんですか…」
どうやらこの青山葵さんは理解したようだが、できればこんな哀れむような目で見ないでほしい。
「私は生徒会書記の青山葵と申します。よろしくお願いします。何か問題があれば、いつでも2階の生徒会室に来てください」
「は、はい。ありがとうございます」
絶対に誤解されているが、とにかく門の関門は突破した。
杏子は校舎の入口で上履きに履き替えると自分の教室へ戻り、私は転学の諸手続きを済ませるため、まず千代子さんについて職員室へ行くことにした。
職員室は校舎の一階にあり、入口には「職員室」と書かれた札がかかっていた。
ドアを開けると、広い部屋で、たくさんの机が並び、何人かの先生が机に向かって忙しそうにしていた。
「井之原先生はいませんか?」
千代子さんは周りを見渡したが、探している人は見当たらなかった。
「井之原先生ならさっき出て行きましたよ」とても優しそうな男性の先生が答えた。「白石先生、井之原先生にご用ですか?」
「彼女の転学手続きを手伝いに来たんです」
千代子さんは私の肩をポンと叩いた。
「君が都会から来た転校生か。成績が優秀だって聞いて、この数日職員室でみんな君の話をしていたよ」
「ああ、とんでもないです…」
私は少し照れてうつむいた。
「じゃあ、少し待ちましょうか」
その時、職員室のドアが乱暴に開かれたが、来たのは井之原先生ではなく、小柄な栗色の髪の女生徒だった。
「山城先生!廃部ってどういうことですか!」
その女生徒は、とても話しやすそうな男性の先生(彼の名字は山城らしい)に向かって走っていき、「廃部通知」と印刷された書類を彼の前に叩きつけた。
「そ、そういうことだからさ…」
山城先生は困った様子だ。
「三年生が卒業して、部員の人数が足りなくなったんだよ。学校の規定で、部員が足りない部活は廃部と判定される。本来ならこの書類はもっと早く届けるはずだったんだが、今まで延ばすのがやっとだったんだ」
「くそーっ!」
その女生徒は、手にした書類と目の前の山城先生を一緒に引き裂いてしまいそうな勢いだった。
「落、落ち着いて…」
山城先生はできる限り相手の気持ちを落ち着かせようとした。
「も、もし来週までに部員を集められれば…話し合いの余地は、な、なくもないんだが…」
「本当ですか!」
その女生徒の目が一瞬で輝き、一縷の望みを見たようだった。
「何人いれば集まったことになるんですか?!」
「そ、それは…規定では、部活動には少なくとも五人が必要で——」
「じゃああと一人足りない!」
彼女は猛然と私の方を向き、私を見る目はまるで飢えた狼が獲物を狙っているようだった。
「君、転校生だよね?」
彼女は早足で私の方に近づいてきた。
「まだ部活に入ってないよね?!」
「え、あ、ええ——」
食べられそう。
「それならそれなら!ぜひ推理部に入ってくれ!」
この子、今推理部って言った?どう聞いてもまともな活動をしていなさそうな部活だなあ…
こんな部活は解散したほうがいいんじゃない?存在しても部室を占拠するだけだろうし。
もちろん、この言葉は口には出さなかった。
「お願い!せめて見学してから入るかどうか決めてくれない?ねえ?ねえ?」
彼女は話しながら涙を浮かべていて、もし私が断ったら泣き出しそうだった…
「わかりました…」
「本当?やったー!」
彼女は飛び跳ねそうなほど興奮した。
「放課後、2階の階段口で待っててね!」
そう言うと、彼女は入口から消えた。
そういえば、この人の名前をまだ聞いていないな。
間もなく、井之原先生が戻ってきた。彼は眼鏡をかけ、少し厳しそうに見える中年の男性だった。
私が持ってきた関連書類に目を通した後、井之原先生は素早く手続きを済ませてくれた。
「今日から君も銀川の一員だ。私は君の担任、井之原響也だ。わからないことがあったら何でも聞きに来い」
井之原先生は私が持ってきた書類を返してくれた。
「それと、君の制服は今晩郵送で今の住所に届く。つまり、明日からは銀川の制服を着なければならない。これは必ず覚えておいてくれ」
「かしこまりました…」
私は書類を受け取り、慎重にしまった。
千代子さんとは違い、井之原先生はとても真面目で責任感のある人で、手続きを処理する効率からもそれがわかった。
