005 特化脳力場
ケーキハウスから西に一二〇メートル離れた廃工場。八〇年代初めまで綿糸工業で栄えたかつての名残はもう見えない。
所々割れた窓ガラスから冷たい隙間風が入り込む。僅かにでも金にできるものは全て窃取されて、工場内部は荒れ放題の様相を呈していた。
壁という壁にはスプレーやフェルトペンを用いた落書き――グラフィティアートが描かれている。足元を覆うのは外から舞い込んだ砂埃。ここには寒さを凌ぐ寝床を求める浮浪者か、邪魔者が入らない環境で宇宙の果てにいるであろうグレイマンと交信を試みる薬中しか訪れない。時代に取り残され退廃した処には終わった人間しか来ないものだ。
ただ朽ち、いずれ崩壊するのを待つのみとなった建造物。その屋上に一人の男が寝そべっていた。
フィンチだ。
雨風に晒された彼の風体はある意味、廃工場の宿泊客のようで。オイル加工されたジャケットと錆びれた屋上が、嫌というほど調和していた。ただ、その腕から覗くものが、余りにも日常にはそぐわなかった。
一メートル強の狙撃銃――L96A1だ。世界十九カ国の警察・軍で使用され、高い命中精度、マイナス四〇度の寒冷地でも動作するトップクラスの狙撃銃が、いま、フィンチの身体に組み込まれたパーツみたいに地面に携わっていた。
彼のすぐ横には空薬莢が転がっている。
何を隠そうつい今し方、カーテンのほんの僅かな隙間からショーンを狙撃したのはこの冴えない風体の中年だ。ターゲットが照準器に映り込んだ時間はコンマ五秒にも満たないだろう。にもかかわらずフィンチの目は確実に、そして正確にターゲットの体をレティクルの十字に捉える。そうして、伏射姿勢から必中の銃弾を、吸い込ませるようにターゲットに叩き込ませたのだ。
まさしく神業といっていい狙撃術。世界射撃選手権の審査員が見たら満場総立ちで拍手を送られただろうが、何事にもそれを絶妙たらしめるカラクリは存在する。
ショーンが窓を横切った時間。普通の人間からしたら瞬きするほどの一瞬だ。だがしかし――フィンチの感覚では、その時間は優に数秒を数えるほどだった。
フィンチが行ったのは意図的な視床への活動電位の活性化。それに伴う約一〇〇万本ある視神経繊維の処理受容力の底上げだ。
網膜で捉えられた視覚的情報は、通常を遥かに超える処理速度を以って大脳に伝わる。この一連の脳運動は擬似的な加速体験をフィンチにもたらす。
すなわち、彼が特脳を発動させて見る世界は――
空を舞う鳥の羽ばたきが生み出す空気の淀み。
アスファルトにぶつかった雨粒の四散の瞬間。
数グラム程度の無煙炸薬が爆発した強い反動。
きりきりと高速回転する7.62mm弾がターゲット目掛けて空気を切り裂く光景。全てが緩慢となった世界でただ一人、フィンチのみが一瞬の出来事を知覚できる。
それが彼が持つ特化脳力場の能力――「感応収斂」
「なにチンタラやってんだあいつら」
先程グウェンから、全員始末したとの報告がきてから大分経つ。さっさと撤退しなければまずい。ケーキハウスとはとどのつまり、役人が視界に入れたくない汚物を一ヶ所に集めたゴミ溜めなのだ。
集められたゴミと言えど連中にも考える頭はついている。
――手に持った銃をして自らの権利を訴えるくらいには。
連中の庭で好き勝手に弾をばら撒いたとあっては命がいくつあっても足りないのだ。だからこそ静かに素早く仕事をこなさなくてはならない。
ふと逸らした視線が、建物に外付けされた非常階段を捉えた。スコープ越しに見えたのは――
◇
『テッド、男が非常階段を上がっている』
空電音の途切れから、フィンチの抑揚のない声が入った。
