006 繁殖する悪
エンジンが伸びやかな唸りを上げた。
フィンチが運転するジャガーは、ケーキハウスを遠く離れ、現在ウィガンを目指して南進していた。時刻はもうすぐ昼時になる。タイヤがアスファルトを蹴る振動が、心地良いリズムで背を叩く。
「……ごほっ」
テッドが咳き込んだ。狭い車内には、たゆたう煙草の紫煙が濃霧さながらに充満していた。
ハンドルを握るフィンチは器用に咥え煙草を。後部座席には天井をぼうっと見つめるグウェンが寝転がっている。彼女は、小さくすぼめた口から、煙の赴くままにくゆらせていた。
副流煙による悪影響など、どこ吹く風と言わんばかりに、黙々と二人は紫煙を吐き出す。
我慢ならないのはテッドである。彼は三人の中で唯一の禁煙者だ。ふざけた外見に反して、中身は比較的真面目なテッドは健康にも気を使う男だった。
それに対して二人は、真面目の真逆を進む豪胆ともいえる指向の持ち主だ。現にいまもぷかぷかと。巷の禁煙ブーム上等とばかりによろしくやってる。密閉空間での毒ガス攻撃など、健康オタクとしてはたまったもんじゃない。
「――ヘイヘイヘイ! こんな狭いとこで毒を吐き散らすなよ。オレが癌になったらどう責任取る?」
堪えきれなくなったのか、レイランド南西から幹線に乗ったところで、ついにテッドが吠えた。なにしろ、高速に入ってからというもの、二人はずっと無言なのだ。
煙草を口に付けたフィンチにつられるように、グウェンも口元のそれに火を点け、一服を開始。それから実に三〇分間もの間、車内は静寂と副流煙に包まれる。
テッドはというと、ひっきりなしに動くワイパーの音を聞きながら、車窓に貼られたナノフィルム越しに流れる広告ホログラム――拡張現実を用いたもので、実際の街中には仮想ネオンの光は存在しない――を無言で眺め続けていた。左右に揺れるワイパーのリズムに合わせて、前方から押し寄せる情報の渦潮に考えを馳せる。〈中古車販売のヒップ・ジョーイ〉〈80’ミートパブ〉〈マークス・アンド・スペンサー〉〈スターバックス〉〈ジェイコブのピザ屋〉――90年代に乱発した〝哲学趣向なSF映画〟のワンシーンにありがちな光景だ。退廃的で、邪悪で、安っぽい。人間の命の価値が貶められたディストピア社会の、バーホーベンやテリー・ギリアム、フィリップ・K・ディック作品にありがちな。暇を持て余して始めた、映画毎の類似点を探るのにも飽きてきたところだ。
何はともあれ、煙害を止めさせるべく口を切ったのだが、
「うっさいなー……あたしはいま命の洗浄中なの。あんたが病んだら笑ってあげるわよ」
「お前が男と寝ても俺は一切口を挟まない。我慢しな」
反応は上々、くそくらえだった。
「オレのケツは国宝扱いだ。知らなかったのか?」
「くっだらない」
「だからよ、欲求遮断ピルでも飲めばいいんだ」ちょうど車窓の外を、製薬会社の広告が流れていく。「伝手はあるんだから安く済むだろ? それともまさか、副作用で自殺願望でも湧くんじゃないかって思ってる? オレのダチは、一度に一〇錠飲んで禁煙に成功したぜ」
「いま、そのダチは?」フィンチが訊ねる。
「屋根から落ちて死んだ。雪掻き中の事故さ。ハハ、うけんだろ? 健康に気遣ったあげくの、まさに身も蓋もない話だ」
「つまんないよ、おバカ」
事も無げなオチに二人は呆れた。テッドはそう言うが、このような生き様を送っている以上、豪胆に図太く日々を送るべきだ。少なくともグウェンとフィンチはそうしている。
「……にしても、随分やっかいな追っかけを持つもんだ。奴ら、どこのどいつだ?」
フィンチは今回の仕事はこのような事態を恐れて、自分たちを動かしたものだと目星をつけていた。
「急な招集からして、おかしかったのよ。私たちの仕事は『技術』を廻って、殺し殺されすることだっつーのに」
「確かにそうだぜ」テッドが相槌を打つ。「今回の件は、高速道路でケツ掘られて玉突き事故一歩手前って感じだ」
