007 悪徳の破綻
ロンドンに本社を置き、EUマーケットシェアの三割を押さえ、医薬品製造業界の舵を取る大企業、それがローテック・バイオテックグループだ。
軍との提携事業も行っており、民間企業にして異例のバイオセーフティレベル4の最高度安全実験施設を郊外に保有している。レベル4の実験室とは重篤な症状、広範囲の感染爆発を引き起こす微生物ないし細菌が漏えいした際に、物理的封じ込めが可能な多重安全構造のことだ。
国家から限りない優遇措置を得ているローテック社は、今回の合併を経て、世界に向けてさらなる躍進を遂げることとなる。
時刻は昼過ぎ。本社ビルの仄暗い地下駐車場、モダンな営業車の中に異色な存在感を放つ一台の高級車があった。およそ場違いな赤のスポーツカー、マセラティのグランカブリオだ。
セレブ御用達のドル箱の車内に、これまた見合わない形姿の男が運転席にどっかりと坐っていた。いかにも貧相で華奢な体に、ぴっちりと合ったグレーのスーツ。神経質そうな顔立ちに縁なしのシンプルな眼鏡をかけ、見る者に苦労人の背景を想起させる男だ。
彼の名はベンという。貧しい家庭ながらも奨学金制度を頼り、ダラム大学大学院経営管理研究科博士課程を首席で卒業。経営コンクールの壇上にてリクルーターの目に留まり、ローテックに入社。類い稀な経営手腕を以って業績に貢献し、本社M&A部門の幹部の地位を獲得した叩き上げの人物だ。
冷静沈着な行動を心掛けるベンが、いま右手に持った携帯端末の通話先に向かって声を荒げていた。
「待ってくれ、それは我々じゃない! 依頼したのはあんたたちだけだ。信じてくれ。そもそもがそんな真似をして何の意味がある?」
ベンの指先は震えていた。額には珠のような汗粒が浮かんでいる。
「冷静に考えてくれ。事態が事態なんだ、裏切りなんてありえない。私でもステファンでもない。恐らく別口によるものだろう」
受話口から捲し立てる声が響く。
「違う! 本当だ! ……あぁ、いや分かってる。こちらでも探りは入れてみる。何かあったら連絡を」
終話キーを押し、深い溜息を吐くと右手に持ったそれを助手席に放り投げた。体を背もたれに預け、脱力する。ゆるゆると頭を前に倒し、額をホーンボタンに押し付けた。耳障りな警笛が車外に響く。
ベンは顔を上げると携帯を手に取り、アドレスから目当ての相手に発信し、
「至急、相談したいことができた。いまから君のオフィスに行くから待っていてくれ」
コール音をさして待たずに繋がった相手に、ベンは短く用件を告げた。
二十五階、法務部門の重役室。シンプルで実務性を重視した内装の部屋だ。けして広くはない部屋にて、苦渋の表情を張り付けた二人の男がビジネスチェアに腰掛け、内密の話し合いを行っていた。
ベンと肥えた男だ。二人はローテック社のM&A・法務の統括責任者であり、今回のグリーンバイオインダストリー社との合併交渉を担当している。
おもむろに片方の、ベンの真向かいに坐る肥満体形の男が口を開いた。
「……それは本当なのか? 私たち以外に連中を消したい誰かがいたと?」
苛立ちながら机を指で叩き、そう問う男の名をステファンという。
エセックス大学ロースクール出身で、アッパークラスの家柄を持つ。この世に生を受けてから、思うがままに生きてきたステファンにとって、最悪と言える現状は許し難いものだった。
彼の問いに、向かいに坐る神経質そうな眼鏡の男――ベンは苦悶に満ちた表情で、
「ああ。過去のトラブルは処理できたが、新たな火種が生まれた」
「法の薔薇はなんと?」
「ひとまずは我々を信用するそうだ。だが、数名の死者が出ている。連中も躍起になって『二人組の殺し屋』を探すだろう。こちらとしても疑いを完全に晴らすために協力する必要がある」
ベンは眼鏡を外すと、皺が寄っている眉根を指でほぐした。ステファンは彼の落ち着き払った態度が気に食わなかったのか、その豚を想起させる体をわなわなと震わして、大きな濁声を発した。
「ふざけるな! 法の薔薇との契約はイカレ爆弾魔を消した時点で終わりのはずだ。依頼したのは君だろう、説得できなかったのか!」
「……仕方ないだろう。法の薔薇自体は信用できるがこちらの道理は通じない。裏には裏の面目ってものがあるんだ。このまま奴らを放置していたら事態はさらに悪化する」
