元ねこ、人間関係に困惑する
法文学部の地下食堂は一部が畳敷きになっている。3コマ目が休講になったので、俺と理加は混雑する時間を避けて昼食を取り、足を伸ばしてのんびりとしていた。今日のA定食は、サバの味噌煮である。
「理加は、4コマ目まで何する予定なの」
「図書館へ行こうかな。後期試験も近いし、卒論も進めないといけないからね」
食器を載せたトレイを洗い場へ持っていくと、女子学生2人を両脇に従えた、渡会と出くわした。
俺の顔を見て、ふにゃふにゃと崩れかけた表情は、途中で無難な微笑みに変わった。傍にいる女子学生を意識しているらしい。
渡会の猫好きな本能が、元猫だった俺に惹きつけられるのだが、渡会自身は俺の正体を知らないから、自分が同性愛嗜好なのではないかなどと悩んでいる、という心霊学部の噂である。
余計なお世話である。それに夏休み後の渡会は、美宇が憑いた理加にも惹きつけられている様子で、ますます俺の神経を逆撫でするのであった。
「やあ、綾部さん達。元気?」
自然に手が伸びて俺の髪に触りかけ、途中から微妙に軌道修正して肩をぽん、と叩いて引っ込んだ。
俺との距離感について、何かしら思うところはあるのかもしれない。理加は、休み前と変わらず、気のない挨拶を返す。
渡会はもっと話したそうであったが、連れ立った女子学生達が両側から急かしたので、結局その場で別れてしまった。理加は食堂を出て、同じ階にある文房具売り場へ入っていく。
「渡会は何か話したそうだったよ」
「理斗に触りたかっただけよ。気にしない」
蛍光ペンやレポート用紙やら細々した物を買って、明るい地上に出た。雪こそ積もっていないが、太陽の光は弱々しく寒い。
桜ヶ池をぐるりと迂回して、図書館へ入る。ここも古い建物なので、灯りがあってもほの暗い。高いところに、鹿の頭なんか飾ってある。
「席取りしていてね」
理加は荷物を置いて、ずらずらと並ぶ本棚の方へ行ってしまった。
俺は木の椅子に腰掛け、本を見るでもなくぼうっと館内を眺めた。
試験期間中と違い、席取りするほどの混雑ではない。それでも、あちこちに散らばって熱心に本を読んだりノートに書き込んだりしている人達がいた。
大抵1人で来て勉強している。たまに2人連れらしく並んで腰掛ける人達もいるが、各々の作業に没頭して互いに喋らない。天井の高い館内は、古臭い本に囲まれて静かだった。
やがて、理加が本を何冊か抱えて戻ってきた。俺の前に本を積み上げ、1冊だけ自分の前に広げて読み始める。何も命令されなかったので、俺は積み上げられた本を枕にして眠ることにした。
冷えた硬い本の表紙に頬をつけて、寝る姿勢をとる。
枕が高すぎて眠れそうになかった。本を理加の方へ寄せて、机に直に頬をつけようとした時、見覚えのある影が視界をよぎった。俺は理加の真似をして、積み上げられた本を1冊広げ、読んでいる振りをした。
栗栖舞子は、俺と理加に気付いた様子もなく、真っ直ぐに本棚の間へ入っていった。舞子は、最近日置純一郎と付き合っている、碰上大学文学部の3年生である。
純一郎はテニス同好会に入っていて、そこで知り合ったということだ。
心霊学部は他学部に比べると小人数で、純一郎は霊能力の高さで学部内では有名人だから、その程度の噂ならすぐに広まる。9月に同好会の他大学との合同合宿があって、そこで純一郎が告白されたとか。
舞子は奈良の出身だが、母親が関東の出で、東京の大学を受験したとか、細々とした情報も流れていた。
どうせ他の大学と合宿したのなら、女子大学の学生と付き合えばいいのに、と冬でもミニスカートをはく大貫先輩が意味のわからないことを言っていた。あんなに足を出して寒くないのだろうか。
舞子と付き合い始めてから、純一郎が家へ来る回数は明らかに減った。
噂を耳にした弁護士の成瀬が、ライバルが消えて喜ぶかと思ったら、逆に心配そうな顔をしたのが、意外だった。