アイルランド人は余程、誰かの興を削いだらしい。複数の勢力がその命を狙うほどに。
「案外、ロレッタの仕業かもよ。局長の関心を買う私たちに嫉妬! きぃ~もう嵌めて殺しちゃえ! みたいな」
「顔にやけてるぜ、グウェン」
テッドの指摘に、「あら、やだ」と言わんばかりに彼女は手を振った。
「後ろのお嬢さんはどさくさに紛れて政敵を討つつもりだぜ。超コエー」
「政敵ってなによ、政敵って。私はただ、あの女がいまこの瞬間も地球上のどこかで息してるのが我慢ならないだけ」
グウェンが冷めた口調でぼやく。それから、口から出た言葉を溶かすように、ゆっくりと紫煙を吐いた。
吸い口ぎりぎりまで燃え尽きた煙草を、冷めきったコーヒーに放り込む。じゅっと音を立てて、黒い液面上に細かく刻まれた煙草の葉が波紋状に広がった。
「……まぁ、ロレッタはともかくだ。今回の仕事に裏があるのは確かだ。局長たちが隠してる『何か』を調べなくちゃならん」
フィンチは若干、疲れを滲ませた声を出した。
最悪の場合、ロシア人の狙いがこっちだったという事態を想定しなければならない。緊急を要した仕事の出先で、三文小説に書かれるようなハプニングに見舞われたのだ。上が裏切った可能性はないと言いきれない。ロレッタに連絡をつける前に、こちらの足元を固める必要がある。
「ミルトンの所に行くぞ。あいつなら情報の裏を洗える」
「おっさん、全員でデブんとこに行くことはないだろ。オレは伝手を頼ってみるよ。変態野郎だが鼻が利く。ロシア人の正体が掴めるだろうぜ」
「……いいだろう。だが、くれぐれも用心を怠るな。免責があるとはいえ、俺たちゃ在野の人間だ。連中もそうだが、警察にも目を配れ」
過去に公職についていたグウェンたちだが、現在は民間の調査機関〈スカイロード社〉の一社員に過ぎない。もっとも調査機関云々はダミーカンパニーに過ぎず、正規業務は別にある。
特殊工作班オッドフィッシュとして、非公式任務で世界中を飛び回る彼らにとって、世界を旅するリサーチャーという職業は身分を偽称する上で都合がよかった。
「わかってる。車は俺が使わせてもらうぜ」
「これ、念の為持ってけ」
フィンチが懐から取り出したのは小口径のリボルバーだ。
「いいよ。んなガキ向けのおもちゃ銃」
だが、テッドはそれをにべもなく断った。
「短身銃にも使い道はあるのを知らないようだ」
「44マグナムなら話は別さ」と、テッド。
「でたよ、キャラハンフリーク」グウェンは呆れた。「格好だけのこだわりとか死ねばいいのに」
「奴の生き様は熟した人間しか真似できないのさ。『許されざる者』を見たことないのか? いい歳を経なけりゃ、あの格好は真似できんぜ。おっさんもそう思うだろ?」
「西部劇ってのはジョン・ウェインに始まり、クリント・イーストウッドに終わるってもんだ」だがな、とフィンチは言い、「生き様云々を語るなら、せめて〈ライフルと愛馬〉くらいは暗唱できるようになんねえとな」
その服装とは裏腹に回転式銃はテッドの好みではない。オートマチックに比べて弾詰まりが起きにくく、発射圧が高いので命中精度が高いなどの利点はあるが、銃の分解整備を丹念に行っているテッドには、自身の愛銃ブローニング・ハイパワーで十分事足りた。
命を預けるのは手に馴染んだ銃がいい。テッドはフィンチの言葉を気にも留めずに、『リオ・ブラボー』のカウボーイ・ソングを曖昧な歌詞のまま諳んじた。
「薬は大丈夫?」グウェンが訊いた。
「大して使わなかったから、まだ大丈夫さ。何か分かったら連絡する」
そう言って、テッドはサングラスのつるを指ではじいた。
◇
サグナル区公衆浴場。サウナ風呂が目玉のこの施設は、保温を保つために半地下に建てられている。採光や換気のための窓は設置されておらず、室温は八〇℃を超える熱さだ。