「教室までついて来い」
井之原先生は立ち上がり、机の上の指導案を手に取り、私に付いてくるよう合図した。
「じゃあ、あとは自分で頑張ってね。光ちゃん、ファイト!」
千代子さんはそばで親指を立てて、私を応援しているようだった。
私は井之原先生に従って廊下をずっと上がり、通路を抜け、2年A組の教室の前へ着いた。
井之原先生がドアを開けて教室に入り、教壇に立つのを見た。一声「静かに」で、さっきまでざわついていた教室は急にシーンとなった。
「今日はみんなに転校生を紹介する」
井之原先生の合図で、私は教壇に上がり、自分の名前を黒板にチョークで書いた。
「望月光と申します。よろしくお願いします」
拍手が起こった。
「では、君はそこに座りなさい」
井之原先生が私に割り当てたのは、後ろの方の窓際の席だった。学園生活が関わる漫画の大部分で、この席は主人公に割り当てられるものだ。
まさか私もついに人生の絶頂期を迎えるのか?冗談だけど。
「よお、転校生」
席に着くと、隣の席の男子が近づいてきた。人柄は優しそうに見えるが、全身が間抜けなオーラを放っている。
「俺は渡辺陽太だ。これから一年間、よろしくな!」
「ああ、よろしくお願いします」
私は失礼のないように応答したつもりだ。
「でもさ、君の自己紹介、ちょっと簡素すぎないか?」
え?そうなの?名前とよろしくお願いしますは壇上で言ったよ?それ以外に何か必要なの?
「せめて特技とか趣味とか、理想の相手のタイプとか言わないとさ?」
これらは本当に言う必要ある?特に最後のは。
「よし、おしゃべりはそこまでにしなさい」
井之原先生が黒板を叩いた。
「授業を始める」
「あ、何か話すなら後でな」
私はカバンから教科書を取り出し、渡辺との会話を終えた。
♢
「ねえねえ、大都会の生活ってどんな感じなの?」
「ムーンリットって本当に君のところでライブしたことあるの?」
「都会の物価って高いの?」
休み時間になると、新しいクラスメイトたちが私の席の周りに集まってきた。彼らの質問は連続して飛んできて、私は少し戸惑ってしまった。
「あなたたち、新入生を困らせないで」
助け舟を出してくれたのは、とても物静かに見える女生徒だった。彼女はなだらかな長い髪をしていて、全身に成熟した雰囲気を漂わせ、優しくて頼りになる感じがした。
「ただ望月さんと仲良くなりたいだけだよ!」
ある男子が笑いながら言った。
「いきなりあれこれ聞いても、親しくなれるわけじゃないわよ」
そう言って、その女生徒は人混みを追い散らした。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして。私は委員長の冬坂美穂です。これから何か問題があれば、私に相談してください」
彼女はほほ笑み、目には穏やかで親しみやすさが宿っていた。
「よお、美穂。転校生にすごく気を遣ってるじゃん」
渡辺が横から首を出し、相変わらず間抜けな表情を浮かべていた。
「私は委員長の職務を果たしているだけよ。あなたこそ、望月さんの隣の席なのに、彼女が困っている時、助け舟を出さないの?」
「いやあ、みんながそんなに熱心だから、邪魔するのはつまらないと思ってさ」
冬坂は眉をわずかに上げた。
「じゃあ、私がつまらないってこと?」
「そんなこと言ってないよ」
渡辺は降参のポーズで両手を上げた。
「ふふふ…」
私はかすかな笑い声を聞いた。声の主を探そうとしたとき、冬坂と渡辺の二人が驚いた目で私を見ているのに気づいた。
ああ、私が笑っていたんだ。
「陽太のせいで、私たちが笑われちゃったじゃない」
冬坂の顔が少し赤くなっているようだった。
「ああ、そうじゃないんです」私は慌てて説明した。「ただお二人の仲が本当にいいなあって思って」
「そんなに仲良くないわよ」
冬坂は口をとがらせて反論した。
「でもお互いの名前を呼び捨てにしてるじゃないですか」
「ただの幼なじみだからよ」
おお、幼なじみか…なんて恋愛小説的な展開なんだ、本当に憧れる。
「そういえばさ」渡辺が突然口を挟んだ。「ヒカルン、どこの部活に入るか決めた?」
勝手に名前を呼ばないでください。
それに「ヒカルン」って何だよ?
