元ねこ、よろしくされる
心地よい風が膨らんだ木の芽の間を吹き抜けて行く。梅の花は散り、桜の花にはまだ早い、春まで小休止の時期である。
俺と理加は、北門から心霊学部の研究室へ向かっていた。風祭教授が定年退官し、後任として京都から日置純一郎が招聘されたのである。研究室に置く本などを運び入れるというので、手伝いに来たのだ。
「綾部!」
振り向くと、純一郎が走ってきた。俺達は、立ち止まった。
「久し振りやね。お前ら、ちいとも変わらんのやな」
そう言う純一郎も、30代後半に差しかかった1児の父親としては若々しく見えるのだが、確かに俺は18、理加は20歳そこそこのままの外見を保っている。心霊学部で仕事をしていなければ、いろいろ面倒かもしれない。
「風祭教授からの引継ぎは終わった?」
理加は再び歩き出した。純一郎が並ぶので、俺は後ろに下がった。
「ああ。綾部が中国に行っている間に会うた。大貫先輩は元気やった?」
「ええ。スカート丈が長くなって、スリットが入っていたわ。それより、奥さんと、律くんはお元気なの。まだ小学生だったわよね」
純一郎が破顔した。一人息子が可愛くて仕方ない風である。男親は皆同じなのか。
「転校するから少し寂しそうやったけど、すぐに慣れるのやないか。クリスも昔この辺に住んでいたのやし。綾部のところは女の子と男の子やね。成瀬さん、可愛くてしょうがないやろうな。可愛い盛りや」
ここで、ふと純一郎の表情が改まった。
「お前、教授の推薦断ったんやてな。他から圧力でもあったんか」
「別に。私は育児休暇をもらった分、実績が少ないし。それに、日置くんが桜ヶ池の側にいた方がいいと思って」
さらりと零れた一言を、純一郎は聞き逃さなかった。
「押さえきれなくなってきているのか」
「いや、まだ。でも、押さえ切れるだけの後継者を育てる必要があるわ。今のままでは危ない」
「お前、変わったなあ」
純一郎がため息をついた。感心しているのか、呆れているのか判別し難い。急に、俺の方を向いて話しかけた。
「ねこ、お前はそう思わんか」
「理加は、苦労したから強くなった」
俺は簡単に答えた。見た目が変わらないだけに、他からはわかりにくいが、理加も苦労したのだ。その何割かは、俺のせいである。でも、理加も俺も互いに離れる気はない。それでよかったと思う。
「それはそうと渡会も再婚したらしいで、地元の同級生と。知っとる?」
理加は黙って首を振った。
離婚してから、元夫の渡会とは連絡を取っていない。2人の間に子どもがいなくて幸いだった。
不思議なことに、成瀬との間にはすぐ子どもが出来た。これを運命と言わずして、何とやら、である。
学部の建物が見えてきた。青銅のプレートは、風雨に晒されて、いつしか渋い色合いに変化している。純一郎は入口で立ち止まり、懐かしげに建物を見上げた。
「帰ってきたのやなあ」
「お帰りなさい」
純一郎はびっくりして理加を見た。それから微笑んで手を差し出した。
「これからよろしく、綾部助教授」
「こちらこそ」
「理斗くんも」
初めて純一郎から名前を呼ばれて、俺はどきどきした。差し出された手を、おそるおそる握る。温かい手が、俺を包み込んだ。




