笑顔。
♢ ♢ ♢
「おはようございます若様。洗顔の用意、おもちしました」
キャスターのついたワゴンチェストにお湯を張った金のたらいを乗せ、お部屋をノックする。
返事はない。
しょうがないからそのままドアを開けてジーク様の寝台の横まで持ってきて。
「ジーク様。朝ですよ。そろそろ起きないとお仕事のお時間に間に合いませんよ」
そう優しく彼の体をゆする。
彼の扱いはマーヤから指南を受けていた。起きている時はいいけれど起きなければこうして起こしてあげていたのだと。
「んん。もう朝か、マーヤ」
「おはようございますエリカです。もうマーヤさんは里帰りいたしましたから。今朝のお世話はわたくしエリカに任せてくださいね」
「っつ、俺に近づくな! ワゴンはそこに置いて部屋を出ていろ!」
「はい。承知いたしました。タオルは一段目、お着替えの下着は二段目にあります。本日のお召し物はこちらに」
そういうとクローゼットからジークの本日の着替え一式をハンガーに揃えベッドの脇に置いて。
「それでは失礼致します。今ならまだ朝の朝食に間に合いますね。食堂で皆様がお待ちですからどうぞそちらにお越しくださいませ」
そっと笑みを浮かべ、礼をして下がる。
そのままエーリカも大急ぎで隣の隣の部屋に帰り、メイド服からドレスに着替え食堂に急いだ。
「ああ、エーリカさんおはよう。調子はどうかね?」
遅くなりましたと云いながら食堂に入り自分の椅子に腰掛けると、侯爵がそう声をかけてくれた。
実際はきっともっとやり手なんだろうけれど、こうして家族に見せる顔はほんと奥様や子供のことを思う気のいい叔父様、という感じにしか見えない。
今回のエーリカのメイドに扮する作戦も、「ああそれはいいね。身近に接すればきっと君の良さがジークハルトにもわかるだろう」だなんて結構お気軽に了承し。
確かに。
一筋縄では行かないけれど、それでも少しはエーリカに対して声を出してくれるようになったから。
まだ彼女を近づかせてはくれないけど。
「まだお近くに寄ることもできませんけど、それでもお声をかけていただく事ができましたわ」
にこりとそう答えると、侯爵も笑顔になって。
「その笑顔だよ。君をみそめたのはその笑みが気に入ったからだから」
そう云った。
エーリカみたいな貧乏男爵家の末っ子をどうして選んだのか。
お金で解決できそうだったからか。
そんなふうに思い荒んでいたけれど、この侯爵の言葉には少しだけ、救われた気がしていた。
皆が食べ終わる頃にやっと現れたジークハルト。
侯爵が「おはよう」と声をかけているのに、軽く会釈するだけで自分の席に着く。
苦笑する侯爵を見向きもせず、そのまま特に一言も発しずに食事を始める彼。
「お兄様はほんとそういうところがダメなのよ。もっと周りに気をつかったら? 仮にも侯爵家を継ぐ立場でしょう? もうちょっとちゃんと貴族らしく振る舞ってくれないとこちらが恥ずかしいわ」
そう、面と向かって苦言を云うヴェネッサ。
侯爵夫人も他の子たちも黙ってみているけれど、きっとみんな彼女と同じ気持ちなのだな、と、そうエーリカは感じていた。
ジークハルトは、そんなヴェネッサに、「ふん!」とだけ鼻息荒く噴き出し無視をする。
どちらが年上かわからない、そんな態度だった。
エーリカの席は家族の末席。
ジークハルトは侯爵のお隣。
席が離れているとはいえ、こうして一緒に食事を摂っている時にもこちらを見ることの無い彼に。
エーリカは心の中だけで一つため息をつき、そして目を伏せた。
まだ、メイドでいる時間の時の方がこちらを見る機会が多そうだ。
そんなふうにも思い。
きっと、メイドのエリカがここにいるエーリカだとは全く気がついてもいない、疑ってもいないのだろうなぁと思うと、心の中でもう一つため息をついて。
貴族らしからぬスピードで自分の朝食を食べ終えたジークハルト。
まだ他の皆が食後のお茶をいただいていることも気にもせず、
「行ってくる」
とだけ声をかけ、上着を羽織って食堂を出て行った。
後に残された皆が、それぞれため息をつくのを眺めながら。
(子供、なのかしら。彼は)
精神的に幼い。
そんなふうにも感じて。