元ねこ、飼い主の異変に気付く
次の日は理加の運転で、塩原温泉へ行った。
源三窟という、源氏の武士が隠れ住んでいた鍾乳洞や、塩原領主が返り討ちにあった小太郎ヶ淵や、ぐらぐら揺れる吊り橋を見た。
吊り橋を渡っている間、理加は落ちないように俺の腕をしっかり掴んでいたので、俺の腕が痛くなった。普通に歩いていて落ちるような隙間はないのに、変な理加である。
トテトテ、とラッパを鳴らして、観光馬車がやってきた。馬が俺を見て脅えていたので、俺は近寄らないように気をつけた。遊覧馬車だそうだ。理加は馬がかわいい、と馬車に近付いて写真に撮った。
「観光ばっかりしているけど、宿題はどうするの」
「理斗、今まで回った場所で、何か面白そうな霊でも見た?」
俺は首を振った。面白そうな霊、というのはどんな奴を指すのだろう。聞いてみた。
「時代劇に出てくるような、服を着ている人たち」
理加は年齢に似合わず、時代劇が好きだ。人形佐七捕物帳から水戸黄門や暴れん坊将軍、鬼平犯科帳ももちろん、必殺シリーズまで一通り知っている。
俺もTVで一緒に観ているうちに、何となく覚えてしまった。俺には、番組を選ぶ権利は、ない。どうせ、見えても食べられないし。
理加に言われて、俺は乏しい記憶を手繰ったが、着物で頭を剃った霊はいなかったように思ったので、そう話した。理加はがっかりした様子でもなく、
「ふうん。那須でめぼしいものがなければ、別に東京郊外で探すから、無理しなくてもいいわよ」
それなら、わざわざ那須まで来なくたっていいじゃん。俺の不満は、昼食の川魚定食の美味しさで帳消しとなった。丸ごと焼いた鱒を、頭からばりばりときれいに食べると、店の人に感心された。
その後は温泉巡りをして歩いて、結局それらしい霊は見つからなかったので、遊ぶだけ遊んで東京へ戻ることになった。
結局理加は、渡会とは遊ばなかった。良かった。
東京へ戻った理加は、那須高原で憑き物が落ちたみたいに明るくなった。
出不精だったのが、繁華街へよく出掛けるようになったし、料理も俺の好物ばかり作ってくれる。
夏休みの宿題は全然する気がない。一番変わったのは、俺を変な目付きで眺めることである。
怖くはないが、こう、背中がぞぞっとするような感じ。
そう。渡会が俺を見る目に似ている。うわ。
呑気にしていた俺は、不安になった。理加はおかしくなったのじゃなかろうか。
成瀬や絹子叔母に相談しなかったのは、普通の病気ではない、と本能的に思ったからである。
俺は、純一郎が東京へ戻ってくる日を、指折り数えて待った。
お盆も終わり、純一郎が帰る予定の日、俺は電話の傍を離れなかった。
理加は絹子叔母に連れられて両親のお墓参りに行った後、疲れたと言って、近頃には珍しく寝ていた。
電話が鳴った。純一郎だ、と俺は直感して受話器を取った。
「おう、ねこ。久し振り。お土産買うてきたから、これからそっちへ行ってもええか」
懐かしい純一郎の声が聞こえてきた。俺は涙が出そうなのを我慢して、口を開いた。
「あの、俺、途中まで迎えに行く」
「ん、珍しいな。綾部はどうした」
「寝てる」
純一郎は、俺の口調から何か嗅ぎ取ったようであった。大学内にある、食堂近くのバス停まで迎えに来るようにと言って、電話を切った。
「誰から?」
俺は飛び上がった。いつのまにか、背後に理加が立っていた。俺は嘘をついた。
「な、成瀬から。荷物いっぱいあるから、俺、迎えに行く」
「なんだ」
理加の関心が薄れるのがわかった。理加も純一郎のことを気にしているのだ、と思い、俺の心臓がドキドキした。このドキドキは、これまでとは違う。理加と純一郎の仲を気にするとか、俺に興味がなくなった焦りとかじゃ、ない。
とにかく嘘はばれなかったみたいなので、俺は理加の気が変わらないうちに出掛ける事にした。
玄関の戸を閉めるまで、俺は理加に呼び止められるのではないか、とはらはらしていた。
戸を閉めた途端、脱兎の勢いで、自転車に轢かれそうになりながら大学の北門をくぐり、散歩していた三毛の一族を驚かし、バス停まで走り抜けた。
バスが来て純一郎の姿を見るまでの時間が、ものすごく長く感じられた。
純一郎がバスから降りた途端、俺は思わず抱きついてしまった。心細かった。
両手に荷物を持っていた純一郎は、振り払う事もできず、目を白黒させた。