それに合わせて、テッドが首を窓辺へと向いた。グウェンはキャビネットの前で、オーブンレンジの上に飾ってある写真を見ている。
逃げるならいまだ――アンナは足元に置いてある金網の縁を左手で掴んだ。素手で思いきり握りしめたせいで、皮膚が焼ける。鈍い痛みもお構いなしに、アンナは歯を食いしばって、目先の男に金網を投げつけた。
「ちょぁっちい!」
もはや炭と化したウインナーを顔面で受け、テッドは思わず身悶える。幸いなことに、ふざけたサングラスのおかげで眼球は無事だ。
アンナは金網を振り抜くと同時に出口へと向かって全力で走った。足元は裸足だったが、そんなことは構わず一直線に駆け抜ける。
「……こっのアマ」
テッドが怒りの形相を向けた時には、アンナは既に微かに開いたドアに手を掛けていた。
「なーにやってんの、おバカ」
真横で沸き立つテッドをよそに、グウェンは剽げた仕草から流れるように腕を曲げ、ベレッタの照準をアンナの背に合わせた。引鉄にかかった人差し指を緩やかに、引き絞るように力を込め、確実に仕留める必定の銃弾を撃ち込もうとして――
アンナが肩から扉をぶち破って通路に飛び出た瞬間だった――鼓膜をつんざくような短機関銃の咆哮が、打ちっ放しのコンクリート壁を何重にも反射して、静寂を掻き散らしたのは。
死神の鎌は、あまりにも突然に振るわれたのだ。
アンナの柔肌目掛けて、無数の鉛玉が容赦なく突き刺さり、彼女の全身がミンチ肉になるまで一〇秒もかからなかった。ピンク色の肉片が軌道を描いて、グチャグチャに宙を舞っていく。
その光景はジョージ・A・ロメロが手掛けたスプラッターシーンのようで――ぐらり、とゆっくりした螺旋を描きながら、アンナの肉体は通路の床へと崩れ落ちた。
鮮血が物言わぬ亡骸を中心に飛散する。
床へ、壁へ、天井へ。血臭が瞬時に充満した廊下から、空間を反復する銃火の残響だけが、束の間の凶行を知らせる余韻として残った。
グウェンとテッドはその一瞬の出来事を、あんぐりと口を開けて見るのみだ。「はぁ?」漏れた声はどちらのものか。面食らった表情を浮かべる二人の耳元に、ノイズ混じりの騒々しい声が届く。
『なんだ、いまの銃声は!』
銃声がフィンチのいる廃工場まで届いたのだろう。
がなり声ながらも、それは二人を緊張状態に引き戻すのに十分だった。グウェンとテッドは弾けるように、リビングから出入り口のドアを覗ける左右の壁際に体を移す。
「……あー、おっさん。かなりトラブってるかも」
情けないセリフとは裏腹に、サングラス越しの目は鋭く通路へと向いている。
あの娼婦もどきを愉快なオブジェクトにしたのは、ここを根城にするチンピラか? それとも外部の――グウェンは頭を必死に回転させながら、つい先刻のアイルランド人強襲時とそっくりだと自嘲した。
残弾は予備弾倉を含めて二十四発。
兎にも角にも、こんな狭い建物内で弾をばら撒いた奴の正体を突き止めなくては。
そう考えた矢先だった。
「придурок! Ну давай, не будь дураком!」
恐らく発砲した人間の仲間だろう、窘めるような男の罵声がこちら側まで響き渡ってきた。ロシア語だ。ケーキハウスにはスラヴ系住民は住んでいない。ここを魔の巣窟に変えているのは、スペイン語を母国語とする中南米系だ。少なくともロシア人とは縁もゆかりもない場所のはず。
――だとするならば。
あの哀れな娼婦もどきを撃ち殺したのは第二の襲撃者だ。
連中の目的はアイルランド人? 先程の罵倒内容は間抜けだのこの馬鹿だのといったものだ。恐らく女は連中のキル・リストには載ってなかったのだろう。