「まだ決めてないよ…」
「そうか。俺たちバスケ部に来ない?ちょうどマネージャーが足りなくて、マネージャーが女の子なら、連中はきっと喜ぶぜ」
え…運動部か…
マネージャーとはいえ、蒸し暑い体育館で部員たちの練習を見ることを考えると、耐えられそうにない。
杏子は弓道部だったような、すごくかっこよさそう。
「もう。君は可愛い女の子を見て、自分の部に引き込んで近づこうとしてるんでしょ?」
冬坂は渡辺の頭をポンと叩いた。
「望月さん、何の部活に入るかは自分で決めることよ。陽太みたいな人に無理やり決めさせられないで」
私をかばってくれた冬坂さんは本当にかっこいい!そういえばさっき私のことを可愛い女の子って言ってたね…
「俺みたいな人って何だよ…」
渡辺は口をとがらせて不満を表したが、冬坂は相手にしなかった。
「まずは自分が何が得意か見てみるのがいいわよね、望月さん。何か得意なことはある?」
「え?得意なこと?」
私はしばらく考えてから答えた。
「歌を歌うのは少し自信があるかな…」
「おお!じゃあ合唱部に入るの?」
「それは…」
私が迷っている様子を見て、冬坂は優しい笑みを浮かべた。
「焦って決めなくていいのよ、望月さん。自分に合った部活を見つけるのが一番大事だからね」
「は、はい」
冬坂さんにこんなに優しくされて…もし私が男だったらきっととっくに恋してるだろうな…いや、今の私でももうすぐ落ちそうだ…
でもそういえば、誰かに部活の見学に行くように言われたような気がする…
放課後に行ってみよう。
♢
午前中の最後の授業が終わると、渡辺は自分の机を寄せてきた。
「一緒に昼飯食おうぜ、ヒカルン」
「え?あの、それは——」
「陽太ったら、望月さんを驚かせちゃうじゃない」
冬坂は自分の弁当箱を渡辺の机の上にドンと置いた。
「ごめんなさいね、望月さん。陽太って本当にうるさいでしょ?後でちゃんと説教しておくから」
冬坂は私に笑顔を見せた。
「お?まさか美穂、やきもち焼いてるのか?」
渡辺は突然悟ったような表情を見せた。
「そういうことだったのか…ちっ、早く言ってくれればよかったのに!」
冬坂は何も言わず、渡辺に舌を出した。彼女はわざと動作をゆっくりにし、唇を大げさに二度開閉した。私は唇の動きを読むのはあまり得意ではないが、その口元はどう見ても「死ね」と言っているように見えた。
それから彼女は私の方に顔を向けた。
「陽太のデタラメは聞き流してね。私は望月さんと一緒にランチするのがとても嬉しいのよ」
冬坂さん、その笑顔がちょっと怖いよ。
「誘ってくれて嬉しいんですが…ごめんなさい、もう人と約束してるんです」
「え?望月さん、ここに知り合いがいるの?」
私の言葉に、冬坂さんは驚いたようだった。
「ええ、まあね」
「そうなの」
冬坂はため息をつき、とても残念そうだった。
「じゃあ、今度機会があったら一緒にランチしようね」
「あ、はい」
私は軽くうなずいた。
冬坂と渡辺に別れを告げ、私は学校の屋上に向かった。屋上への入口には「立入禁止」の札が立っていて少し不安だったが、結局ドアノブを回すことを選んだ。
「あ、来た来た」
金網の向こうから早乙女由紀の元気な声が聞こえた。声の方向を見ると、早乙女が手を振っているのが見えた。
早乙女の後ろ少し離れた地面にはレジャーシートが敷かれ、杏子がその上に座っていた。そばにはいくつか手の込んだ弁当箱が置いてあり、これらはすべて杏子が用意したものに違いない。
「ごめんなさい、待たせちゃって」
私は遅刻を謝りながら彼女たちのそばへ行った。
「そんなことないよ。私たちもついさっき来たところだから」
杏子は微笑みながらそばの空いている席を軽く叩き、私に座るよう促した。