「どうしたんや。ねこ、しっかりしい」
俺は、純一郎に導かれてベンチに座り、課題をこなすために那須高原へ行ったことから始めて、理加がおかしな目で見ることまで記憶にあることを全部喋った。
俺の話を聞いていた純一郎は、途中から眉根に皺を寄せ、難しい顔付きになっていった。
「ねこはその時、綾部から、お守りを全部渡されたんか? 綾部は1個も持たんかったんやな?」
「だって、怖いし。理加は見えないから全然平気で」
純一郎はため息をついて、立ち上がった。
「とにかく綾部に会うてみる。これみんなお土産やし、お前持ちいや」
袋の一つからは俺の好物である干物の匂いが立ち上っていたが、俺は覗く気にもなれず、しおしおと純一郎の後について家へ戻った。
理加は起きて着替えていた。純一郎が玄関の戸を開けると、上がりかまちに立って待ち構えていたのだ。俺は理加に睨まれて、尻尾の毛が逆立つ思いだった。
「うわ、こらこら猫屋敷やな。ねこが手を出せへんのも無理はない」
純一郎の第一声は俺には意味不明だったが、理加の第一声も負けず劣らず意味不明だった。
「お前が日置純一郎か。私を落とそうとしても無駄だ」
「最初から落とそうなんて思っておらん。それより、喉が乾いた。茶でも入れてくれ」
理加は、純一郎が苦笑したきりで泰然としているので、戸惑ったようだった。しばらく突っ立った後、俺達を茶の間に通し、お土産の干菓子に合わせて緑茶を淹れてきた。
以前だったら、これも純一郎にさせていたことである。
「ほう、お茶の淹れ方、上手いのやねえ」
「当たり前だ。何年生きていると思っている」
「で、あんた誰なん」
「言わない」
俺は漸く理解した。
「この人、理加じゃないんだ」
今更何を言っているんだ、という顔で、理加と純一郎が俺を見た。
純一郎が、ちらりと理加の顔をした誰かを見てから、説明してくれた。
「綾部に誰かが寄生しとるのや。綾部には違わんが、今、話しとるのはちゃう誰か。名乗れへんから、2号とでもしておこうか」
「失礼な。私には美宇という、立派な名前がある」
寄生中の誰かは美宇と名乗ってから、渋い顔をした。
純一郎は、名前を知られたぐらいで困るような雑魚ではあるまい、と真面目腐った顔で応じた。
「猫の鳴き声みたいな名前だね」
思ったことを口に出すと、美宇は更に嫌な顔をした。純一郎までも眉を上げて俺を見たので、もう黙っておこう、と決めた。
純一郎と美宇はお茶を啜り、菓子をぽりぽり齧りつつ、互いの様子を窺っている。
手持ち無沙汰なので、俺も菓子を口に入れてみた。あんまり甘くなくて、口の中でさらっと溶けてしまった。不思議な感じである。
「綾部はどうしとる」
「生きている。もともと、生きる気力に乏しい人間だったようだな。私が入ってきても、逆らわずに明け渡したぞ」
それは俺のせいだろうか。俺は不安になって純一郎を見た。
純一郎は厳しい目付きで美宇を見ていたが、俺の視線に気付いて少し表情を和らげ、大丈夫、とでも言うように、首を振ってみせた。
俺と純一郎のやりとりを眺めていた美宇が、突然俺に話しかけた。
「お前、理加と結婚したくないのか」
理加と結婚するというのは、俺と理加の子どもを作ること、だろう。
俺は猫で長生きした。人間になる前、既に子孫を作る欲求が失せてしまっている。俺にとって、理加は娘と同じである。子孫を作る気はない。多分、作れないのではないかと思う。理加を嫁に出す気はないけれど。
「私と結婚すれば、子孫が作れるぞ」
びっくりした。俺の考えを読み取られたようだ。勝手に言葉が飛び出す。
「だってあんた、理加じゃないじゃん」
当たり前のことを言っただけなのに、美宇は言葉に詰まった。子孫を残したいのは俺ではなくて、美宇なのかもしれない。
「そのまま理加に憑いていれば、俺じゃなくても、誰かと結婚できるよ」
慰めるつもりで俺は言った。純一郎が目を剥いた。
「ねこは、綾部と話ができなくなってもええんか」
「それは、いやだ」
よく考えれば、純一郎の言うとおりであった。このままでは理加と話ができない。嫌だ。美宇は理加ではない。
しばらく誰も喋らなかった。やがて、純一郎が口を開いた。
「竹野教授に相談した方がええと思う」
「そうだ。爺さんなら、何か知っているかもしれない」
美宇が黙っているので、純一郎は同意と取って、電話を掛けに部屋を出た。