予想外の人物が半壊したドアを破って飛び出してきたところに、突入のタイミングを計り待ち構えていた襲撃者が焦って引鉄を引いたというところか――グウェンは伸ばしたタートルネックの上から、鼻先に消音器の腹を押し当てた。
どちらにせよ、襲撃者は間もなくこの部屋に乗り込んでくる。脱出の障害になるならば殺すしか他にない。グウェンは横目で隣を見やる。
テッドは口を固く結んだまま、だがしかし、その瞳はいつしか虚空を彷徨っていた。プログラムの恩恵――特脳を用いて襲撃者の規模を把握しようとしているのだ。
可視域という言葉がある。
これは、電磁波の中で人間の眼で見ることのできる光の波長区分を指す。もちろん、人間の視覚を主体とした区分であるため、紫外線領域を視覚可能な動物は多数ある。
人間の眼に可視光という波長域の電磁波があたると、光エネルギーにより化学反応が起こる。神経が刺激され、その刺激が脳に伝わり、光を感じることができるのだ。
重要なのは、人間は電波を感知できないということだ。可視光の一〇〇〇万分の一程のエネルギーしか電波は持っておらず、眼に化学反応を起こせない。
電波は電磁波の一部分だ。電磁波は電気と磁場の強さが時間とともに刻々と変化するものをいう。そして、電磁波のなかで時間的な変化が、比較的ゆっくり起こるものを電波と呼ぶ。
つまりは、ラジオなどの電化製品に使われる電気エネルギーが、波のように時間的変化する様子が電波となるわけだが、人間の体にもとうぜん電流の流れはある。それに基づいた体温から、熱放射という形で電波が出るのだ。
罅割れたケーキハウスのコンクリート壁。
一見、真っ平らに見える壁だが、それでも顕微鏡レベルでは無数の穴がある。赤外線が壁にぶつかれば反射してしまうが、電波である放射熱は穴を潜れるほど波長が低い。
マーズ・サングラスの奥で、テッドの瞳が淡い燐光を燈した。
眼球のうわずみ、虹彩と水晶体の間に移植されたナノレンズが、脳髄に直結した複数の光ファイバーケーブルを媒介として、周囲の生体磁場のみならず、ありとあらゆる構造物を投射する〝超多層型デバイス〟としてのコンフィグを実行し始めたのだ。
これが――プログラムをクリアしたことによって、特化脳力場(極微的な集合体である電磁界)の観測、干渉を可能とした〈戦闘適応班〉所属の特脳者――テッドが、自らの命と引き換えに獲得した能力のディテールというわけだった。
ぼんやりと青く発光する瞳に映るのは、まさに鮮麗なビジュアルとなって視界を埋め尽くす彩色世界。
死線交わる火中にて――直径一センチほどの特殊フィルターレンズが、いま、何よりも頼もしいレーダーサイトと化していく。テッドがこの場で知覚可能な範囲はおおよそで半径三〇メートルほど。
指向性を持たせた電磁波を、高性能魚群探知機のように三六〇度全方位に放射。フィードバックした情報を立体図に変換し、ホログラフィックの青い線がフレームを築き上げ、眼球を覆うナノレンズに立体映像を描写していく。
特脳――「強制識別圏」を発動させ、襲撃者の人数と得物を把握したテッドは、声を抑えて詳細を知らせた。
「入口に四人、サブマシンガンで武装、他にもいる」
「同期を」と、グウェン。
ややあって、グウェンの視覚像に圧縮ノイズが奔り、眼球を覆うナノレンズが青い光を燈した。視界の右隅に、テッドが把握したケーキハウスのマップデータを投射。リアルタイムで更新されていく。
外側が騒がしくなった。
ジャックの死体を見つけたのだろう。
