008 偶発特異点
剥落したタイルを踏みつけた。
乾き砕けたそれを靴裏で横へ退ける。
廊下には血の刺激臭が充満している。
それに加え、食べ物が腐った臭いとスプレー塗料の揮発したシンナーの臭いのごっちゃ混ぜた空気が、鼻孔を通り抜け、不快感の波が脳味噌を揺さぶった。
不規則な点滅を繰り返す蛍光灯に、女は不愉快そうに細眉に皺を寄せた。床には、いったいどれだけの弾を撃ったのか、そこかしこに血の海でぬめり光る真鍮製の空薬莢が転がっている。ともすると、鼻を利かせれば、まだ硝煙の残滓を嗅ぎ取れそうなほどに。
渾然としたマスコミの一団を潜り抜けた女は、胸ポケットから刑事のバッジを取り出し、胸にかけた。マスコミの人間が犯罪現場の周縁をうろつくことはままあったが、今回のような大群にお目にかかるのは初めてのことだった。
中継バンから根をはったように伸びるケーブル、擬似的なエンジェルハイロウを作る照明機材、一斉に立ち構える銃座にも似たテレビカメラ、真剣な顔つきのリポーター。見渡すだけで2ダースはいるだろう。雨に濡れるのも構わずに、バリトンボイスを張り上げて実況に勤しむ姿は、職人魂の賜物か。いや、違うだろう――女は頭に浮かんだ殊勝な考えを押し殺した。
何人もの人間がここで殺された。マスコミがこの事件に、どのような脚色とイメージカラーを付けようとしているのかは知らないが、それは結局のところ野次馬根性によるものだろうからだ。
建物に入る前にとっさにバッジを隠したのも、煩わしい質問攻めを避けたいがためで。
だというのに――
「刑事さん、ギャング同士の抗争という情報は本当ですか!」
こいつらはどこにでも現れる。ゴキブリみたいな連中だ。いくら現場を封鎖しても、僅かな隙間からするりと入り込むのだから。
階段踊り場で待ち構えていたのは、長身で太りじしの赤毛をダックテールにした男だった。ウェストハムのホームカラーである赤いスタジアムジャンパーに、金縁の丸レンズサングラスをかけている。右手には撮影用のハンディカムを持っており、
「マスコミが力になりますよ!」
女の姿態をくまなく撮りながら、喜々として声を張り上げた。
「この国でこれだけの銃撃事件は珍しい。取材に協力してくれませんかね!」
フーリガンじみた形貌に見合う粗野な態度。女は、行く手を遮るように塞ぐ男を睨みつけた。
「ノーコメント」
下手な事を言えば上司にどやされる。それに、たとえ職務倫理規定が免責されたとしても、こっちにも喋る相手を選ぶ自由くらいはあるというものだ。
そんな内心を知ってか知らずか、
「あんた、知ってますよ。〝ダーティー・バービー〟の有名人だ」
女のレーザー銃のような鋭い視線もなんのその、男は息漏れした声で得意げに言った。
女の目尻が小さく痙攣した。
「関係者以外立ち入り禁止よ。さっさと失せなさい」
「そんなこと言わずに!」
「邪魔だって言ってるでしょ!」
女は力強く、男の腹を押し退けた。フーリガン男は『権限』がどうたらとかで、情報開示の声を浴びせる。だが、それらを無視して進む女に苛立ったのか、
「後悔するぞ! 大衆は俺たちの味方だ! バッシングしてやるからな!」
唾を飛ばしながら、汚らしい言葉を喚いた。
She is tight as fuck!!