「え?望月さんずるい!杏子の隣の席はずっと私専用だったのに!」
早乙女は頬を膨らませ、怒ったハムスターのように振る舞った。
「付き合ってるみたいな言い方しないで」
杏子はそっと早乙女の額に手刀を一発入れた。
「うっ…私たちの関係をそんな風に否定するなんて。杏子この浮気者!」
「銀川で学校生活はどう?やっぱり都会とは全然違うよね?」
杏子は早乙女のふざけを無視し、私の状況を気にかけた。
「え?ああ、うん…みんなすごく熱心なんだ」
「そう…」杏子はほっとしたようだった。「光ちゃんがクラスにうまく溶け込めるか心配してたんだけど、私の考えすぎだったみたいね」
「ああ、心配しないで、大丈夫だよ」
多分ね。
その時、ふと思い出したことがあったので、私は杏子に言った。「今日の放課後、部活の見学に行くかもしれない」
「え?光ちゃんがここに来て初日で、もう入る部活を決めたの?」
杏子は驚いたようだったが、彼女の気持ちは理解できなくもない。
「これが長くなるんだけど…とにかく杏子は待たなくていいから、先に帰ってて。部活見学が終わったら自分で帰るから」
「うーん…光ちゃん、道はわかる?」
杏子は少し心配そうだった。
「大、大丈夫だよ!」
多分ね。
「あんたたち二人…無視するのはやめてよ!」
早乙女さんが私と杏子に向かって不満の文句を発した後、私たちのランチタイムがようやく始まった。
♢
放課後、約束通り2階の階段口へ行ったが、午前中のあの女生徒はまだ見当たらなかった。
ここで待てと言っておきながら、自分が遅れるなんて。
私が帰ろうとした時、相手が突然階段の踊り場に現れた。階段を降りながら、さっきまで待っていた私に謝った。
「ご、ごめん…はあ…遅れちゃって…はあ…」
彼女は話しながら息を切らしていた。
「だって…宿題が終わってなくて…はあ…先生に居残りさせられて…はあ…」
おお、だから遅れたのか。でもどうしてこんなに激しい運動をしたみたいな様子なんだろう?
「あいつを振り切るのに…はあ…結構時間かかっちゃって…」
…これが原因か。
「よし、じゃあ行こう」
相手は呼吸を整え、私に手を差し伸べた。
「昼間は自己紹介を忘れちゃった。私は3年B組の南美奈子、推理部の部長だ。よろしくね」
おお、ようやく名前がわかった——ところで、こんな奴が私の先輩なのか?
「2年A組、望月光です。よろしくお願いします」
私は彼女の差し出した手を握らず、軽くうなずいただけだった。彼女の手は宙に浮いたままで、少し気まずそうだった。
「あはは…そ、じゃあ部室へ行こう」
南先輩は不自然に手を引っ込め、推理部の部室へ向かった。私はその後を追った。
部室は2階の突き当たりにあり、ドアには「推理部」と書かれた札がかかっていた。
南先輩はポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。
私は彼女について中に入った。部室は広くはないが、割と片付いていた。
部屋には丸テーブルが置かれ、周りにいくつかの椅子があった。テーブルの上には本や雑誌が積み重ねられていて、ほとんどが推理小説のようだった。
隅には本棚もあり、古典のシャーロック・ホームズシリーズから現代のライトノベルまで、様々な本がぎっしり並んでいた。
もしこれらの本のジャンルを詳しく見なければ、ここは推理部というよりは文芸部のような雰囲気だった。
三人が丸テーブルを囲んでいた。二人の男子はポアロとミス・マープルのどちらがアガサ・クリスティの作品でより成功した探偵かについて議論しているようで、唯一の女生徒は…ポッキーを食べている?
この部活、本当に大丈夫なのか?