戸口から複数の靴音。慎重さを思わせるゆっくりとした足音がシューズクロークの床を踏み鳴らし、居間へと近づく。
あと三歩で姿を晒す位置に付いた瞬間、グウェンは膝をぐっと曲げ、中腰に。そのまま素早く、前後に体勢を入れ替えるとベレッタだけを壁から出して発砲した。
消音器内部で拡散された高圧ガスとともに、衝撃波が空気を裂く。
目線のずっと下からの予期せぬ攻撃は、警戒態勢の襲撃者も反応出来ないものだった。
速射で放たれた六発は確実に襲撃者を屠った。
床に倒れ込んだ音は二人分。
六〇三号室の外にいた襲撃者の一人が大声で喚いた。
短機関銃――イスラエル製のウジを手当たり次第に撃つ。灰色の壁がぼこぼこはじけて、埃と同色の粉が飛び散った。
襲撃者は砂糖に突っ込んだ蟻みたいにパニックを起こしていた。
甲高い擦過音が飛び交い、グウェンが隠れる壁付近で火花が散った。
「おっさん、襲撃だ! 人数は八人! いま二人殺った! ウジで武装したロシア人だ!」
圧倒的な連射速度で放たれた9mmが壁に次々と弾痕を刻んでいく。ばちん、という音とともに銃撃が止む。弾切れだ。テッドは身を翻しながら、弾倉を必死に抜こうとしている男に銃弾を浴びせた。男は小さな断末魔を上げ、壁に背を預けながらずるずると床に坐り込んだ。
「テッド、脱出ルートの検索を」
予想外に人気者だったアイルランド人に辟易しながら、グウェンは注意深く次に備える。
「……非常口はマズいな。二人陣取ってる。動かずに俺たちを逃がさない気だ。おっさん、北側の非常口の二人撃てるか?」
『無理だな。中に入っちまってる』
「分かった。こっちはグウェンと何とかすっから、おっさんは表に車を回してくれ」
テッドは眉間に軽い皺を作る。ケーキハウス内部の通路は完全に外から閉ざされている。やむを得ない判断だった。短い空電音の後に了解の返答がくる。
残り五人。北側の非常口に二人。非常口側からは六〇三号室は見渡せない。出入り口付近にもう一人。そこから離れて南側のエレベーターホールに二人いる。
「非常口階段からだと外から丸見えだ。おっさんの援護がないから危険すぎる。マンション内のチンピラもいまの銃声で先走っちまうかもしれねえし、急いだ方がいい。エレベーター前の二人をちゃちゃっと始末して、一気に下に降りる。どうだ?」
特脳で得た情報を基に、最適な脱出ルートをテッドが提示する。
グウェンはほんの数秒ほど思考すると、
「オーケー、それでいきましょう」
軽いノリでテッドの案に乗った。
グウェンはいかなる状況でも気負わない。
死ぬ時は、いかなる上策を以ってしても死ぬもんだし、その場の状況に合わせた最適な行動で生を掴めればそれでいい。
無駄な死への恐怖は、いざという時に判断を下す際の支障となるだけなのだから、埒外の事項は生き延びてから考慮すればいい。
グウェンはそう考え、そう心掛けている。
何てザマだ――出入り口で中の様子を窺う男は、額に大粒の汗を浮かべた。足元に転がる仲間に、たまらず罵り言葉を吐きそうになるのを、ぐっと堪える。
そもそもが、最初からしておかしかったのだ。
目標が隠れ潜む六〇三号室についた時、彼はまず違和感を覚えた。撃ち壊された錠前、微かに漂う硝煙の香り、たまらない血の臭気。悪名高いケーキハウスにおいても、これは明らかに異常だ。
六〇三号室内部で、なんらかのアクシデントが起こっていることは明白だった。彼は連れ立った仲間三人に、ドア入口を囲むように指示を出す。エレベーターホール並びに非常階段、他の逃げ道はすでにこちらが確保してある。
