一つだけ、願いが叶うとしたら…
暑苦しくて目が覚めた。寝る前につけていたエアコンはいつの間にか切られている。でも、これは毎度のこと。妻は寒がりでエアコンをつけたまま寝るのが苦手なのだ。久しぶりの休み。もう少しゆっくり寝ていたかったのだけれど、仕方なく起きることにした。
居間に顔を出すと、朝食の支度が出来ていた。握り飯とインスタントの味噌汁。けれど、妻の姿はない。代わりに書置きが残されていた。
『今日はお友達と出掛ける約束があります。帰りは夜になるのでお昼と夕飯は適当に済ませてください。《追伸》今日も暑くなりそうだけど、電気代がもったいないのでエアコンはつけないでね。どうしても我慢できなければどこか涼しいところへ出掛けて過ごしてください。費用はお小遣いの範囲でお願いしますね』
朝食を終えて新聞に目を通し、撮り溜めたDVDを見ていると暑さが増してきた。エアコンをつけようとリモコンを探した。けれど見つからない。
「隠されたか…」
苦笑いを浮かべDVDを止めた。
「映画でも見に行くか…」
仕方なく出掛けることにした。
近くのショッピングモールは家族連れなどで賑わっていた。そのショッピングモールの中に映画館がある。ちょうど興味を引く映画が上映されていた。チケットを購入して入場する。冷房が効いていて快適だった。ホットドッグとコーラを買って座席に着いた。映画も期待通りの面白さだった。上映が終わって映画館を出る。
「さて、これからどうしようか…」
家に帰ってもエアコンがつけられないのだから、どこか涼しいところで時間をつぶしたい。そう言えば、ショッピングモールの近くに喫茶店があったのを思い出した。昔ながらの古めかしい喫茶店だけれど、時間をつぶすのにはそういう場所の方が落着くのかも知れない。
予想した通り、店内は空いていた。低いボリュームでモダンジャズが流れている。店の奥のボックス席に着くと落ち着いた雰囲気のウェイトレスが注文を聞きに来て、おしぼりと水の入ったコップを置いた。
「お決まりになりましたらお呼び下さい」
「あ、アイスコーヒーを」
「承知いたしました」
彼女は軽く頭を下げてから微笑みかけて下がって行った。そして、すぐにアイスコーヒーは運ばれてきた。
「どうぞごゆっくり」
再び微笑んで彼女は下がった。アイスコーヒーを一口すする。
「あんな子と結婚できていたら幸せだろうな」
「お客様、そろそろ閉店時間になりますよ」
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。彼女の優しい声に起こされた。周りを見渡すと既にほかの客は居なくなっていた。
「あ、ごめんなさい。あまりも居心地が良かったもので。もう、帰ります」
「あの…」
席を立とうとすると、彼女に声を掛けられた。
「当店は閉店後に特別な営業をしております。もし、よろしければそちらにご案内いたしますがいかがでしょうか?」
どうせ家に帰っても夕飯はないし、暑苦しいだけだ。だったらここでもう少し時間をつぶしていくのも悪くない。ただ、特別な営業というのがどういうものなのか…。値段も気になる。
「特別な営業って?」
恐る恐る聞いてみると彼女は満面の笑みを浮かべて答えた。
「何かかなえて欲しいことがあったら、一つだけ叶えて差し上げます。お金は掛かりません」
「無料?」
「はい。お金は頂きません」
「どんな願い事でも?」
「はい。どんな願いでも一つだけ叶えて差し上げます。
本当にそんなことが出来るのだろうか…。考えていると、人の心を読んだかのように彼女が口を開いた。
「出来ますよ。そして、あなたの願い事もすでに存じております」
「解かりました。それではお願いします。
「お客さん、もう閉店ですよ」
低い男性の声で目が覚めた。彼は店のマスターのようだった。辺りを見回してみる。先ほどまで居たウェイトレスの女性の姿は既になかった。
「あの、特別営業は?」
「は? 何のことでしょう?」
「あ、いえ、なんでもありません」
料金を支払って店を出ると辺りは既に暗くなっていた。けれど、暑さは一向に和らいではいなかった。
帰宅してドアを開ける。
「あれっ?」
家の中が涼しい。エアコンがついている。さすがに妻もこの暑さじゃ、エアコンをつけずには居られないのだろう。
「ただいま」
「お帰りなさい」
珍しく妻が返事をした。でも、あれ? 声が違うような…。そして、玄関に顔を出した妻を見て驚いた。いや、その女性は妻ではなかった。まさか、家を間違えたか? いったん外に出て表札を確認する。間違いない。ここは自分の家で間違いない。なのになぜ…。
「何してるの? 夕食の支度が出来てますよ。それより先にお風呂にします?」
おかしい…。明らかに妻じゃない。なぜ、彼女がここに居るのだろうか…。
「どうして君がここに?」
「何をバカなことを言ってるの? 自分の家に居るのがそんなに変かしら?」
「いや…。ちょっと待って」
書斎に行ってアルバムを見た。妻が移っているはずの写真には妻の代わりに彼女が移っている。
「そんな馬鹿な!」
「あなたが願ったことでしょう? 私と結婚していたら…って」
不意に背中越しに彼女の声が聞こえてきた。あの喫茶店に居たウェイトレスの彼女。
「まさか、本当に…。じゃあ、妻はいったいどこに?」
「あなたの妻は私。他には存在しないのよ。あなたがそう願ったから」
そう言って彼女は体を絡めてきた。その体がクネクネと巻き付いて来る。彼女の顔が目の前に現れた時、大きな口から二つに割れた舌がにょろにょろと這い出してきた。
「願いを叶えてあげたのだから報酬をいただくわ」
「な、なんだって! お金は掛からないって言っただろう?」
「ええ。お金はいらないわ。だからあなたの命を貰っていくわ」
大蛇に化した彼女が大きき口を開けた…。
目が覚めた。相変わらず部屋は暑苦しい。
「夢だったか…」
布団を抜け出し居間に顔を出す。
「おはよう」
「おはよう」
妻が振り向く。
「えっ?」
振り向いたのは妻ではなく、彼女だった。