理加は料理が苦手なことを知っていて、純一郎が来なくなると食生活のバランスが崩れて健康に悪いのではないか、と心配しているようだった。
そのわりには成瀬自身は家へ来て料理をしない。勝手な人間である。
一方、理加は純一郎が来なくなったことについて、気にしている風は見せなかった。来なければ来ないで、純一郎ほどではないが自炊もするし、俺の世話も焼いてくれる。
以前、俺は理加と純一郎が結婚すればいいと思っていたが、どうやら当人達にその気はなかったようだ。
たまたま理加が女で純一郎が男であり、そして俺が猫から人間になったばかりの時に縁があった、というだけのことだったらしい。
俺は自分でも驚くほどがっかりした。しかし、どうしようもない。
純一郎に惚れて追いかけ回していた医学部の間宮美貴はどうしているかというと、あっさり諦めて他の男に乗り換えている所を、心霊学部の誰かに目撃された。
フランス人形のように可愛い顔をしているので、その気になればいくらでも男は寄ってくる、とこれも大貫先輩が言っていた。
美貴の場合は、純一郎に近付くために進路変更までしようとしていたから、結果としてはこうなってよかったと思う。
広げた本を積み上げた本に立て掛けたまま、とりとめもない事を考えていると、視線を感じた。目を上げて辺りを見渡す。理加は本を読み続けている。
視線は、ずらずらと並んでいる本棚の向こうから発していた。一瞬、本棚の向こうの目と目が合った。
「顔を伏せなさい」
理加が低い声で囁いた。俺は慌てて頭を下げて、本のページをでたらめに繰った。本棚の間から、舞子が本を抱えて出て行くのが視界の端に映った。舞子は、一度もこちらを見なかった。
後期試験の実技科目で、純一郎と理加が一緒の組になった。
実技は、雑霊を消す技術についての試験で、霊の種類によっては言葉で説得した方がよい場合もあり、闇雲に退治すればいいというものでもない辺りが、曲者である。どれも風祭助教授と院生が、苦労して集めてきたものだ。
理加は俺に言葉の通じない雑魚を消すように命じ、自分は大きめの霊を相手にして成仏させていた。純一郎も1人で頑張っていた。採点基準はよくわからないが、助教授の眼鏡の奥に見える顔つきから察するに、きっと2人とも合格だろう。
最後の組だったのか、試験会場の教室を出ると、廊下には誰もいなかった。
「夕飯、何処かで一緒に食わんか」
近頃には珍しく、純一郎が俺達を夕食に誘った。しかも外食である。理加も少し驚いた顔をして、腕時計を見たりしてから答えた。
「私は別に構わないけど、栗栖さんとは食べないの?」
「向こうも試験中やし、終わるまで会わないようにしている」
そこで、根津の方の洋食屋へ行く事になった。肉汁たっぷりのメンチカツがおいしい店である。
テーブルマナーが面倒臭いのが難点であるが、俺の好きな店の1つである。理加がナイフで予め切ってくれたのを、フォークに刺して口に運ぶ。箸を使うよりも楽である。そして流れ出る肉汁が、旨い。汁を舐められないのも残念な点だ。
俺がメンチカツに感動している横で、純一郎も理加も黙々と食べている。確かに学生が騒ぐような雰囲気の店ではないにしろ、さすがの俺でも、この沈黙は変な気がした。しかし、どこが変なのか言葉にできない。
黙々と料理を平らげ、膨れたおなかを擦りつつ、椅子の背凭れに寄りかかる。理加も純一郎も食事を終えているのに、立ち上がる気配もない。ついに理加が口を開いた。
「うちでお茶でも飲む? もらいものでよければ、お酒もあるわよ」
珍しく、純一郎は口の中でもごもご唸っていて、返事をしない。しばらく待って、理加は静かに立ち上がった。
「理斗、行きましょう」
俺は席を立たずに純一郎を見た。思い切ったように、純一郎が席を立った。
「綾部、もう少し付き合ってくれへんか」
「いいわよ。今度はちゃんと話しなさいね」
理加が応じた。面白がっているように見えた。




