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元ねこ、大学へ行く  作者: 在江
プロローグ
1/16

ねこ、飼い主から奪う

 ついに、この日が来た。


 俺は座って、理加が着替え終わるのを待っていた。


 今日は、理加がポン大に入学する日である。ポン大というのは碰上(ほうじょう)大学のことである。実はこれも正規の名称ではないらしいのであるが、俺は他の呼び方を知らない。

 昔、ここにいた殿様の名字だそうだ。また、碰の字は麻雀のポンを漢字で表したものである。そこで、通を気取る人間は、ポン大と呼んでいる。


 理加がこちらを向いた。下着姿で、俺のすぐ側を通りすぎ、後ろの洋服たんすからスーツとブラウスを取り出した。

 ふと、視線が合う。切れ長の目が、俺に対する愛情でとろけんばかりになっている。理加は両親を亡くしているので、俺に甘えているところがある。

 細い指が俺の首筋に触れ、耳までなで上げられた。俺はうっとりとして目を閉じた。やや低い、澄んだ声が耳元で囁いた。


 「理斗、お返事は?」

 「にゃあ」

 「いい子、いい子。今日は入学式だからね、しっかりお留守番するのよ」


 細い指が俺の頭をわしわしと擦った。俺の方がずっと年上なのに、いつも子供扱いされるのは不満である。だが、それもあと暫くの辛抱だ。これからは、俺が守ってやるのだ。

 理加の精気をちょっともらって、人間になりさえすれば……。


 猫と生まれて18年。理加と逢ってからは、そのことばかり念じて生きてきた。ついに、ここまで生き延びた。俺は思わず犬のように尻尾をぱたぱたした。


 理加が着替え終わった。俺に手を振って、背を向けた。今だ!


 俺は、忍び足で小走りに駆け寄ると、はずみをつけて理加の背中に飛び乗った。理加は気付いたかどうか。間髪入れず、精気のツボへ牙を立てた。少しは痛むかもしれない。理加のためだ。我慢してもらおう。


 うまくツボを探り当てて、思いきり吸い込む。途端に塊のようなものが、口腔を通って俺の身体に吸収されていった。

 俺は、たらふく吸血したヒルみたいに、理加の身体からポタリと落ちた。


 これで人間になれる!


 全身に電撃が走った。俺の毛の一本一本が、人間に変化しようとしているのだ。

 視界が歪みはじめた。脳がぐちゃぐちゃと掻き回されるような感じがし始めた。意識を保ったままで変身するのは、およそ不可能に違いない。

 ならば、早いところ意識を失った方が楽である。


 俺は、俺の身体が変わるのに任せた。意識が暗い方へ引きずり込まれていった。



 意識を取り戻して最初にしたことは、自分の身体を確かめることだった。俺は、新しくなった手で、あちらこちらを触ってみた。大体よさそうであった。

 鏡に向かってみる。猫のときには、鏡というものがよくわからなかったが、人間になった今は、自然にその用途がわかった。

 18年も生きていなかったら、きっと人間になっても用途はわからなかっただろう。鏡に映った俺は、理加に似ていた。切れ長の眼に長い黒髪。俺の方が、骨っぽい。並んでみれば、兄妹位には見えるだろう。


 そうだ、理加!


 俺は、部屋の中をきょろきょろと見回した。理加は、隅の方に伏していた。結い上げた髪が崩れて、頭を奇妙な形に見せていた。

 何ともいえない綺麗な色のスーツを着ていた。俺は駆け寄って、恐る恐る理加に触れてみた。


 冷たかった。


 ぎょっとして、すぐに手を引いた。何てこった。精気を全部吸い取ってしまったらしい。折角人間になったのに。

 こんなことなら、一生猫のままでいた方がましだった。俺は、どうして多くの仲間達が言い伝えを実行しなかったのか、ようやく理解した。


 『きっと、恐ろしいことが起こるよ』と、彼らは毛を逆立てて言ったものであった。今となっては、遅すぎたが。


 とにかく、この場は逃げた方がよい。どの位時間が経ったものか。だが遠からず絹子叔母が迎えにくるだろうし、そうなったら俺が理加を殺したのがばれてしまう。


 俺は、衣装棚へ突進した。まる裸なのである。猫の時、着ていた毛皮は、どこかへ消えていた。手当たり次第に服を引きずり出し、俺でも着られそうな服を探した。部屋の中が色とりどりの服で埋まった。


 だぼっとしたワンピースを、やっと見つけてもぐり込んだ。腕を通すのに苦労したものの、何とか着ることができた。動いてみる。妙な感じである。まだ、人間の身体に慣れないせいかもしれない。