「言っただろ、ポアロが登場する作品は39作で、ミス・マープルの倍以上だ。それにポアロの死はニューヨーク・タイムズが一面で報じたんだ。これだけでもポアロというキャラクターの成功がわかるだろ?」
金髪に染めた男子は興奮して腕を振り回し、向かいの眼鏡をかけた黒髪の男子を説得しようとしている。
「君の言うことは部分的には事実だと認めるが、それでも無視できないのは——」
黒髪の男子は感情が安定しているようで、人差し指で鼻から滑り落ちそうな眼鏡を押し上げた。
「アガサは作品の中で何度もオリバー夫人の口を借りて、ポアロというキャラクターへの嫌悪を表現している。作者自身が嫌っているキャラクターが、本当に成功したと言えるのか?」
ああ、この冷静そうな少年は論点をすり替えているな。
しかし相手は騙されたようだった。
「二人とも喧嘩はよしてよ」
南先輩は呆れたように二人を見ていた。
「南、この人は?」
黒髪の少年は私を見て、南先輩に尋ねた。
「ああ、こちらは望月光さん。私が2年生から引っ張ってきた新人だよ」
入ると言った覚えはないんだけど?
金髪の少年も近づいてきて、私の服に興味津々な様子だった。
「彼女の着てるの、銀川の制服じゃないみたいだな?まさか転校生?」
「都会の学校から転校してきたらしいけど、詳しい理由は知らないんだ」
両親が海外で仕事をしているからで、大きな家庭の不幸なんかじゃないんだよ。
「そんなことどうでもいいの!」南先輩の目が輝いているようだった。「重要なのは新しい部員ができたってこと!これでやっと廃部の危機を乗り越えられた!」
だから…まだ入るって決めてないってば…
「そうだそうだ、紹介するね」
南先輩は私に黒髪の少年と金髪の少年を順番に紹介した。
「こちらは推理部の副部長、黒田哲人。こちらは私のクラスメイトの川島武くん。黒田くんと同じく推理小説マニアだよ」
「黒田哲人、3年A組。よろしく」
「俺と黒田が同じって何だよ、黒田が俺と同じだろ!あ、俺は川島武。よろしくな」
それから南先輩は、さっきからずっと食べ続けている女生徒を指さした。
「この子は星野茉莉奈ちゃん。普段あまりしゃべらないけど、君と同じく2年生だよ」
名前を呼ばれても、星野は何の反応も示さず、表情もほとんどなかった。
「すみません、普段の部活動はどんなことをするんですか?」
「普段の部活動かあ…」
南美奈子は頭をかきながら、少し気まずそうだった。
「主に推理小説の討論とか、事件の分析とか——あ、たまに校内の怪事件を解決したりもするよ」
「校内の怪事件?」
校内で事件なんて起きるの?
「たとえば…食堂の料理が急に塩辛くなった謎とか…そんな感じ…」
…ああ。そういうことか…
ちょっとがっかりだな。
突然、背筋が凍るような視線を感じた。
私は視線の方向を見ると、ずっと無表情だった星野茉莉奈が眉をひそめて私を睨んでいることに気づいた。そして私の視線に気づくと、彼女は目をそらした。
この人いったい何なんだろう…
「そうだそうだ、入部届を渡すね。他の部分は私が書いておいたから、サインするだけでいいよ…」
南先輩はテーブルの上に散らばった本の山から入部届を見つけ、私に渡した。
「あの、南先輩」
私は彼女をわきに連れ出し、二人だけが聞こえる声の大きさにした。
「入るって言ってないんですよ」
「え?」
南先輩の表情が固まった。
「え?でも…承諾したと思ったんだけど」
南先輩は困惑し落胆した表情を見せ、目に一瞬の慌てた色が走った。
私は少し呆れたように笑い、できるだけ穏やかな口調になるよう努めた。「すみません、私は見学に来ると約束しただけで、入ると直接言ったわけではないんです」
南先輩の顔色が一気に青ざめた。唇を噛みしめ、感情を必死に抑えているようだった。
「でも、今本当に人手が必要なんだ。君がいなければ、推理部は本当に廃部になっちゃう…」
普段なら、ここまで頼まれたら断れなかったかもしれない。でも…
「本当にすみません…」
私は南先輩に向かって深くお辞儀をした。
「そ、そうか…」
南先輩の両腕が力なく垂れ下がり、目には失望と悔しさが満ちていた。しかし彼女はすぐに気持ちを切り替え、私に笑顔を作った。
「わかった。長い時間邪魔しちゃってごめんね。他の部員には後で説明しておくよ」
明るいふりをしているが、彼女の声が少し震えているのが聞こえた。
南先輩のこの姿を見て、私は胸が苦しくなった。
「本当に、ごめんなさい」
「大丈夫だよ」
南先輩は笑いながら手を振った。
「まだ時間はあるし、今週中に新しい部員を一人見つければいいだけだから、きっと大丈夫!うん。きっと大丈夫…」
