第2小節 曇りのち、
部屋にはカップ麺の独特な残り香が漂っている。
明日までに完成させてみせる、そう啖呵を切ったのはいいもののメロディー作りは今日考えたところで、すぐできるとは限らない。すぐにメロディーラインを思いつける人もいるだろうが、俺はそのタイプではない。
また、これがベストだと思えるもの以外で締め切りを間に合わせたところで、彼女を納得はさせられないはずだ。どうすれば最善か。全然分からない。きっとこれに明確な答えがあるとすれば、それは自分の限界を超えるしかないということだろう。
明日は土曜日であるから大学に行かなくていいが、今からフルに時間を活用したところで1日しかない。
俺が作ったボカロの歌をとりあえず彼女に聞かせることもできなくはないが、俺はそれをしたくはないと思っていた。きっと、俺が有名なボカロ音楽家であることを伝えたところで、彼女は俺からの提案を受け入れはしないだろう。
ボカロにはボカロ特有の音楽観があり、そうでない曲の雰囲気とはやはりどこか異なっている。であるからボカロ音楽で自分のすごさを伝えたところで、いざ、そうではない曲を作ってみたら彼女の納得に至らなかったでは元も子もないのである。
そんな生産性のないことを考えているうちに、時計の針が1周していた。
そこで俺はようやく踏ん切りを付ける。
どこまでできるかは分からないけど今は止まっていられない。どうするか考えるのは後からにしよう。
そして俺はシンセサイザーに手を伸ばす。書き上げた歌詞をセットし思いつくまま、手の動くままに弾いてみては「あーだ、こーだ」考えては書き直すという作業を繰り返し続ける。
時間が許す限り。
人工灯が照らす部屋に、気がつけば日差しが差し込んできていた。カーテンの隙間から、朝を告げてくれたようだ。
あぁ、もう朝か。早いな。
こういった周りの変化に気づいてしまうということは、裏を返せば集中力が途切れたということを客観的に確認させてくれるいい指標であるので、俺はいったん作業を中断し休むことにした。そう思い椅子から立ち上がると、目の前に星が舞い倒れ込む。長時間作業していたせいで、どうやらめまいを起こしたようだ。集中しているときには、自分の体の疲労になかなか気づけないこの体を脱ぎ捨ててしまいたい。
ふらつきながらも体を起こし、うーんと背伸びをする。このときの背伸びほど気持ちいいものはないと思う。バキバキと体が音を立てるのが聞えるようだ。
俺はこのときに自分が昨日の服装のままであることに気がついた。
昨日、彼女と別れてからは、少しでも早く作業に取りかかるためにスーパーへ行くことをやめ、近くのコンビニでカップ麺を購入しアパートへと引き返した。そして、カップ麺にお湯を入れるやいなや作業に取りかかった。その後カップ麺を食べたかどうかすら定かではない。もしかしたら、のびきっているかもしれない。
そういや、風呂入ってなかったな。このままやってると息が詰まりそうだし、風呂でも入って気分転換するとしますか。
下宿生は普段は浴槽はためずに、シャワーだけで済ませている人が多い。俺もその一人ではあるが、今は湯船につかって疲れを落としたい気分であるので、体を浸せる程度まで軽くためて浸かることにした。体をさっと洗い、その身を湯船に沈める。ハァという感嘆の声が自然と漏れ出したことは言うまでもない。
身の疲労が溶けて流れ出しそうな感じがした。あまりの気持ちよさに目をつぶって堪能していると、
徐々に意識が揺らぎ始める。一睡もしていないせいもあり、寝てはいけないと思えば思うほど意識が遠のいてゆく。
今寝たら間にあわn・・・
俺はこの時・・・風呂の怖さを知った。
ピトッと顔に何かがしたたるのを感じ、目を覚ました。俺はこの状況をまどろみの中で俯瞰する。
風呂で寝ちゃったのか、それにしても気持ちいいなぁ。ん?さっきまで何か大事なことをしていた気がするけど・・・
ぬるま湯の中で意識を少しずつ取り戻し始めていく。
「あー!!!」
俺はふやけきっていた体を叫び起こした。そして、先ほどまで抜け出せそうになかった湯船を瞬間的に抜けだし、現在の時間を確認する。
頼む、そんなに経ってないでくれよ。
濡れたまま、リビングへと足を走らせた。一目散に時計を見る。
時刻は4時を回っていた、つまりは約束の時間まであと4時間強。時間はほんとに無慈悲である。
はぁ、嘘だろ。間に合うのか?!