サウナは裸一貫の付き合いができる場として、一般市民だけでなく犯罪者にもこよなく利用されている。裸ならば武器を隠し持つことができず、体に刻まれた刺青が人生の履歴となるからだ。
「ミハイル! どこにいる!」
サウナ室入口で、男が声を荒げた。
返事はない。男は目を血走らせた。
ここにいるはずだ――男は入浴規則を無視して、単なる休息から後ろ暗い商談まで、さまざまな用途に使われる憩いの場に土足で踏み込んだ。
茶色いジャケットを羽織った肩を怒らせながら、蒸気で視界の悪い室内をズカズカと遠慮なく歩いていく。
男の一九〇をゆうに超す長躯、耳の上に細い剃り込みを入れた姿は、気性荒ぶる野生熊を連想させた。まるで猟師に追いやられた手負いの熊だ。ぎょろぎょろとぎらつく両目を動かし、今宵の獲物を捜しているかの様は、他の利用客へと一様に緊張感を与えた。
白いタイル張りの床をブーツの底で鳴らす。
甲高い足音は、閉じられた地下空間にやたらと響いた。
やがて、目当ての人物を見つけたのか、男は歩みを速めて奥へと向かう。
進行方向にある奥まった一画には、談笑する三人の男の姿があった。
「――それで、あの酒飲ジジィ、酔っぱらった頭で頭突きのフルスウィングを噛ましやがったんだ。いまでも頭蓋骨が軋む」
「だから言ったんだ。あのジジィは、うわばみから自然発生したモンスターだって。金を無心した分際で道理を説きやがって……返せなくなった途端、態度がコロコロ変わりやがる。死んで当然さ」
「そういや、ミハイル。ジジィの娘はどうなったんだ?」
ミハイルと呼ばれた男は、その掘りの深い顔を酷薄な笑みで染めた。おでこにはシップが貼ってある。布地の上から指先でぽりぽりと掻きながら口を開いた。
「強情なところは親譲りだが、すげぇいい女だったぞ。ちょいと躾が必要だったが」
そう言って愉快気に笑った。つられて他の男たちも笑った。
「ミハイル。女の悲鳴がぎゃんぎゃん聞こえてきたぜ」
「あいつはすきもの、満更でもなさそうだったさ」
「でも? 終わった瞬間に?」
「〝死んでやる!〟」
「みんな最後にそう言う」
「涎を垂らしてから、目をひん剥くまでは規定事項ってやつだ」
「これからは娼館で身をやつすまで働いてもらうさ」
「お前の母親みたいにか」
「オレのお袋を侮辱する気か?」
「おいおい、よせよ。この顔を産んだ親だぞ。遺伝子の神秘ってやつを信じなきゃあ、想像するだけで吐き気がする」
男たちの顔は、話の内容に似つかわしくないほど陽気なものだった。その筋肉質な肉体には、もとの素肌を覆い隠すように体全面に渡って刺青が入っている。文字にシンボル、様々な意味を含ませた形象を「懺悔するものの物語」として全身に描いているのだ。
彼らの両前腕部にあるのは、ロシアの犯罪者の三原則『信じるな・恐れるな・懇願するな』をキリル文字で彫ったもので、背中には厄除けのシンボルである教会に、何回〝臭い飯〟を食らったかを示す礼拝ドーム。腹や胸には縁起のいい十字架や聖母が。三人の内ひとりは、そこに女性の口唇や陰部を上乗せしている。共通するのは全員の首筋に、捲きつくような青い薔薇刺青が入っていることだった。
それらの犯罪刺青が示す事実はひとつ。
彼ら三人が筋金入りの悪党ということ。
下卑た内容に花を咲かせる三人の周囲には、その危険じみた容姿もあって誰も近寄らず、悪事とは無縁の一般人が遠巻きに彼らをちらちらと窺い見るという奇妙な構図が、あった。強者と弱者を分かつ、棲み分けというやつだ。もとより、この界隈で、ロシア語で喚く連中に話しかけるおつむの足りない馬鹿はいないのだが。
「ミハイル! 一緒に来てくれ、すぐだ!」
パブでもないのに盛り上がりを見せる会話に水をさしたのは、熊のような巨躯を持つ男の焦りが滲んだ声だった。
男の猛々しい声を受けて、ミハイルはタオルの掛かった頭をゆっくり上げた。分厚い眉をひそめて、
