元ねこ、鍋を囲む
電話が鳴ると、未だにどきどきする。
猫の時は、単に音に驚いただけだったが、人になってからは、加えて受話器を取り上げねばならないという義務感によってさらにどきどきするのであった。
理加の家にある電話はボタンを押すプッシュ式だからいいが、ポン大の建物の中にある電話は、どうしたことか、未だに黒いダイヤル式の電話機を置いてあるところが多い。
ダイヤル式は、正しい穴に指を入れるのも難しいが、さらに、重いダイヤルを最後まで回しきらないといけないので、電話をかけるまでに、指が疲れてしまう。
噂に聞くと、近頃は持ち歩ける電話というものもあるらしい。電話がどこまでも追いかけてくるという意味で、俺には恐怖である。
俺がテレビを見ていると、電話が鳴った。
最近は、テレビの意味もわかるようになった。テレビの中には、生きた物は入っていないのだ。だから、話しかけても、向こうはこちらに人がいることがわからないから、返事もしないのである。
電話が鳴ると、大体理加が出てくれるのだが、今は風呂に入っている。俺は2、3回ベルが鳴るのを我慢していたが、煩い音に我慢できなくて、受話器を取った。
「モシモシ」
「あ、ねこ? 俺、日置」
純一郎であった。
「理加、今、風呂入っているんだ。電話にゃ、でねーぞ」
俺は、ほっとして、つっけんどんな言い方になった。純一郎は、くつくつと笑い声を出した。顔が見えないから、その表情がわからなくて、不気味である。
「そないなサービスしなくて、ええよ。ねこは、ちゃんと風呂入っとるのか。綾部に嫌がられるぞ」
「入るよ。入るってば」
図星を指された。俺は、不機嫌になった。
「ところで、お前ら、もう、夕飯食ったの」
純一郎は、俺の機嫌には頓着しない。
「まだ。腹減った」
「じゃあ、材料買うて行くから、キッチンを貸してくれ。一緒に食べよう。何がええ?」
「生魚か肉」
俺の機嫌は直った。新鮮な魚を考えたら、よだれが出てきそうであった。
「ねこやなあ、お前。ま、わかったから、大人しくしとき。そうやな、30分くらいしたら、着くから」
「わかった」
風呂の入り方や便所の使い方を教えてくれたのは、純一郎である。
彼は、両親の都合で1年生の時から碰上に住んでいた。理加と違って、料理が好きらしく、食べる人数が多い方が作りやすいとか言って、時折、理加と俺のところへ食材を下げてやってくる。
理加は、洗濯が一番好きなようである。台所の縄張り意識も薄く、うちの台所は多分、純一郎が使いやすいような配置のままになっているはずである。
理加が風呂から上がって来たので、俺は純一郎の電話のことを伝えて、風呂場へ行った。純一郎に教わった通りに身体を洗うと、自分の体臭が消えて寂しくなったが、さっぱりした気持ちにもなった。段々、人間らしくなってきている。
風呂場から出て、簡単に着られるパジャマを着て居間へ行くと、純一郎が、夕食の準備を整えているところだった。もう、ほとんど出来上がっている。
「お、揃ったな。ねこ、丁度ええから、運ぶのを一緒に手伝ってくれ」
煮込まれてしまった鶏肉の、しかしよい匂いが鼻をくすぐった。鶏肉団子のスープ、鰹のたたき、小松菜のおひたしには、鰹節がたっぷりかかっている。純一郎は、天才かもしれない。みんな、食えそうである。
「いただきまーす」
テーブルに並んで、もぎゅもぎゅと食べ始める。6本の箸が上下する、といいたいところだが、俺は先割れスプーンで食べる。
「野菜も食べろよ」
「食べるってば」
俺達が言い合っている横で、理加は黙々と箸を口に運んでいる。そのうちに、ぼそっと、
「今日は、すごいものを見せてもらったわ」
という。純一郎は、箸を止めた。
「やっぱり、竹野教授って、偉いよな」
「日置のことなんだけど」
「ありがとう。褒められるのは、嬉しいな。綾部も、理斗がちゃんと動けば、あれぐらいのことは、でけるよ」
わかってるのか、こら。と、純一郎は俺の頭を小突いた。