俺はこの現実を受け入れられなかったが、飲み込んだ。そして、ささっと体を拭き終え、服を着替えて再び作業に取りかかる。心のどこかでもう無理だと感じつつも、逃げてはいられない。
それから約束の時間までの記憶はほとんど覚えていない。ひたすら集中していたとしか分からない。気づいたときに手元にあった楽譜だけが、何があったかを覚えている。
俺はそれらを全て鞄に詰め入れて、急いでゴミ山を後にする。
夜の街を駅の方へと駆け抜ける。普段は夜風が気持ちいいが、今は心をさらうように感じられた。
昨日と同じ時刻、同じ場所に着くと、昨日とは違う格好をした彼女が待っていた。ベレー帽をかわいげに被り、ストールを巻き、スプリングコートを羽織っているといったいかにも春らしい格好をしている。もちろんその背中にはギターを携えていたので一目で彼女がそうだということを理解した。
ぜぇぜぇ息を切らしている俺に彼女が声をかけてくる。
「こんばんは。時間ちょうどですね。」
そう言いつつニッと彼女は笑顔を見せる。
頼んだのは俺の方なのに後からぎりぎりに来るとは、彼女はどう思っているんだろうか。
若干の気まずさを感じつつも
「こんばんは。ではどこかお店にでも入りますか?」
これは俺にとって当然の提案であった。近くのお店に入って、楽譜を見てもらう。しかし、何かが気にくわなかったのか、先ほどまで笑顔であった彼女の顔色が一転、曇ったものへと変化する。そしてその理由はすぐに彼女の口から話される。
「えっ、今からここで実際にライブするのではないのですか?」
今から、ここでライブする?俺が!?
彼女の言葉が信じられずに俺はついつい聞き返す。
「俺が今から、ここで路上ライブをするって事ですか?」
「そうではないのですか?」
一点の曇りもなく彼女は返答してきた。
「ですが、俺は歌に自信は全くありませんし、これはあなたに歌ってもらうために作った曲です。あと、見てもらえば分かると思いますが、今はシンセサイザーを持ってきてません・・・」
そう言うと、彼女はどうしたものかと悩みの色を見せ始める。「うーん」、「えーっと」などと言った声を発しながら首をかしげている。
俺もどうしたものかとさすがに焦り始める。
実を言うと、曲は完成していないのだ。正確に言うとCメロ以降のメロディーが付けられていない。風呂で寝落ちしてしまったせいで、ただでさえ短い時間をさらに短くしてしまった。たとえ時間が合ったとしてもアイデアが浮かばなければ作れないメロディーだ。俺には到底無理なことであった。
そのため、俺は申し訳ないが店に入り今までできたところだけを見せて、なんとかやりすごそうとしていた。しかし、想定外にも彼女に路上ライブをしろと言われ、俺はひどい冷や汗をかいていた。
頼む、どうにかなってくれ!
彼女にとって今がどんなに大切か分かっているつもりだ。だから自分が本当に最低な奴だとは思ってやまなかったが、今だけはそんな自分を隠し通したかった。
今まで悩んでいた彼女であったが、ついにどうするのかを決めたらしく「では・・・」と話し始める。その言葉の行き先を俺は肝を冷やしながら聞く。
「歌詞を渡してください。私はここで歌詞を覚えながら待ってます。あなたは、確か昨日アパートが近いと言ってましたよね?シンセサイザーを持ってきてください。それから2人で路上ライブをするのはどうでしょう。」
彼女が歌ってくれるということは本来嬉ぶべきことであったが、今だけはそうは思えない。
彼女に歌詞を渡すということは、つまり未完成であることを知られるということだ。きっと彼女がそれを見たら、その時点でこの駆け引きは失敗に終わるであろう。
「そ、そうですね。」
とだけ短く返す間も、どうすればいいかと頭をフル回転させる。しかし、彼女は右手を俺の方に差し出してきて、ひょこひょこさせてくる。早く歌詞を渡して欲しいということであろう。
可愛らしいが、容赦がない人だ。
俺は危機回避策を必死に考えていたが、何一つ思いつかない。そのためもうどうにでもなれと思い、彼女に書きかけの楽譜を気力なく渡す。渡す俺の手は恐怖からか震えていた。
「じゃあ、シンセサイザーを取りに帰りますね。15分くらいで、戻ってこれると思います。」
もちろんその言葉にも気力がないものであった。
彼女は「了解しました。」とだけ返事をし、渡された楽譜にさっそく目を通し始める。俺は彼女の顔を見れず、指摘される前に逃げるようにその場を後にした。
もう彼女に合わせる顔がないや。アパートに着いたらいっそ寝ちゃおうかな・・・。
そう思いはしたものの、せめて彼女に謝らなければいけないという思いに締め付けられ、俺はシンセサイザーだけを持って、またあの場所へと戻ってきた。
ごめん・・・
彼女は別れた場所と同じ場所で待ってくれていた。未だ楽譜に目を通しているようで、先ほどとは違い、彼女から気づいてくれるということはなかった。
彼女に近づいてゆくその1歩1歩の足運びが鉛のように重く、また距離が無限に感じられた。でも、残酷なことに歩いていれば必ずそこへと着いてしまう。
彼女はすでに未完成であることに気がついているだろう。どんな反応をされるだろうか。まだ気づかれてないし、今から逃げても遅くは・・・いいや、しっかり謝ろう。
俺は未だ残る逃げ出したい気持ちを押さえ込み、深く深呼吸をし、そうして決意を固める。
「戻りました。」
まずは、気づいてもらうために声をかける。
彼女は全く気づいてなかったようでビクッと身を震わせて驚く。それから、彼女はゆっくりと俺の方を向いた。そして、彼女と目が合ったとき
「ごめんなさい。歌詞は完成し・・・」
完成しませんでした、ごめんなさいと素直に謝ろうとした。
しかし、それを遮るかのように彼女がドスッと俺の胸に楽譜を突き渡してくる。楽譜を返されたのだ、彼女の怒りが触れた手から心に流れ込んでくるかのようであった。
あなたとは組めません。お断りです。
そう言われることを覚悟し、俺は言いかけの謝罪も言えなくなってしまった。静かに目を閉じて、その決別の瞬間を待った。
しばしの静寂が流れる。
彼女の重い口がついに開かれた。
「何で受け取らないのですか?あと、シンセサイザーの準備を早くしてください。ライブ、やりましょう!」
彼女の言葉が想定外すぎて、もう何が何だか分からなかった。どうして、なぜ彼女は怒こっていないのか。未完成の曲を渡したのにいったいなぜ・・・。はたまた、これは夢なんじゃないのか。ライブをするだなんて!?
