鹿島VSレアル戦における安部選手
サッカーの鹿島アントラーズ対レアル・マドリードの試合を見ていました。前評判からそんな感じだったのですが、鹿島アントラーズがヨーロッパでも名門クラブのレアルに勝てるのではないかと言われていて、自分もその可能性はあると見ていましたが、1ー3で敗北しました。
傍から見ている限り、レアルはぬるっとした入りでそれほど積極的でもやる気があるわけでもなく、鹿島はやりようによっては勝てたのではないかという気がしましたが、試合後のインタビューを見ると、傍から見ている以上に、選手達はレアルとの差を感じていたようです。
鹿島にはまだ若い安部という選手がいて、これが期待の選手で、僕も期待していましたが、試合後はかなりショックだったようです。海外に出て経験もある内田篤人が後輩の安部を気遣うコメントをしていましたが、それを見て、安部という選手の中で何が起こったのか、おおよそイメージするものがありました。
自分はサッカーについては詳しくないですが、基本的には、世界との差、自分よりも遥かに上との差に絶望するというのは非常に良い事だと思います。安部選手は今は辛いと思いますが、後になって、若い内にそんな風にレベルの差に痛感し、辛い思いをした事に感謝する日がやってくるはずです。後になって振り返ると見えてくるはずですが、そういう経験ができるというのは非常に恵まれていると思います。絶望するにも才能 (のようなもの)が必要です。
自分は文学人間なので文学の話をしますが、最近、内村鑑三を読んでいて、内村鑑三がヨーロッパかアメリカに行ってひどく絶望したというのを知りました。どっちか忘れましたが、彼ら欧米人が明日日本が消滅しようともさほど悲しまないだろうというのを内村は痛感し、非常にショックを受けたそうです。
同様の経験を夏目漱石なんかもロンドンでしています。しかし、今から振り返れば、内村鑑三とか夏目漱石、その他にも森鴎外やら何やら、当時の日本は偉大な人物が沢山出ています。
それは何故かと考えた時、僕は彼らが日本の卑小さ、くだらなさ、小ささ、弱さを徹底的に痛感したというのと関係があると思います。彼らはその時、日本社会が欧米に比べいかに弱いかを痛感し、自分達の存在を相対化する事ができた。それが彼らに世界的な目線を与え、そこから這い上がろうとする事で、彼らは偉大になったという気がします。
現在の日本はそれとは逆で、ナルシシズムの中に酔う事が市場を通じて肯定されているような状況です。自分達に都合の良い物語を語れば受け入れられ、その物語を語った人間も過剰に礼賛されたりします。こういう、絶望と向き合う事に欠けた雰囲気では偉大なものは出てきにくいでしょう。
サッカーの話に戻りますと、レアル・マドリードとの試合で力の差を痛感し、ひどく落ち込んだというのは間違いなく良い事だと思います。むしろ、そんな絶望を味わう機会が、今の社会では奪われているような状況ですから、スポーツを通じてそういうものが味わえたというのは幸運だと思います。
月並みですが、安部選手はこの絶望を糧にしてこれから這い上がって欲しいと思います。僕は今の社会に足りないのは絶望、またそれを見つめる力だと思います。自分自身と向き合うというのも、誰にでもできるものではない、生半可な事業ではないと僕は思います。安部選手にはこの機をバネに這い上がって欲しいと思います。
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