タイミングを計り、いざ突入という時だった。闘牛のようにドアをぶちかました金髪の女が、銃口の先に飛び出してきたのは。
そして、あろうことか今回が初仕事の間抜けが、泡を食ってウジの引鉄に掛かった指に力を込めてしまった。緊張がピーキーに達した、新入りならではの勇み足だ。銃弾がばら撒かれ、豪快な銃声が壁を反響し、鉄火場を報せるゴングが建物全体に鳴り響くのはあっという間だった。
止むなく突入の決断を下した自分たちを待っていたのは、入って早々目につく床に転がった死体――キル・リストにあったジャック・キンセラだった。誰がやった? 仲間割れ? 別口の殺し屋の仕業か? 次々に湧き上がる疑問を抑え込み、臨戦態勢に入る。警戒させながら仲間を先行させ、急遽始まった銃撃戦。息つく間もなく二人が殺され、いましがた間抜けも撃たれた。
男は冷たい視線を壁にもたれた間抜けへとやった。
間抜けは口から血の泡を出しながら、ひゅうひゅうと風切り音にも似た呼吸をしている。胸部に孔があいている。もう助からないだろう。ジャケットを貫通した孔から、止めどなく血が流れている。
間抜けは震える手先で、首元に掛かっている紅いルビーをあしらった銀十字のネックレスに触れた。
己が末路を悟ったのか、間抜けの顔は悲痛に歪み――直後、乾いた命中音が、眉間の間からベルのように壮麗に鳴りわたった。
「чёрт!」
男が誰ともなしに悪態をついた瞬間、視界の片隅を黒い布が靡いた。転瞬の間、首筋に走る鋭い灼熱感。何事かと男が首を傾げると同時に、薄らと赤く滲んだ首筋からプツプツと臙脂色の粒が浮かび、やがて裂け目となった傷痕から、どす黒い鮮血が勢いよく噴き出した。
「こぽっ……ごっ、ごっ」
左手で必死に傷口を押さえるも、指と指の隙間から血が流れ落ちていく。頭がぼんやりと痺れはじめ、男は膝を床につけて辺りを見回した。
せめて、自分に何が起きたのか知りたかったのだ。ぐらつく頭部を回転させながら仰向けに横たわると、男はようやく首を裂いた元凶を見咎めた。
グウェンはケープコートの裾をマントのようにはためかせながら、左手に握ったナイフを日本刀の如く血振りした。
血痕がぱたたと走り、壁に点線を描いていく。
グウェンが愛用するスパイダルコのハーピーナイフは鷲の鉤爪足に似ていた。引っかき切断ができるようにデザインされ、ブレードは内側に湾曲している。切断する対象物を掴み、外さない刃先は男の喉頸を真一文字に裂いてみせた。
いつの間に近づいたのか。いや、そもそも何故、視界にその姿を捉えていながら体が反応しなかったのか。まるで魔法に誑かされたようだ――最後に自身の血の海に沈む男が考えたのは、そんなあられもない事だった。
テッドはハーピーナイフを折り畳むグウェンを横目に、南側エレベーターホールへと慌てふためいた様子で走り出した――右手に持つブローニング・ハイパワーを体の後ろ手に隠して。
「ayu'dame! llame a un doctor!」
唾を飛び散らせながら喚くテッドの姿に、エレベーターの前に陣取っていた男たちは虚を突かれた。キル・リストにはターゲットはアイルランド人と書いてあった。ならば、スペイン語で喚くウェスタン野郎は目標ではない。
だが、いまエレベーターを使わせる訳にもいかず、理解できるであろう英語で警告を発し、
「おい、止まれ!」
その言葉を聞くが早いか、テッドは右手をぐるんと前方に回すと、容赦なく引鉄を引いた。間髪を容れずに放たれた速射二発は、呆然とする男たちの胴体へと吸い込まれた。「ぐっ」「ぎゃっ」小さな呻き声を上げた二人が、苦悶の表情のまま倒れ伏す。