様々な思いがこみ上げてきて、聞きたいことがたくさんあるのに声が詰まる。唯一言えたのが
「なんで・・・?」
であった。そんな俺を蟇目に、彼女はマイクを準備し始めていた。そして、俺の質問に対してこうとだけ答えた。
「なんでじゃないです。“ライブ”をするのではないのでしたか?」
それは俺の質問の回答にはなっていなかったが、俺には答えのように聞えた。熱いものが胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。
俺の心の中はいろいろな感情がごった返していて、自分でも今の本当の気持ちが理解できないでいた。
「はい!」
しかし、その言葉だけは無意識に口から漏れ出してきた。これが本当の心なのだろう。
俺は彼女から譜面を受け取り、急いでシンセサイザーの準備に取りかかる。
駅付近の歩道は、土曜日ということもあってか昨日に比べ人通りがとても多かった。その近くで楽器を準備しているとどうにも人の目線を感じて落ち着かない。
そんな俺に対して彼女は、堂々とその場で身を構えて立っていた。華奢で細い線の彼女がとても大きく感じられる。
あまりの急展開で少し忘れてしまっていたが、未完成の曲でどう演奏すればいいのだろうか。シンセサイザーの準備を終え、今からライブ直前だと言うときに一番重要なことを思い出す。
「すいません、曲が完成してないことは気づきましたよね。どうするつもりなんですか?」
ほんと今更で、逆に滑稽な質問であった。それに対し彼女は、
「あなたは譜面通りに最後まで弾いてくだされば良いですよ。あなたのこと信じて歌いますから。」
と言ってくる。しかも強い意志を持った声で。
最後までって、もしかしてできてないことに気づいてないのか?
彼女の解決策になっていない返答に困り果てる。
しかし、ここまで来た以上引き下がることもできない。なら即興でも何でも弾ききってやろう。無謀な考えに至りつつ、確認のため楽譜をもう一度さらい直す。指の動きを確かめるようにして。
ペラペラ
そして次からがCメロの譜面だ。まだできあがってはいないが、即興で埋め合わせるにしても考えておかなければならない、そう思い譜面のページをめくる。
えっ!?
これはいったいどういうことだ。なんで埋まっているんだ・・・!
俺はその光景に驚きを隠せない。どうなっていたかというと、書き上げられていなかった部分のメロディーが完成していたのである。どういうことなんだ?と譜面を見ながら思っているとある1つの結論に至った。
この柔らかいメロディーの感じはどこかで聞き覚えがある。そう、それは昨日の夜の路上ライブのときだ。彼女は俺がアパートへ取りに帰っているたかだか10数分の間に完成させてくれていたんだ!
これが分かったとたん先ほどの彼女の言葉の意味を同時に理解した。
「譜面通り最後まで弾けば良い」は、彼女が書き足してくれたとおりに弾くということ。「あなたのことを信じて歌いますから」は、俺の腕を信じて1発で合わせて欲しいということだったのだ。
だから、彼女は自信ありげに発したのか。
俺はこの事実に気づくとともに、彼女に答えなければならない、そういった思いを強く胸に抱いた。
「準備は良いですか?」
彼女がライブ開始の確認を聞いてくる。俺は涙声なのを気づかれないように、不自然なくらい強く
「あぁ!」
とだけ答えた。それ以外の言葉はこの場にはいらないだろう。
高揚する心臓。
震える指先。
彼女の後ろ姿。
二人の間でしか聞えない「せーの」の合図。
今、ついに、ライブが始まる!!
細部補修
4月10日 キャラのセリフを一部変更しました