壁には、マントラのように汚い言葉が書き綴ってあった。
どこからか赤ん坊の泣き声がした。年月の入ったコンクリート壁はあちこちが擦り切れている。女は嫌気がさした顔で、×印のバリケードテープをくぐる。どうせ、今回もろくな事件じゃない。女がそう考えるのも仕方のないことだ。
ケーキハウス――レイランドに押し付けられた汚点。移民を収容する役目が、住居を構える当人たちによって、大きく変化させられた負の遺産。ここを拠点に各地で犯罪が頻発し、実りの収益となって還元される。
近隣住民が忌み嫌って同然だ。仕事柄、政治活動はできないが、女も建物取り壊しの賛同署名をしたことがある。効果があったのかは疑問だが、悪党どものねぐらが撤去されれば、こちらの仕事もぐんと減るはず――黄色と黒の警告テープの先を覗き――女は酸っぱい胃液がこみ上げるのを我慢するのに必死だった。
「来たか……クレア、見ての通り死体がそこいらにある。エレベーターの前に二人、そこに三人、部屋に五人だ。ああ、一階にも二人。合計十二人の銃殺死体が――吐くなよ?」
階段を使い、六階まで上がってきた無個性なグレースーツ姿の女――クレアの蒼褪めた顔を見て、老年の刑事が溜息をついた。
クレアは交通課上がりの新米刑事だ。刑事課に配属されてから、まだ幾月も経ってない。ケツの青いナントカってやつだ。
クレアの表情は強張ったものだが、それは、死体が魅せる本質的なおぞましさに慄いたからではなく、むしろ、死体が見せる最後の表情に魅入ってしまったからだ。
もといた部署の関係もあって、クレアは事故に巻き込まれた人間の末路を見慣れている。交通事故による死体というのは独特で、基本的に人間の仕業では考えられないような惨状を作り上げる。
ねじ切れた手足、胴体にめり込んだ頭、散らばった臓器、酸鼻極まる光景。悪夢的光景だ。銃で殺された人間の死体なんて、あれに比べればかわいいもんだ。
彼女は自身にそう言い聞かせた。だけれども――グロテスクな日常に神経が麻痺しているとしても――明確な殺意を以って殺された死体の表情に、息をのむ。
しっかりしろ、この程度なんだっていうんだ。下ろし立てのスーツに身を包んだ彼女は、正義を信じる情熱的な大きな目を見開いた。死体の顔を覗き込むために。
「す、すいません……もう大丈夫です」
まなじりを決した顔つきに変化したクレアに、老年の刑事サイモンが、「入れ」と声を掛けた。
サイモンは五〇代の終わりからから六〇代はじめの男だ。牧師のようにきっちりとした頭髪を持ち、目の下には薄らと青い隈がある。普段から仏頂面で、口元は真一文字に引き結ばれており、必要なことのみを明瞭に述べる癖の持ち主だ。
足元に散らばる証拠マーカーを踏まないように、六〇三号室に入る。黄色い鑑識標識板、乾いてどす黒くなった血、フラッシュが焚く音……折り重なるように倒れている死体は、短機関銃を手に握っていた。
「ギャングの抗争ですか?」
血染めのカーペット。その上で死体を凝視するサイモンに訊くと、
「いや、そうは言い切れない。見ろ」
サイモンが顎を下にしゃくる。そこには眉間に穴があいたスキンヘッドの死体が、目をかっと見開いていた。
サイモンは膝を曲げ、しゃがみこむと、
「死因は頭にぶち込まれた一発だろうが……」
白いゴム手袋で死体の右腕を持ち上げ、腕にあいた穴を胴体にくっ付けた。貫通痕を見せつけるように。
「死体どもが持ってる銃の種類は?」
「あ、ええと……短機関銃に拳銃です」
「射入口に焦げ目がない。弾はきれいに貫通している。9mmの銃弾じゃ、腕から反対側の脇腹までこうは抜けない。そこの男の強装弾でも、こうは綺麗にいかないだろう」
サイモンの視線の先には、トイレの便座に坐り込んでいる死体があった。右手にはリボルバーが握られている。