ベンは一息に言いきると、冷めたコーヒーを口に運んだ。眉根をほぐしたばかりなのに、カフェインの冷たい渋みによって再度、眉間が歪む。
「ひとまずはこちらの釈明を聞いてくれたんだ。落ち着いて対処すればいい」
「釈明だって?」ステファンが声を細めた。「本気で言ってるのか、連中がお前の言い分を呑みこんだって?」それから、まるで理解できないとでもいう風にかぶりを振り、「君はなにもわかってないんだな」と呆れ声でいった。
「なにがだい……」
「〝悪〟の本質――そういう連中が棲む世界のシステムについてだ。連中は偶然なんて信じない。君がなんて説明したかなんてどうだっていいんだ。そんなもの無駄なんだ。いいか、君の依頼がもとで損害を受けたなら、とうぜん君にも原因があると連中は考える。君だけじゃない。今回の件に絡んだやつは、みんな道連れだ」
なんてことだ。ベンの口からぽつりと漏れた、その僅か五文字の英単語には深い後悔の念がこめられていた。
「だが、ロシア人は釈明を……」
「釈明がなんだっていうんだ」ステファンはベンを睨みつけた。「そんな行為に意味はない。そもそも、釈明の意味すら連中は知らんだろうよ。ああ、くそ! なんでこんなことに……たった一人消すだけで済むはずだったのに。クズまで雇ってなんてザマだ!」
ステファンの怒りは収まらない。
「そもそも、コールマンとかいう怪しげな男を信じたのが馬鹿だった。何もかも馬鹿げてる。これは罠だ、誰かが私を嵌めたんだ!」
大分鬱憤が溜まっていたのだろう、彼は怨嗟を吐き出すように叫んだ。ステファンは二週間前の爆破事件からずっとこの調子だ。ベンは呆れ混じりに相手を見る。その顔に浮かぶのは諦観に近いものだった。
コールマン――全ての元凶と言える男。片目が義眼で、男にしてはやけに小柄な、いかにも商売人といった見映えを持つアメリカ人。
「……落ち着け。コールマンはこっちでも探している。それに殺し屋の件を片付けたら、この事を知るのは私たちだけだ。冷静になれ」
ベンは静かな口調でステファンを宥め、話を続ける。
「それよりも問題なのは検事局だ。どうやら関係者を押さえてるようだ。強気に挑発されたよ」
「ボンクラ揃いの検事が! そんなに名声が欲しいのか? 買収が不正だと? これは規制という名の自由市場への権力介入だ。この合併は消費者もアメリカも裁判所も望んでるんだ」
ステファンは体を乗り出し、つばを飛ばした。椅子が軋む音が室内に反響する。
「分かっている。不正は我々を守るものだ。だが生贄を差し出せば皆が幸せになる。分かるな?」
ベンの強い視線を受け、ステファンは口籠った。しずしずと両手で顔を覆い、溜息を吐くと上体を反らし、
「……ボイルドを売ろう。私が検事と交渉して懲役を五年以内にする。奴は一匹狼だ。多少の見返りを与えればいい」
ステファンが述べた条件にベンは頷き、
「それがいいだろう。買収自体、ボイルドのコンサルティング会社を通じてのことだ。検事局も納得する」
ともあれ、いまは最善を尽くすばかり――ベンは眼鏡を鼻上へ押し上げる。限りなく最悪の状況だが、打開策はある。首尾よく『二人組の殺し屋』を始末した暁には……
窓の外には灰色の雲が広がり、雨粒が窓ガラスを強く叩いている。モノトーンで彩られた街並みは不吉を感じさせるものだ。見慣れた光景のはずなのに、どこか違う、不穏な色に染まったビル群が、二人の将来に訪れる避けようのない破滅の予兆を知らせるようにそびえていた。
自分のオフィスに戻ったステファンは、不機嫌甚だしく椅子に腰かけると、手元のリモコンを操作して、自室を囲む瞬間調光ガラスにスモークを挿した。二枚の合わせ硝子の間にある液晶シートが、入射した光をポリマーで屈折させ、オフィスを孤立化させる。
デスク脇にある食用イチジクの木から、まだ完熟してない実をもぎ取って口に運ぶ。苦味だけのそれを、音をたてて歯噛みし、鉢植えのなかに吐き捨てる。ステファン流の、こころの落ち着かせ方だった。鉢植えのなかには、黄土色に混じって、干乾びた肉片がいくつも転がっていた。
