衝突世界はまわりつづける
体調を崩した加賀屋 美華はバスに揺られていた。
手にしたスマホを眺めず、窓ガラス越しに空を見ている。
視線の先、空色とは似ても似つかないおぞましい色が青空の一部に穴を空けていた。
美華は、目が離せないまま、見つめている。穴の先から覗く「世界」を見つめていた。
「剥離世界との会談間近」バスに乗っている老人が読む新聞の見出しにはそう書かれている。
血色の空を持つ穴の向こうを、人々は「剥離世界」と呼ぶ。
多重世界説が再び論じられて暫く経った頃、6年前に人々、特に机上の空論と笑った学者達は頭を殴られた様な声を上げた。
「世界が衝突するぞ」と。
時を同じくして各地方で、突如、同日同時刻に、世界各国で人が消失するという異常事態が発生した。
そしてそれと同時に「消失した数だけ」「異形の何者かが」「発生」し「消失した人」の立場にそのままハマって現れたのだ。
しかし剥離世界の記憶を持ったまま現在の世界に置き替えられてしまった為に家族や隣人の姿が変わった事への混乱は一瞬だけだった。
そう、一瞬だけ。置き替えが起きた事で、周りの記憶が綺麗にアップデートされたのだ。しかし当事者達への記憶の改竄は起こらなかった。
そうして、置き替え被害に遭った当人たちが声を上げた結果調査が始まり、世界同士の衝突「前」と「後」という隙間で「置き替え」が生じた、という事がわかった。
それと同時に剥離世界からは現在、「衝突世界」と呼ばれているこちらの世界が、既に衝突し、結びついてしまっているという事実が判明した。
結果的に、今回の事象で前代未聞の事態について正式に発表されたのはそれから一年後のこと。
加賀屋 美華は、その「ハマってしまった人」、通称「ハグ」と呼ばれる存在の一人である。
彼女は剥離世界の頃と何ら変わりがない、言葉数の少ない鉱石症を患う女子学生だ。
「ハグ」となった頃はまだ小学生だったが、現在は中学に通っている。研究者に生活に不自由があるか、と問われた当時、即答したのは
「ーーー」
言葉が通じない事だった。何を言われているのか理解は出来ているのだが言語化し伝えることが出来なかった。そういった部分を含めハグによって差があった様で、理解すら出来ず半狂乱で置き替わった先の家族に大怪我を負わせてしまった蜴人も居た。
置き替わった先が不治の病の少女の病室で、衝突世界に現れた剥離世界では治らないと診断された長寿族の少女の病がすっかり良くなった。という事例もあった。
後にニュースにもなったが、その長寿族と置き替わった不治の病の少女も、剥離世界での療養により現在は退院の目処が立ちリハビリをしている姿は記憶にまだ新しい。
良いことも悪いことも起こった。それが「世界衝突」だった。
「おかえり、美華さん」
帰宅すれば、おばあさんが出迎えた。
既に学校から連絡をしていた為か玄関から一番遠いはずのキッチンからお粥の香りがした。美華が鼻をぴくぴくさせれば、おばあさんは目を細めて美華の頭をゆっくり撫でる。
「ただいまかえりました」
撫でられると美華も目を細め、口元が緩んだ。
美華の持病、鉱石症は剥離世界では有名な重たい病気である。元々鉱山のお膝元で生まれ育つ者が突然発症する土地特有の病気で例に漏れず、美華も宝石発掘の盛んな町で生まれ育ち、自身も校外クラブで採掘活動を行うほどの石馬鹿ともよく言われていた。
鉱石症の症状はたった一つだけ。
「瞳が石化する」
石のように瞳が固くなり乾燥してしまう。というのが正しい認識ではあるが、結果としては外れてはいない。
石化しても視界は良好、少し世界が屈折して見える程度の不便度だが慣れてしまえばどうということもない。剥離世界の人々や、美華自身もそう思って疑わなかった。
世界衝突が起こるまでは。
「美華さんの目は、ここでは難儀になってしまうんやねぇ…」
光が多いこの衝突世界では屈折する光源が強すぎるのだ。それに気が付いてからは遮光加工をされたゴーグルを着けるようになった。
おばあさんは美華が顔に着けているゴーグルを指で撫でながら優しい声で呟いた。
「仕方ないです」
眉を下げて美華が笑えば、おばあさんは、偉いねえ。と一緒に笑った。
「あと、おかえりなさいね。松号、いつもご苦労さま」
肩に手が伸びて、しゃらしゃら音を立て撫でられる。優しくて暖かくて少し、年老いてはいるが柔らかな感触。
「ゲゲッ」
満足満足、と目を閉じて撫でられる。あまりの心地良さに短い喉から声が漏れた。ふす、と鼻息を荒くドヤ顔を披露すればおばあさんのミツ殿はあらあらと可愛らしい声で笑った。
「ナナちゃんは、今日は帰りが遅くなるそうよ。晩御飯どうしましょっか」
手を引っ込めながらミツ殿はキッチンに向かうためにくるりと身体を向けて歩き出し、美華はそれに倣い靴を脱ぎ後に続く。肩に乗る私は楽々である。
私は蛙、名は松号。(まつごう)
世界衝突により、突然変異した唯一の種族である。偉いのである。知恵のある種なのである。
知恵をつけた蛙種はハグ達を補佐する役割を与えられた。と記憶している。
それはあの事変以前、以後を記憶していた為らしい。私は知識を得たのだ。素晴らしい事だ。
「ミツさんの作る粕汁、食べたいです」
「下拵えはもう終わってるんよ。美華さんに聞いてるのはおかずの話」
お見通しだと言わんばかりの返しに、美華の表情は口元を結び、口端はにやけていた。冬場は体調を崩しやすい美華の為に、ミツ殿はよく粕汁を作っている。
私も大変に好きである。
新種族となった我々蛙だが、何故かアマガエル種だけは相も変わらずカロカロケワバケワバと悠々暮らしている。あの頃が羨ましいかとたまにアマガエル種の知り合いから聞かれるが、半々だと答えている。
利便を知った我らが元に戻るとなれば、受け入れるのは早かろうが順応し直すには記憶を消してしまわないと駄目な気がする。私はそう思っている。
「まつ坊、身体を綺麗にしないとね」
そんなわけで私はいまから少し早い風呂をいただくとする。