「つまり、もっと高威力の……ライフル弾で撃たれたってことですか?」
クレアの疑問に答えずに、サイモンは指を窓へと向けた。冷たい冷気が、拳二つほど開いたカーテンの隙間から入り込んできた。クレアがカーテンを開くと、そこには小指の太さくらいの穴が開いていた。穴を中心に蜘蛛の巣状にひびが入っている。
「狙撃」
その一言に、立ち上がったサイモンは小さく頷くと、クレアの二の腕を指で突いた。
「ひゃっ! な、なんです?」
「いいか? この死体だけ、ここにいない第三者に狙撃されたんだ。そして、その第三者は――」
小さな抗議を無視して、指を窓ガラスの穴へ動かす。その線を伸ばした先には、雨霧で輪郭がぼやけた建物があった。
「あそこから僅かに開いた隙間越しに、こいつを狙い撃った。そして、こいつが俺の疑問なんだが……わざわざ、致命傷を負ったこいつにとどめを刺した奴がいる。いいか? 拳銃を持った連中は一発も撃ってない。そして、短機関銃を持った……恐らくロシア人はやたらめったら撃ちまくっている。この意味がわかるか?」
クレアは必死に頭を働かせた。現場を見渡す。壁から天井まで至るところに弾痕がある。それは入口通路の壁際に集中していて――
「……死体は二つのグループに分けられます。拳銃を持った男たちとロシア人の二つです。ですが、この現場には第三のグループがいた。旋条痕を調べましょう。おそらく、十二人を殺した銃はこの場にはないはず」
「そうだ。お前を引き抜いて正解だったな。なかなかの洞察力だ」
自分の能力を試されていたと察したクレアは、少しばかりの憤りを覚えた。しかし、すぐさま思い直す。いまのは彼なりの配慮なのだろう、と。
数か月前までは、交通課で飲酒運転の取り締まりに精を出す日々を送っていたのだ。
そんな彼女が、いまでは制服を脱いで殺人現場に足を運んでいる。正義を志すクレアにとって、刑事課への配属は喜ばしいものだった。
クレアの栄転となった切っ掛け――老年の刑事サイモンの目に留まり、彼女の人生の転機となった、とある少女連続殺人事件の顛末を語ろう。
当時、マスメディアは一連の凶行を連日こぞって放映した。ついには〝ダーティー・バービー事件〟という、ふざけた呼称まで付いた残虐な事件だ。
事件発覚は突然だった。
それを最初に見つけたのは、健康体で余生を過ごすためにささやかな早朝ランニングをしていた老人だった。場所はルーガル森林公園の一周十五キロの走行コースの傍ら。自然豊かな公園におよそ似つかわしくない不審物を見咎めたことが、世間を賑わせる発端となる。
季節は春先。日差しが細ばった枝先を潜り抜け、木々の天蓋から光のカーテンが下ろされた落葉樹林のエリア。みぞれとなった雪から、こげ茶色の枯れ葉が目を覗かせる天然のマットレス――その上に不自然なほど艶のある、人工の色合いを持つ黒色が乗っていた。
縦二メートル、横一メートルほどのビニールシートだ。
それをうっかり捲ってしまった老人は、日々の努力もむなしく、寿命を三年は縮めただろう。
なにせ、ビニールの下で眠っていたのは、目ん玉を悪魔のようにひん剥いた孫ほどの少女だったのだから。瞳は虚空を見つめ、潤いを失せた顔は、この世全てを呪っていた。
バービーと言ったのは誰が最初かは分からない。警察官か鑑識、マスコミかもしれないし、偉そうに犯人像を分析する見識家だったかもしれない。
だが、その呼称は酷くふさわしいものだった。
理由は単純で明快。公園の死体発見から相次ぐ死体遺棄事件、その全てに等しい特徴があったからだ。
犯人は被害者の少女を、まるで、人形を着飾るかのように、丁寧に髪を梳かしているのだ。フリルのついたデザインドレスを、冷たくなった肢体に通し、エナメルのドレスブーツを履かせて、おしゃれにさせる。そうして、子供の姿態をしたべべ・タイプの西洋人形のように、着飾った少女の屍を遺棄する。