ステファンは鼻息荒く、PCを起動させアクセスポートを開いた。重要情報を扱う幹部クラスだけの特権で、社が機密回線に指定しているものだ。警察の盗聴班だって割り込めない。
ステファンは、そのフランクフルトのような分厚い指で、何度か押し間違えながらも自身のアーカイブを呼び出すと、警察関連のファイルをソートする。権力者との繋がりを示すファイルだ。ふと、視線を斜向かいに寄せると、最新の報道クリップの一覧が、モニタの端に更新されている。
その内のひとつが、ステファンの目を惹いた。
クリップをチョイス。
再生ボタンを押し、ストローミング映像を流す。
クリップは、かつての移民排斥政策の名残である〈レイランド国立移民収容アパート〉をバックに、熟年の男がマスコミの一団と会見を行っているものだ。
照明の光にテレビカメラ、口許に突きつけられた録音機、矢継ぎ早に繰り出される質問。渾然となったそれらに、この男はうまく対処していた。演技臭さを感じさせない微笑と、トークの合間にてらてらと輝く白い歯。シャキシャキとした物言いは、ウェストエンドのミュージカルで、さも公演中みたいなトーン。観客はもちろん、記者団にレポーター。
ジョルジオ・アルマーニの上物スーツ、ぴっちりジェルで固められた頭髪、新緑カラーのシャツ、洒落たカフス、シルク・タイ。その男の服装は、いかに自分を魅せるかに重点を置いたセレクションだった。ギョロ目で頬のこけた相貌でも、カメラ映りを意識した彩の組み合わせである以上、そこには一種の美意識、調律があった。
男の背広の左襟には、司法省が発行する地区検事長を示すバッジがついている。情報インフラが発達した現代でも、こうした権威の象徴というやつは、人間社会が、真摯に「職務」に励む人間心理を素としている以上、完全に廃れることはない。廃れるとしたら、完全な平等と自由が約束されたユートピア社会にほかならない。
ステファンは重い溜息をついた。
照明に中てられて血色そのものを喪失した、カメレオン顔のこの男こそ、これからステファンが取引しなければならない相手だった。
アクセスポートにIDと暗証番号を打ち込む。
ほんの数十分前まで陽気な受け答えを見せていた爬虫類顔が、ステファンの眼前にあるモニタに映った。
『きみの方から連絡はしてこない約束だが』
その表情は、声は、先程までの観客を喜ばせるものではない。ギョロ目を覆う目蓋は、眼の半ばまで垂れ下がっており、そこに感情を窺うことはできない。エキシビジョン用ではない、男の素顔だった。
が、ステファンはさして気分を害した風でもなく、
「大切な取引の話だ」
『取引? きみたちの派閥の話なら興味はないぞ』
「もっと、上のレベルの取引だ。この回線を使っていることから察してほしいね」
ややあって、人払いをするから待て、と男が言った。憮然とした顔だ。いまもモニタの左隅のクリップにて、ミュートで流れる男の表情筋は、あくまでもメディア向けであることはステファンも知っていた。
『せっかくの美人秘書との昼食をキャンセルしたんだ。それ相応の内容なんだろうな』
「まどろっこしいのは無しだ。ハンプソン、あんた、国政に進出する気はないか?」
『おいおい、なんだ急に』
「ウチの合併話が締結した暁の、マーケティングシェアが及ぼす影響についての話だよ。知っての通り、すべてが終わった時点で私の派閥は会社の主柱に食い込む。強力な実権を手にするだろう。国内だけじゃない、EU経済圏にアメリカ経済圏、将来を見通せば中国市場にロシア市場まで開拓する道筋は、すでについている」
饒舌な口ぶりに対して、ハンプソンは淡々としたトーンで、
『だろうな。実現すれば、莫大な金が動く。だが、きみんとこの派閥は少々問題を起こし過ぎなんじゃないか?』
ステファンの心臓が撥ねた。
『メディテックらしい強引さ、だと聞いているよ。火のないところに煙は立たないというじゃないか。噂を根拠にして、正義感を振りかざすつもりはないが』
「根も葉もない――とは言わんが、あんたも、メディテックの人間がどれほどの苦渋を嘗めてきたかは知っているだろう。ようやく、目の上の瘤が死んだんだ。約束された栄光が現前しつつある、ってのは大げさかな」
モニタの向こうで、ハンプソンが訝しげに眼を細め、