 理加は伏したままである。俺は、なるべく理加に近付かないようにして、部屋を出た。


 玄関まで来て、俺は硬直した。引き戸のすりガラスを通して人影が見える。チャイムが鳴った。


 「理加さーん」


 げ、こいつまで押しかけてくるとは。


 成瀬(なるせ)は、理加の幼馴染にして、理加の財産の管財人でもある。父親同士が親友で、理加の両親が亡くなった時も、父親が色々奔走してくれたらしい。

 息子は弁護士となり、先年、父親が急死した跡を継いで、事務局を持った。理加は『秀章(ひであき)さん』などと呼んで、便利な弁護士くらいにしか思っていないが、俺の睨むところ、成瀬は理加に惚れている。


 用事にかこつけては、やたら理加のところへ顔を出す。気に食わない奴だ。きっと、こいつも碰上大学出身だから、入学式には2人一緒に出席できることを知って、絹子叔母と自分が行くつもりで来たのだろう。


 引き戸の裏に忍び寄って、呼吸を整える。成瀬は気付いていない。思いきってガラッと開けた。成瀬の驚いた顔が間近に迫り、俺は身体ごとそいつにぶつかった。相手は尻もちをついた。


 「えっ、えっ、えっ!?」


 不意をつかれて呆然としている成瀬の脇をすり抜けて、外へ出た。暗い塀の上から色彩がはみ出ている。塀がなかったら、道がどこにあるのかわからないに違いない。


 理加の家は、マンションと背中でくっついた形をしている。マンションは勿論、理加のものだ。

 絹子叔母がそこの管理人をしている。

 絹子叔母は管理人室の方へ住んでいて、マンション内の作法室で生け花や着付けを教えて生計を立てている。管理人としても給料をもらっているが、おまけみたいなものである。


 そのマンションの入り口は、表通りの方へ面している。俺が角を曲がると、まさにそこから絹子叔母が出てくるところであった。例の如く、あのすとんとした和服を着ている。俺を見て、ぴたりと立ち止まった。


 「理加さん? あ、理斗?」


 かぼそい声で呼びかけるのを無視して道路を渡った。逃げ道は、一つしかなかった。分厚い木製の門扉が、大口を開けて出迎えていた。碰上大学の入り口の一つである。


 俺は、かつての遊び場である構内に足を踏み入れた。


 全く見覚えのない風景だった。色が増え、高さが変わり、よりはっきりと見えるようになっても、習慣から、匂いと音を頼って耳や鼻を動かしてみた。手がかりは得られない。


 視界の隅を影がよぎった。俺はそっちを向いた。三毛の一族だった。

 俺は挨拶しようと、一歩踏み出した。三毛達は過剰なまでに反応して、ざざざっと一斉に後じさりした。そうして、離れた所から、俺を見上げている。俺は四つ這いになりたくなった。


 そうだ。俺はもう、人間なのだ。理加は死んでしまったというのに。


 俺は、ふらふらと、しかしなるたけ足を速めて、馴染みのない奥地へと向かった。道なんぞどうでもよかった。身体の節々が痛んだ。


 暗く、のしかかってくるような建物の間を次々と通り抜けた。向こうに、白いものが広がっていた。俺は、その明るく見える方向を目指した。


 白いものは、桜だった。急に落ち込むような坂道に沿って、一方の縁を埋めていた。反対側は、高台になっていた。桜の向こうは、池になっているらしかった。かすかに水のにおいが感じられた。


 この桜の大群を前にして、俺の二本足は、突如反乱を起こした。俺は進みたかったのだが、その場に立ち止まっていた。桜は、半ば開きかかった花びらで俺を誘惑しながら、同時に拒絶していた。桜にこんな真似ができるとは思わなかった。


 右手の方で、人の叫び声が聞こえた。

 俺は声のした方を向いた。途端に、空気の塊みたいなものを顔面に食らってひっくり返った。続いて足音が耳元まで近付いた。首を捻じ曲げて、寝たまま見上げると、男が俺を足下に敷いていた。


 新品の濃色のスーツを着たその男は、細い黒ぶち眼鏡の奥から、黒すぐりのようにつやつやと光る瞳で、俺を見下ろした。


 「説明してくれないかな、化け猫くん」

 「だーばー」


 焦ったせいか、言おうとした言葉が全然出てこなかった。俺の前世をひとめで見ぬかれてしまったことに、俺は畏れをなした。必死で猫キックを繰り出そうとしたが、足の動きも封じられていた。


 そこで俺は、フンッと上半身を起こして、男の足をすくうように身体を動かした。男の足はぽろっと外れ、バランスをくずした男は俺から注意を逸らした。


 今だ! 俺は、転がらんばかりに桜の奥へ向かった。あの中へ身を隠せば、素敵だろう。桜の拒絶は無視した。どうせ半分だけだ。後ろで、野太い声がした。


 「そっちへ行っちゃ、いかん」

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