ドラッグで脳が熔けたティーンエイジャーでも、一目でわかるイカれた特徴だ……犯人の頭にはウジが湧いていると連想できるほどに。
後に犯人であるジョセフ・バーニングスは、現場写真を刑事に見せられて〝商品売り場の陳列棚を、あんた、見たことないのか? 客に購買意欲を引かせるための工夫さ〟と述べた。
証言記録がどこから漏れたのかは現在も不明だが、記録媒体を得たマスメディアはバーニングの言葉を揶揄した。
それはデザイン工房を営んでいたバーニングを皮肉ったもので、彼がアートだと主張する遺棄現場を、汚らしく無残に捨てられたバービー人形のようだと伝えたのが〝ダーティー・バービー事件〟命名の瞬間だった。
綺麗に着飾らされた外見とは裏腹に、目映いドレスを一皮剥いた少女たちの肉体は、おぞましいまでに凌辱し尽くされたものだった。
全身に打撲痕、注射痕、裂傷痕が刻まれ、未成熟な女性器はズタズタに切り裂かれていた。まさに狂気の沙汰といえた。
これ以上ないグロテスクな遺体を見て、果たして少女の両親はいかなる心境だったか。想像を絶する怒りと絶望が襲っただろう。その怒りは犯人を追う警察にも浸透し、市中を常に警察車輌が巡回する物々しい状況が続いた。
事態が進展したのは日中の日差しが強まったある日。
その深夜のことだ。市内を巡回していたクレアは、路肩の一角に駐まった軽ワゴンを見咎めた。オペレーターからの情報では、犯人が乗っている車はグリーンカラーという話だった。軽ワゴンはブルーだった。
映画かなにかで聞きかじった一行知識をクレアは思い出した。いわく、人間の網膜には、赤(R)・緑(G)・青(B)の色光に感じる細胞があり、それぞれの光の信号が視神経を通して脳に送られて、脳が判断するのだが――黄色い街灯のもとではグリーンはブルーの波長として、自分たちの脳は誤判断を引き起こす、ということを。
微かに漂う不審な匂いに、クレアの行動は早かった。
パトカーを軽ワゴンの後ろに停車させ、乗っていた男を注視、車検証と免許証の提示を求める。すると、男は人当たりのいい笑顔で、のらりくらりとクレアを煙に巻こうとした。
が、彼女の目は誤魔化せなかった。
男の足元に転がる小さな注射器。男のシャツに滲む大量の脇汗。開いた瞳孔に震える指先。ジャンキーだ。一瞬で見抜いたクレアは男を降車させようとし――いつの間にか、ハンドルを離れていた男の左手がリボルバーを握っているのを見て、腰のホルスターに手を伸ばす。
夜の路上にこだまする一発の銃声。
引鉄を引いたのは男が早かった。が――その銃口はクレアから大きく外れ、あられもない方向を向いていた。
左手で銃身を跳ね上げ、すかさずそれを掴み上げる。男も抵抗するものの、狭い車内で思うように体を動かせず、そのまま彼女に拘束された。
全ては一件落着となるはずだった。
安堵し、肩の力を抜いたクレアの耳が小さな物音を拾った。
爪で壁を引っ掻くような音だ。軽ワゴンの底から聞こえる。車内の荷台は二重底になっていたのだ。車内マットを剥がすと、そこにいたのは小さな女の子だった。
少女は目隠しに猿ぐつわを噛まされ、ビニールテープで手足を縛られている。人形を折り畳むように木箱に詰め込められ、体中に皮下出血による青痣が出来ていた。学校帰りに誘拐され、三日も行方が分からなかった少女は、直感で動いたクレアによって命を救われることになる。
犯人は田舎生まれの貧乏出身の若者だった。若者は、大人の女性に相手にされないチンケな男だった。同年代の女性に見下される鬱憤を、彼は年下――少女といっていいほどの年齢の女の子にぶつけた。捕まえて、辱めて、強姦した。