「騒がしいぞ、イヴァン。タマでも落としちまったか?」
落ち着いた口調でおどける彼に、イヴァンはさらに語気を強めて答えた。
「マルセルがやられたんだ!」
「なに?」その一言に、ミハイルは呆けた。
「他にもレオニードもモイセイもみんな死んだ。全滅だよ!」
イヴァンは喚き散らした。ミハイルと一緒にいた二人の男にも動揺が走る。
「全滅って……なにいってる。マルセルがやられたって……あいつは、いまどこの病院に?」
「ミハイル……マルセルは殺されたんだ」
「冗談だろ、ふざけてんのか?」
「……本当だ。ボスが店で待ってる。行こう」
真摯な言葉だったが、もはやミハイルには届いていなかったのだろう。呆然と眺めるだけの瞳が震えた。やがて、その目尻からは大粒の涙が零れ始めた。
驚いたのはイヴァンだ。なにせ彼が泣く姿を見た事が無い。頭は良く、腕っぷしも強いワルが――いま、この世に生まれ落ちた赤子のように泣き叫んでいるからだ。短く刈り上げた髪を掻き毟り、ひたすら慟哭を上げるミハイルの姿は、イヴァンの胸中に一抹の不安を呼びこんだ。
「マルセル、ああ聖母マリアよ――なぜ、弟がこんな目に……」
何事かと、他の利用客の視線がミハイルたちに注いだ。
その鬱陶しい視線を、イヴァンは熊の様な目で睨め回すことで追い払った。
「……生きて戻ってきたやつがいる。そいつの話を聞きに行こう。さぁ、立って」
イヴァンはミハイルの片腕だ。どんな時も身を挺して助けてきた。楽しい時も悲しい時も、そして今回も。彼はミハイルの背に手を回して、浴場の出口へと足を向けた。
レストラン〈ラーンドゥシ〉。鈴蘭を意味する看板を通りに掲げ、異国情緒を感じさせつつも落ち着いた内装は、ボリス・クストーディエフの絵画『モスクワのレストラン』を思い浮かばせる。
店内を跨ぐ柱の間はアーチ状に切り抜かれ、窪んだ穴に置かれた燭台の明りが客席を優しく包みこむ。壁に並ぶ壁掛け照明が光の明暗をくっきりと分かち、どこか様式美を見る者に感じさせる店だ。
ここは一般客は入店ができない。
ここで食事ができるのは〝法の薔薇〟のファミリーだけだ。
――法の薔薇。
米ソの冷戦期に旧ソ連に出来た地下組織。ソ連崩壊とともに生き場を失ったKGB諜報員を吸収し、彼らが手土産として持ってきた武器販売ルートを用いて、隣接している東ヨーロッパ圏にまで勢力を拡大した犯罪組織だ。
〈ラーンドゥシ〉はイギリス国内に住む、ロシア人のための会員制レストランだ。しかし、それはあくまで表向きであって実際のところは、警察の目を誤魔化すための隠れ蓑に過ぎない。事実としての〈ラーンドゥシ〉は法の薔薇の集会場だ。ほうぼうにいる幹部たちの合議を取る議場の役割こそが、レストランの本来の在り方だった。
「これが殺し屋の写真です」
ケーキハウスから生きて戻った男――ラビが懐から数枚の写真を取り出した。机の上に置かれた写真の一枚を、ラビの眼前に坐る年老いた男が手に取った。斜め上からのアングルで撮ったもので、縁がぼやけたものだ。かろうじて、被写体である男女の姿形が分かる程度の、情報としてはあまりに頼りないもの。
「……こんな奴らにあの子は殺されたのか」
地を割ったようなひび割れた声。
ラビは唾を飲み込み話を続ける。
「……非常階段から撮った写真ですので、車のナンバーはエリアコードとエイジのみしか分かりません。ですが、ボス・ヴァレリ。二人の顔は撮れました。その男と女がファミリーの人間を八人も殺った」
ヴァレリと呼ばれた男は、法の薔薇イギリス支部の頭目を任されている幹部だ。そして、ミハイルとマルセルの実の父親でもある。ヴァレリの横には沈痛な表情のミハイルが坐り、その後ろに立つイヴァンは写真を食い入るように見つめていた。
現在、レストラン内部は法の薔薇関係者数人しかいない。一つのテーブルに陣取り、重苦しい空気を流していた。