後片付けは、理加の役目である。空の皿を台所へ運ぶと、俺は純一郎に引っ張られて居間へ戻った。居間には、テレビと猫じゃらしがある。純一郎はちゃぶ台を隅へ移動して、猫じゃらしを持ち出した。
「何するんだ」
「集中力のテスト」
「くだらないこと、するなよ」
「綾部の役に立つよ」
「……やる」
猫じゃらしが、微妙な動きを見せた。人間になっても、猫じゃらしには、俺の気をそそる何かがあって、これを見ると体がむずむずする。
俺は、無意識のうちに目を細め、猫的攻撃の姿勢をとっていた。猫じゃらしは、俺が狙っているのも知らず、ほげほげと窓の方へ移動していく。俺は、そろりそろりと近付いて行く。猫じゃらしは、窓を開けて、外の気配を窺っている。飛びあがるつもりらしい。
俺は、狙いをつけて、猫じゃらしに襲い掛かった。予想通り、猫じゃらしは飛びあがった。俺はもちろん、猫じゃらしが飛びあがった先を見越して、先回りして飛びあがっていたので、手でそいつを叩き落としてやった。
ぬめっとした感触が残った。
「ひゃっ」
俺が叩き落したのは、断じて猫じゃらしではなかった。俺が触れたはずのものは、純一郎がやっつけた霊のように、霧散してしまった。
「へえ、おもろい。手で物理的に扱えるんやね」
「???」
「今の奴は、俺が引っ張ってきた霊なんや。手、洗ってきな」
純一郎に言われたとおり、素直に手を洗いに行った。洗面所から出ると、玄関に人影が映ったのがわかった。
「理加さーん」
成瀬である。玄関を開けてやると、成瀬は、一瞬俺を理加と間違え、嬉しそうな顔をしたが、玄関のたたきに男物のスニーカーがあるのに気付き、同時に俺が理加でないことに気付いて、がっかりした。
しかしすぐに立ち直って、俺に笑いかける。
「理斗くん、こんばんは」
ケーキの箱を持ち上げて見せた。
成瀬は、俺が猫だった、ということを理解していない。そんなことは、彼の理性の範囲を超えてしまうのだ。俺のことを、理加の父の隠し子か何かだと思っている。しかし、いくら調査しても、誰とも何のつながりも出てこないので(当たり前である)、しかも、理加が俺と別れる気配もさっぱりないため(これも当然である)、諦めの境地に達しているようであった。
「あら、秀章さん、こんばんは」
理加が台所から出てきた。ケーキの箱を見て、
「紅茶を淹れましょうね」
といって、また台所へ引っ込んだ。理加は料理はしないが、紅茶は淹れる。
成瀬は居間へ通って、テレビを見ている純一郎に気付いた。スニーカーの主である。
「弁護士さん、こんばんは。お邪魔しています」
「こんばんは。こちらこそ、お邪魔します」
純一郎の方は、別に意識している感じにも見えないが、バチバチと火花が散るように思われるのは、成瀬が、穏やかならぬ様相をしているせいである。
成瀬が落ち着かないのは、純一郎が、大学教授の息子で優秀で理加と同年で理加と同じ学問を学んでおり、理加と親しいからである。
美形でも流行りの顔でもないが、顔立ちは整っている方であり、特段の欠陥も見当たらない。成瀬が純粋に親心しか持っていなければ、理加の理想の婿と見えるだろう。
俺にだって、人間を見る目はある。見た目や資産や能力を別にしても、純一郎はいい奴だ。見た目に関して欲を言えば、背がもう少し高ければ、ほぼ完璧。理加を渡す気はないが。
花のような、香ばしいような、甘い香りが漂ってきた。理加が紅茶ポットを持って、やってきた。
純一郎が立ちあがって、壁際の戸棚から、紅茶カップを人数分取り出す。薄桃色の縁を持った、柔らかい印象の器である。取っ手の代わりに蝶が止まっている。
俺のカップは、持ちやすいように厚手のマグカップになっていた。ミルクを大量に投入し、紅茶を注ぐ。どのみち、冷めるまでは飲めない。ケーキが皿に盛り分けられる。俺は、菓子類を基本的に食べない。
シュークリームは、たまたま食べたらおいしかったので、それからも食べている。成瀬は、俺のためにシュークリームを買ってきていた。気の利く奴である。
でも、だからと言って、奴に理加を渡す気はない。