若者がどういう人生を歩んできたかは、クレアには興味が無かった。少女たちの人生を狂わせてきた男だったから。
ただ、マスメディアがつけた事件名は、少女たちの名誉をこれからも汚し続けるという事実だけが、どうしようもなく腹立たしかった。
それでも、肝心なのはもうこれ以上、ジョセフ・バーニングスの犠牲者は出ないということだった。
事件の顛末は以上だが、クレアの功績を聞きつけたサイモンが刑事課に彼女をスカウトしたのだ。
サイモンはいかにも熟練の刑事といった風体をしている。よれた薄茶色のコートに白髪の短髪。好い年をしているはずだが、がっちりした体は、未だに力強さを残していた。刑事ドラマに登場する経験豊かなロートル、始めて会ったときにクレアが抱いた印象だ。
対するクレアはというと、伸ばしたブロンドの髪を後ろで一つに纏め、ぱりっとしたグレースーツをスリムな体に纏っている。雅よりも効率を優先した装いだが、普段は可愛らしい猫目を揺らす様は、未だ現場に慣れ切っていない証しだ。
それを見抜かれたからこそ試されたのだ。そして、それはサイモンなりの信頼でもある。
「警部、やはり廊下の監視カメラはどれもだめです。なんでも故障しているとかで修理中だと」
周辺に聞き込みをしていた警察官が、サイモンに報告した。
「監視カメラ?」
「ここはケーキハウスだ。犯罪者どもがテリトリーを守るために、ところどころにカメラを設置してやがるのさ。故障とは舐めた言い訳だ。俺たち警察に協力するのが嫌なだけだよ」
「令状を取りますか?」
「無駄だ。ここの連中は証言などしない。もうとっくにデータは消されてる。聞き込みも成果は上がらんだろう。身内で閉じた連中の巣窟だからな」
そういって、サイモンは肩をすくめた。地道に痕跡を追うほかない、言外に刑事の意地をクレアは感じ取った。もっとも彼らは知らないことだが、監視カメラは全て、グウェンたちの手で本当に壊されている。
「警部! これを」
その時、死体を写真に収めていた鑑識の一人が声を上げた。
「どうした?」
壁に背を預けて坐り込んだ死体の前で、鑑識が何かを見つけたようだ。近寄った刑事二人に、鑑識は死体の首元を指で示した。
「薔薇の刺青……」
クレアが小さくつぶやく。
何かをモチーフしたマークだろうか? 彼女には見覚えのないそれは、サイモンを驚愕させるのに十分だった。
「法の薔薇だ」
「法の薔薇?」
オウム返しに聞き返す。サイモンはそんなことも知らないのかと怒鳴りそうになったが、つい最近まで彼女がこの手の犯罪には無縁だったことを思い出し、出しかけた言葉を飲み込んだ。
「ロシアンマフィアだよ」
鑑識がフラッシュを焚きながら言った。
「刺青の羊皮紙は組織の掟を記したもの。巻き付いた茨は掟の遵守を意味し、破けた部分から咲いた薔薇は、掟を破った者の死を描いている。血の誓いを交わした構成員にしか与えられない」
感情で動くロシア人が法とは笑わせるね、彼は最後にそう吐き捨てた。
「なんでそんな連中がここに……」
「さぁてな。とにかく、これでこの事件は迷宮入りの可能性が出てきた訳だ」
「な、なんでですか!」
刑事の信念は最後までもがき続けること、サイモンに最初に教わったことだ。そんな彼が諦めにも近い言葉を出したことに、クレアは目を見張った。
「なぜ、お前は警官になった?」
「……私に秩序を教えてくれるからです」
不貞腐れたように、言ったクレアにサイモンは、ふっ、と小さく笑い、
「なら、覚えておけ。これから追うのは無秩序に生きる輩だ」
語気を強めて言った。
「勘違いするな、諦めるわけじゃない。法の薔薇は欧州でも段違いの犯罪組織だ。連中の根っこはそこかしこに張ってる。金と暴力で、事件そのものを揉み消すような連中だ」
「じゃあ、打つ手がないのでは」