追い打ちに二発の銃弾が、二つの頭部に穴を開けた。
たったいま、作り上げた死体を一瞥することもなく、テッドはエレベーターの乗場ボタンを拳で叩くように押した。位置表示器の八階にランプがつく。数秒ほど経ち、モーター音とともにかごが六階に到着した。
金属が軋む音をたてながらかごの戸が開く。テッドとグウェンは素早く乗り込み、フィンチが待つ一階へと向かった。減速機を用いた旧式のエレベーターの巻上機が、耳障りな騒音と振動をかご内部に響かせる。
グウェンはうんざりといった表情で嘆息した。早いとこ休息の一服をしたかった。煙草のニコチンで脳味噌を洗浄すれば、頭の痛い現状も少しはマシになるだろうから。
だが、状況は予断を許さない。
表示器のランプが三階を過ぎたあたりで、テッドはぱっと顔を上げると、操作パネルの緊急停止ボタンをいきなり叩いた――が、肝心のかごは、不感症よろしく何事もなかったかのように降下していく。くそが、テッドが呟いた。強制認識圏を再度使用したのだろう、その表情には焦りの色が見て取れた。
「やばいぞ。このまま一階についたら、オレたちゃ蜂の巣だ」
位置表示器は二階を示している。いまさら「2」の赤ボタンを押しても無意味だろう。
焦りを滲ませたテッドに、グウェンが訊いた。
「落ち着いて。人数は?」
「二人。銃口がこっちを向いてる。非常口の仲間が連絡したんだ」
熱放射を含む電波は、水蒸気に吸収されやすい性質を持つ。空気中にあるひとつひとつの雨粒が、固有の周波数の電磁波を吸収・放射するため、雨天は特脳者、特にテッドに大きな影響を及ぼす。ソナーのように広がる強制認識圏に死角が生まれるからだ。
一筋の汗がテッドの額を流れた。しかし、それとは対照的にグウェンの表情はドライなものだった。彼女にとってこの程度、死地と呼ぶことすらおこがましいものなのだから。
同期によって瞳を淡く燈しながら、
「私がやる」
そんな彼女の口から出た言葉は、テッドを大いに安堵させるものだった。
グウェンもまた、テッドに範囲でこそ劣るものの、特化脳力場の観測を得意としている。彼女が特脳を発動させるとともに展開するのは「束縛接続帯域」だ。
いま、グウェンの世界に広がるのは電磁波の『糸』。無数に伸びるそれを、識別/選択する。
作業時間はおよそ五秒。
下方から広がる対象の『糸』に、薄い革グローブで包まれた指を添える――オーケストラの指揮棒を掴むようにやんわりと。淡い燐光を持った電気の線が、指先から宙へと刹那の時を走った。
その指を、空を撫でるように振るい、
……ぽーん……
軽めの到着音。
ゆっくりと左右に開いた戸の先で待ち構えるのは、銃を構える処刑人。だが、その表情は困惑で満ち満ちていた。何が起こっているのか理解できないといった面持ちで、二人の男が立ち尽くす姿は滑稽なものだった。
男たちは混乱した。引鉄に掛かった指に力を込めても動かせない。
銃を支える二の腕は震え、脚は床と一体化してしまったかのよう。
まるで意識をそのままに、全身が操り人形と化した錯覚を覚える。
銃口の先には口元を歪に曲げて、こちらを嘲笑う女の姿があった。
女の暗く、心臓をわし掴むような眼を見て、本能が恐怖を訴えた。
神経細胞は、神経系を構成する細胞だ。その機能は情報処理と情報伝達に特化している。その役割は、神経細胞へ入力刺激が入ってきた場合、活動電位を発生させ、情報を伝達することである。
活動電位は生物を構成する上で必要な条件の一つだ。活動電位の働きにより、素早く組織間での情報伝達を可能としているからだ。