『……要は、唾をつけておきたいのか。いかにも、きみたちらしい。いったいどこで、わたしの将来設計図を知った?』
ステファンは意地の悪い笑みを浮かべ、
「女性記者ってのは気をつけた方がいい。あれは売女だ。コロコロと、よりよい条件を提示した男の宿に転がり込む。出世と特ダネのために、平気で他人のプライバシーを切り売りするもんだ」
『きみに言われると釈然としないが。ふん、それで取引とはなんだ?』
ここからが本題だ、ステファンは若干身を乗り出した。
「先日、ウチの系列企業にコソ泥が忍び込み、重役のひとりのオフィスを荒らしに荒らした。その企業は、表向きは法人向けのコンサルタント業務ってことになってるが、その実態は、プールした余剰金を欲しい奴と与えたい奴とを繋ぎ、周旋する取引所なんだ」
ハンプソンのまなじりが、微かに痙攣した。
『グレーゾーンの献金か』
「そうだ。その献金自体、もとをただせば、ローズバイオ時代の悪しき遺産、古びた慣習だ。保守派の古狸たちが必死になって隠してきたモノだ」
そこまで言いさして、ステファンは煙草に火を点した。じれったそうにこちらを見つめる地区検事長を尻目に、悠々と紫煙を吹かす。
『おい、続きを』
ハンプソンが言った。目にはそれとわかる苛立ちを浮かべている。
「ああ、すまない。……それで、コソ泥が入ったといったが、連中は最新クラスの金庫錠をあやす術を持っていたようでね。つまりは、金庫のなかで大事に保管されていた献金リスト、いや、ディスクかな。どちらでもいいが、まぁ、保守派の大事な宝物は賊の手に渡ってしまったんだ」
『なぜ、その話をわたしに?』
ステファンは分厚い指でキーパネルを叩く。左隅で踊っていた報道クリップを、ハンプソンにも見えるように共有した。
ひとつずつ、質問は一度にひとつずつお願いします。ヒモが浮かべるような――ステファンにとってはそう見える――微笑みの爬虫類顔が、装飾用プレートの上に群生したテレビ局のコールサインが印字されているマイクで、昂揚した風に喋っているシーンだった。
ご安心を、市民の皆さん、信頼できる捜査チームが解決にあたって全力を尽くします、なにも心配はいりません。
よくもまあ、うまいこと仮面を被れるものだ、この利己主義と拝金主義のハイブリッドは。ステファンは内心で呆れた。これで、この男がナルシシストだったりしたら、たまったもんじゃない。
そんな腹の中はおくびにも見せず、
「この死んだとされるアイルランド人。おそらく、こいつらが件の賊だ。……あぁ、顔写真は伝手を頼った。責めないでくれ」
『では、ディスクはこの連中が隠し持っていたと?』
「いや、これもおそらくだが、連中はプロの襲撃に遭ったのだろう? 差し向けたのがだれかは知らんが、あるいはローズバイオって線ももちろんありうるが、とにかく、件の献金ディスクはこの襲撃者の手に渡ったものとみている」
『犯人をひっ捕らえたら、ディスクを返せってことか?』
「いいや、ディスクはあんたに寄贈する。リストに載った連中を思う存分、国訴してくれてかまわない。なんなら、それを国政への足掛かりにするってのも手だな」
モニタ内の爬虫類顔が一層、不景気なものとなる。
『わからんね、こっちのリターンが多すぎる。まさか、ステファン。きみが愛他主義に目覚めたわけはなかろう。なにを狙ってる』
「簡単さ。襲撃者を捕捉したら、居場所を教えてくれればいい。それだけのことさ」
『民間人による私人逮捕は認められていないぞ。それともまさか、犯罪行為に巻き込むつもりじゃないだろうな』
ステファンはきょとんとした。それこそが演技なのだが、
「……驚いた。あんたも素で冗談を言えたんだな。ま、安心していい。ごく普遍的で平和的な交渉を行うだけだ。あんたに迷惑はかけん」
『そこまでする理由が?』
ステファンは獰猛な笑みをたたえ、
「ディスクは保守派のウィークポイントだ。情報漏洩にみんな脅えてる。疵口に塩を塗りたくるためだったら、多少のリスクくらい冒してみせるのが、私の家系でね」
静かな口調でそう言ったもんだった。
「どうだ、協力してくれるか」
『どうかな』ハンプソンは言い、『でも、わたしに相談したのは正しい選択だったと思うよ』