表情が陰ったクレアに、熟練の老刑事は小さな笑窪を作った。
「なあに、手はあるぞ。こっち方面に強い知人がいる。FSBとも繋がりのある奴だ。そいつと連絡を取る」
「はぁ。では私は?」
「お前はこの部屋の持ち主と、ロシア人以外の全てを調べろ。指紋、足跡、全てだ。弾道分析班も呼んでおけ」
サイモンは外交官タイプではない。使える人材はなんでも用いる現場優先主義者だ。周りをどやしつけ、休む暇を与えずにがむしゃらに現場を回す。事件の解決力では、間違いなくサイモンは凄腕だった。クレアの引き抜きを始め、他部署から睨まれているにもかかわらず、ロンドン警視庁のように一介の刑事には考えられないコネクションも持っている。知るほどに謎の側面が強まる上司に、クレアはばれないように溜息をついた。
有意義な仕事だが、この上司は人使いが荒すぎる――クレアが窓から外へ目をやると、パトランプの青光りが見えた。まるで、雨にけぶるケーキハウスを、少しでも飾り付けようとしているみたいに。回転灯のイルミネーションが、フェンス塀をぐるりと囲んでいた。
ポップに、キッチュに、フラッシュに――
「警部」
若い警官が声をかけた。
「なんだ?」
「その、検事が次の会見を開くから情報を寄こせと……」
老刑事の鋭い視線を受けたせいか、若干どもった警官に「分かった」とサイモンは返事をおざなりに返した。そのやりとりに疑問を持ったクレアが訊いた。
「なぜ検事が?」
「悪党がまとめて死んだんだ。解決の手柄で治安向上を市民にアピールしたいんだろう」
億劫な様子も仕方がない。上があれこれ口を出すと、下の動き鈍くなる。サイモンの危惧も当然だった。
「映像データを送りますよっと」
鼻をすすりながら、男が甘い息漏れ声で携帯に告げた。
「ターゲットは全員死亡を確認。現地で他の武装集団と衝突があったようですわ」
『所属はわかりますか?』
返答は若い女の声だった。
「ロシアンマフィアって話ですがね」
『そう……』
携帯端末を当てていない方の耳には、真っ白なイヤホンが嵌まっている。
――チームを作るんだ。優秀な捜査官を集めろ……
――わかってますよ、検事どの……
――取り逃がすなよ、情報は常時こちらに流すように……
――クレア、お前はグラントと動け……
イヤホンから漏れる声は、現場で状況把握を行う刑事たちのものだった。盗聴用の小型チップ。階段ですれ違った女刑事のポケットの中に、一目では分からない違法機器が忍び込ませてあった。
男のすぐそばを、ストレッチャーを運ぶ救急隊員が通っていく。
ビニールカバーで包まれた死体に向かって、マスメディアの連中が我先に撮影しようと押し寄せていく。
男は醒めた目でその光景を眺めた。
『彼らの消息筋は?』
妙な質問だった。
折り畳み式の携帯を頬と肩で挟みながら、水滴の付いた丸サングラスを外して、真っ赤なスタジアムジャンパーの裾でレンズを拭く。
「機構に連絡は? 姿を消したってんですか?」
『ええ、足取りが途中で途絶えました』
「うちが借りてるキーホール衛星とかで捕まんないんですか?」
『答えるのが億劫です。知りたければ、その間抜けな脳みそを傾けるといいでしょう』
空は曇天だった。
「ハァ~……」
男は深い溜息をついた。
「そもそもが、当局の担当じゃないと思うんですがね」
『今回の件に対し、政府は傍観を貫くつもりです。最悪の事態はもう目前だというのに』
女の声は、機械越しでも伝わる苛立ちを孕んでいた。
「ま、相手が上手だったということでしょう」
『ウィスパー、あなたは警察の動きを嗅ぎ回りなさい』
「あっしは犬じゃないんですがね」
『なら、豚? 呼び名はどちらでも構いませんよ』
「……犬で頼んますわ」
赤毛の男、ウィスパーは気怠い口調で答えた。