彼女の声は次第に小さくなり、目には涙が浮かんでいた。
「南、どうしたんだ?」
黒田先輩は南先輩の様子がおかしいことに気づき、様子を見にやってきた。
「あ、ああ。心配しないで、私なんにもないよ、ははは…」
南先輩は黒田先輩に背を向けた。
「そ、それじゃあ!みんな部活続けてて!私は用事があるから先に帰る!」
南先輩は机に置いてあった鞄をつかむと、部室を後にした。寂しげな彼女の後ろ姿に、苦い思いが私の胸に広がった。
私の体はほとんど無意識に反応し、南先輩の去った方向へ追いかけた。
「南先輩!」
「わっ?望月さん?」
思わず南先輩を呼び止めた私は、振り返って驚いた顔で私を見る彼女を見つめた。
「あの…これ…えっと…」
しまった、まだ何を言うか考えていなかった。
私が慌てふためく様子を見て、南先輩はほほ笑んだ。
「一緒に帰ろう」
♢
帰り道を並んで歩きながら、南先輩の足取りは少し重く、私は心の中で何て切り出すべきか繰り返し考えていた。
しばらく沈黙が続いた後、先に口を開いたのは南先輩だった。
「望月さん、実は最初推理部に入るつもりだったんじゃない?」
「え?急にどうしてそんなことを?」
南先輩の言葉に、私は少し驚いた。
「ただの勘よ」と、彼女は淡い笑みを浮かべた。「もし私の勘違いだったら、何も言わなかったことにしてね」
私はしばらく黙り込み、それからゆっくりと首を振った。
「先輩の勘違いじゃありません…。確かに、入るつもりではいたんです。ただ…」
私は言葉を途中で止めた。
「ただ?」
「すみません…」
この理由は、本当にどう言えばいいのかわからなかった。
「ははっ、実は大丈夫だよ、望月光さん。言いたくなければ、無理に言わなくていいんだから」
南先輩はそっと私の肩を叩き、優しい慰めの口調だった。
「そういえば、望月さんはどの部活に入りたいの?」
私は少し考えてから答えた。
「合、合唱部とか…?」
「合唱部、いいね!望月さんが歌に興味があるなんて思わなかったよ」
「興味があるというか…昔、歌のコツを教わったことがあって、ちょっとだけなら人前で歌えるくらいで…」
「そうなんだ…」
南先輩の視線がふと街角を掠めた。その目つきが突然変わり、何かに気づいたかのように、口の中で呟いた。
「石原先生?」
私は南先輩の視線を追い、少し離れたところに立っている、憔悴した面持ちの若い女性に気づいた。彼女の髪は少し乱れ、目には疲れがにじんでいたが、それでもとても穏やかな雰囲気を感じさせた。
「石原先生って?」
「私たちの国語の先生、石原莉子先生よ」
南先輩の声には一抹の心配が込められていた。
「石原先生のご主人が半年前に亡くなってね。多分、そのショックが大きすぎたんだろう、あの時から先生の様子がずっとおかしいの」
私たちが話しているうちに、その石原先生が突然、全身の力が抜けたように膝をついて崩れ落ちた。私たちはそれを見るなり駆け寄り、彼女を支え起こした。
「石原先生!大丈夫ですか?!」
「え…南さん?どうしてここに…」
石原先生の声はかすれていた。
「私は下校時いつもこの道を通るんです。とにかく、まず先生を病院に――」
「い、いいの…」と石原先生は首を振り、無理に笑みを作った。「ちょっと疲れただけ…休めば大丈夫だから…」
「でも先生、そんな状態じゃ一人でいるのは危険ですよ!」
南先輩の口調には叱咤と心配が混ざっていた。
「せめてお家まで送らせてください」
石原先生はまだ拒みたいようだったが、南先輩の強い眼差しを見て、ようやくうなずいた。
「じゃあ、悪いわね…南さん…」
「お気遣いなく。先生のそんな姿を見たら、誰だって放っておけませんよ」
南先輩は私の方を振り向いた。
「望月さん、一緒に来てくれる?」
「あ、はい」
私はうなずき、二人の後ろについた。
○
石原先生のアパートはさっきの通りのすぐ近くにあり、千代子さんの住んでいるアパートと同じタイプだった。部屋の中は非常に散らかっていて、長い間片付けられていないように見えた。
私たちは石原先生を部屋に支え入れ、彼女の上着を脱がせ、ソファに座らせた。
「先生、大丈夫ですか?お水でもいかがですか?」
南先輩の目には心配が満ちていた。
「結構よ…南さん、本当にありがとう…」
石原先生は顔を私に向けた。
「あなたもありがとう…でも、あなたは?」
「あっ、彼女は私の部の後輩で、今日転校してきたばかりなんです。だから銀川の制服を着ていないんです」
「部の後輩」という点は検討の余地があったが、今はそんな細かいことを気にしている場合ではなかった。
「そうなの…」
ほんの一瞬、石原先生の顔に優しい表情が浮かんだ。
トントントン!