さまざまな種類の細胞から生み出される活動電位だが、最も広範かつ重大な部位は神経系に於いて語ることができる。神経細胞から筋肉などの他の体組織に情報を伝達するために、活動電位は使われるのだ。
グウェンはその特脳を以って、他者の神経細胞に干渉できる。
彼女が眼前で硬直する二人に行ったのは、脊髄神経として、中枢から離れて末梢に向かう運動神経への電気信号の強制入力だ。
運動神経は体や内臓、筋肉の動きを指令させる役割を持つ。本来であれば、脳から送られる正常な電気信号により、正常な反応を返しただろう。
だが、グウェンが特化脳力場を通じて、不正な電気信号を介在させることにより、男たちの体は極短期的な麻痺を起こした。ひとつの神経細胞に、活動電位がおきる閾値を変化させることにより、情報の誤った修飾が行われたのだ。
男たちはいま、必死に自身の体の操縦桿を取り戻そうとしているだろう。脳神経は縛っていない。男の互いに混乱とも罵声ともつかない、喚き声が玄関ホールに広がる。
その光景をテッドはどこか気の毒そうな顔で見つめた。
〝相変わらず、えげつねぇ……〟
グウェンはゆるりと腕を上げると、照準を敵の頭部に合わせ、引鉄を絞った。9mmパラベラム弾が眉間を正確に穿ち、一人目の男を即死させた。そのまま銃口を右にずらし、空虚な黒孔が二人目へと向いた。
男の表情は恐怖で強張り、
「Помогите!」
グウェンに助けを請う。
「チャオ」
小さく笑った彼女は、二人目の男を容赦せずに撃ち殺した。
冷たさを帯びた人工的な電球の光に当てられて、赤熱した銃口から、綿がけばだったような白く細い銃煙がたなびいていく。
残り一発の銃弾は薬室内に装填され、弾倉は空となっている。
グウェンは紺色のパンツのポケットから予備弾倉を取り出し、空弾倉を腰のポーチにしまった。予備弾倉を再装填し、重みを僅かに増したベレッタをコート内のホルスターに隠した。
「あいつらの首見たか? 薔薇の刺青が入ってたぜ」
「薔薇? 薔薇ね……」
「どうした?」
いいや、とグウェンは首を振り、
「刑務所帰りならあって当然。どうせ、ろくでもない連中に決まってる」
ロシアの刑務所においては刺青はコミュニケーションツールだ。所属組織、性的嗜好、服役期間――刺青を見れば、そいつがどんな人間でどのような人生を歩んだかが分かる。
「おっさんはどこにいんだ?」
まだ周囲に隠れ潜むかもしれない敵に気を配りながら、テッドは廃墟じみた玄関ホールの奥を覗く。
「ねえ、お腹減った」
グウェンはタートルネックをずり降ろし、外した革グローブを咥えながらぼやいた。
「いや、あのね。もうちょい緊張感持とうぜ?」
「あんたのレーダーに引っ掛かんないならもういないわよ。それより、朝からなんも口にしてないからもう死にそう。バンガーズ&マッシュ食べたい。あと、煙草吸いたい」
バンガーズ&マッシュとは大きなソーセージとマッシュポテトに、グレービーソースがかけてあるイギリスパブの名物だ。
六〇三号室のウインナーの匂いにやられたのかな、とテッドは推測し、同時に頭を抱えたくなった。相も変わらず、仕事の面以外ではずぼらすぎる。
そんな自堕落的な生活を送っているから、局長に心配されて、それをネタにロレッタに揶揄されるのだ。もっともそれを口にするほどテッドは馬鹿ではない。口にしたが最後、面倒になるのは目に見えている。
ぶつくさと不平を言うグウェンを窘めていると、雨を蹴散らしながら向かってくるジャガーが見えた。
玄関ホール前に滑り込むように横付けした車に二人は急いで乗り込み、ようやっと魔窟を脱出したことで一息ついたのだった。