「ボス、息子さんのです」
ラビの隣に坐る男、ユーリがポケットから、紅いルビーをあしらった銀十字のネックレスを出した。出し遅れたそれは、六〇三号室の前で、命を散らした間抜けが掛けていたものだった。ネックレスを受け取ったヴァレリは、それを無言で強く握りしめる。
「お気の毒です」
ボスの姿に心を痛めたのだろう、ユーリは同情の言葉を口にしてしまった。思わず、ラビは目をひん剥いて隣を見た。
「……気の毒だと?」
一拍置いて、重々しい声が場に響いた。
ミハイルだ。虚ろなその眼がユーリを見据えていた。
次の瞬間には、ミハイルがやおら伸ばした手が、ユーリの髪を鷲掴んでいた。そのまま頭皮を剥がさんばかりの勢いでテーブルクロスに叩きつけると、テーブルナプキンからもぎ取った銀食器――べとべとの脂がこびりついたままのスープスプーンを、男の顔面へと突き立てた。湾曲した先端が、ユーリの左眼窩の底を削るように沈み込み、匙のくぼみが眼球をがっちりと固定した。
ミハイルが持ち手をてこのように傾けると、眼窩内の目玉がぷっくりとはみ出していった。ユーリはたまらず悲鳴を上げた。室内に響き渡るそれを無視して、ミハイルはプディングを掬うような気安さでスプーンを捻じ込んでいく。
「やめっ、やめてくれ!」
毛細血管がプチプチ千切れ、ユーリは血の涙を流した。目玉が孔からはみ出ようとするたびに、涙腺から血が潮吹きのように噴き出て、純白のテーブルクロスを穢していく。
「お前がそれを口にするのか、クソ野郎! まさか俺を憐れむ気か! あぁ? なぜ、お前が生きてマルセルが死んだ! お前はなぜ、マルセルを守らなかった!」
その顔は修羅のごとく赤黒く染まり、めくれ上がった唇の間から食いしばった歯が、ギチギチと軋み音を立てた。悪魔の形相だった。
紅いルビーに勝るとも劣らない臙脂色が、ミハイルの手を染めていく。誰もユーリを助けなかった。そもそもラビたちの役目は、マルセルに仕事の経験を安全に積ませることだった。それが失敗したいま、不用意な言動は慎むべきだったのだ。
ユーリが発した言葉に、皮肉や嘲りの意をミハイルが感じ取っても仕方のないことだった。
いつしかミハイルの瞳は濡れていた。マルセルはミハイルの大切な弟だ。その弟が死んだ。自分と違い、不出来な奴だった。酒浸りで、すぐに一家の生まれだと威張り散らし、女に手を上げる。
ショバ代の売り上げをちょろまかした弟に、父は激怒した。根性を叩き直すために回したのが今回の仕事だ。ファミリーの人間にマルセルが陰口を叩かれているのをミハイルは知っている。
それでも血を分けた弟なのだ。たった一人の大切な弟なのだ。
「ミハイル、やめろ」
ヴァレリはしっかりとユーリが苦しんだ後に、ようやく息子に制止の声を投げかけた。
「でも、パパ! こいつは家族を侮辱した!」
「分かっている。だが、八人も死んだのだ。これ以上、ファミリーから死者を出せない」
くそったれ! ミハイルは内心毒づいた。銀食器を男から引き抜くと、その頭を思い切り殴りつける。左目からこぽりと血が垂れる。
「ラビ! この間抜けを奥につれていけ」
ミハイルの言葉に頷き、ラビは悶えるユーリに肩を貸して奥へと姿を消した。ミハイルは血を拭うこともせず、懐から煙草を出し火を点けた。涙を拭ったブルーグレイの瞳には、黒ずんだ情念が渦巻いていた。
「イヴァン……こいつらを捜せ。協力者には懸賞金を出す。イヌにも情報を流せ」
腹の底から響くようなヴァレリの声に、イヴァンは思わず身震いした。「はい」そう短く答えるのがやっとだ。いまや、老年の紳士然とした顔は、抑えきれない感情によってどす黒く変貌していた。
ヴァレリは机の上に置かれた固定電話を手に取ると、悠長な手つきで番号を押していく。やがて、繋がった相手に向かって、よりこもった声を出した。手の中の写真は、ぐしゃぐしゃに握り潰されていた。