突然、玄関で激しいノックの音がした。こんな時間に誰だろうと訝しんでいるうちに、相手のノックの力はどんどん強くなり、もはやドアを叩き壊さんばかりだった。
その時、私は気づいた。石原先生の全身が震え、顔色が一気に青ざめていることに。
「二人とも、まだ声を出さないで――」
私は小声で二人に念を押し、それからそっとドアのそばに近づき、ドアスコープから来訪者の顔を確認した――フードをかぶった男で、怒りの表情を浮かべ、両手を固く握りしめ、いつでもドアを破って入りそうな様子だった。
私は石原先生を一瞥した。彼女の目には恐怖と不安が満ちていた。南先輩も事態の深刻さを察し、石原先生の手を強く握っていた。
相手はもうドアを蹴り始めていた。「開けろ!いないふりするな!」という怒鳴り声が伴う。
本当にまずい事態だ…
私はできるだけ早く台所を見つけ、包丁立てから菜刀を一本引き抜き、そっと背後に隠し、できるだけ落ち着いているように振る舞おうとした。
「南先輩、先生とここにいてください。私がドアを開けます」
私は髪のヘアピンを外し、深く息を吸い込んでから、慎重にドアを少しだけ開け、自分の半身だけを見せた。
「こんにちは、何かご用ですか?」
私はできるだけ声のトーンを低くし、男性に近い声に聞こえるように努めた。
「てめぇは何者だ?!さっさとドアを開けろ!」
相手が無理やりドアを押し開けようとした。チェーンロックが「ギシギシ」と音を立て、今にも外れそうだった。
「石原先生は今日体調が悪いんです!また別の日に来てください!」
「余計な口聞くな!開けろ!」
相手が激しくドアを蹴った。ドアの後ろに立っていた私は強い衝撃を感じ、立っていられそうにないほどだった。
その瞬間、私の中の怒りの感情が恐怖を上回った。
私は咄嗟に背後から包丁を引き抜き、ドアの外にいる男の鼻先へと突きつけながら、私が出せる限り威嚇的な口調で言った。
「二度言わせるな!」
男の目つきは先ほどより一層凶悪になったが、冷たい刃の威嚇の前では、軽挙妄動もできなかった。結局、玄関先で唾を吐き捨てるだけで、しぶしぶ引き上げていった。
相手が立ち去ったのを確認して、私はようやく胸をなで下ろし、全身の力が抜けるように床に座り込んだ。
「めっちゃ怖かった…」
さっきまで悪党と対峙していたのに、今こんな情けない言葉を口走るなんて、穴があったら入りたい気分だった。
「石原先生、大丈夫ですか?」
南先輩が青ざめた顔の石原先生を支えていた。
「あの凶悪そうな奴は一体…」
「全部…私の自業自得なの…」
石原先生は空中に右手を広げ、自分の手の甲をぼんやりと見つめた。その時、私は彼女のその手の薬指の付け根に、明らかな跡があるのに気づいた。
「だって私…悪魔の誘惑に負けたからね…」
だって私…悪魔の誘惑に負けたからね。
それはただ意味不明な言葉に過ぎなかった。しかし、その言葉だけが私の頭の中でぐるぐると渦巻き、いつまでも離れなかった。