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030 エピローグ

 ゆらめく燭台の灯火に当てられて、男の左眼がエメラルドの彩りを帯びていく。不自然な輝きを放つ左眼球は、一見して義眼だと見抜けないほど精緻に作られた代物だった。奇妙な事に右目の焦点に合わせて左眼球も動いており、よくよく観察しなければ男が隻眼だとは気付けないくらいに。

 男曰く、視神経の微電流を感知して右目の動きに合わせている、との話だが、そんなことよりも男が先程述べた言葉の方がヴァレリ・バザロフにとっては重大だった。


「連中から手を引けと、そう言うのだな? ミスタ・コールマン」

 地を割ったようなひび割れた声が、レストラン〈ラーンドゥシ〉内に静かに広がった。声を出したのはきびしい表情のヴァレリだ。

 対面に坐る小柄な男が、悠揚な仕草で肩をすくめる。

「ええ、その通り。あなたがたは派手にドンパチをした挙句、彼らを取り逃がしてしまった。これ以上は警察も黙っていませんよ」

 剣呑な瞳を細めて凄む一介の首領に対して、義眼の男――コールマンは、どこまでも深沈とした態度で返す。

「これ以上は〝円卓〟の皆さんも望んでいません。あなた方も彼らに火の粉をぶちまけるのは本意ではないでしょう」

〝円卓〟とは、ロシア本国政府と協調関係にある新興財閥を指す。

 エリツィン政権時にオリガルヒ(寡頭資本家)として権力を獲得し、政府役職や各種メディア連合に人員を送り込んだ彼らは議員、官僚、軍産複合体、メディア、インフラ、金融を支配する怪物として猛威をふるった。その手は暗部にまで広がり、オリガルヒはロシア本土から派生した法の薔薇のバックチャンネルのひとつでもあった。

 プーチン政権下で抑制策と懐柔策により彼らの多くが粛清され、円卓会議に居合わせたオリガルヒの大半が、財産を失うことになる。

 汚職と富の独占を失ってなお、資本経済に一定の影響力を持つ彼らの一部は非合法な手段で巻き返しを図った。

 法の薔薇が行う武器売買を始めとする違法ビジネスは、復権を目指す現〝円卓〟メンバーの支援により発展を遂げた過去がある。

 いわば〝円卓〟は法の薔薇の最大のスポンサーでもあり、ビジネスを行う上で彼らの意向を無視する訳にはいかないのだ。


 それを理解しているからこそ、ヴァレリは怒りを隠せずに、振り上げた拳でテーブルを叩いた。

 銀食器が跳ね、ボルシチが縁から零れる。

「お前はチェーカーか?」

「御冗談を」

「お前が何故、彼らと繋がっているのかは問わない。だが、連中は私の部下を殺し、商売を台無しにし、そして――私の息子を殺した。〝円卓〟のビジネスに差し支えるからと報復をやめろと言うのか?」

 わなわなと体を震わしながら、ヴァレリは憎悪を口から吐き出し、

「許せるものか。長男は警察に捕まり、次男は天に召された。奴らの喉笛を掻っ切るまで、私の報復は終わらない」

 淡々と、言葉尻に殺意を乗せて、そう宣言した。

 ワイングラスを(てのひら)で遊ばせながらコールマンは嘆息混じりの息をつくと、右目を瞑り、義眼だけをくるっとヴァレリの方へと向けた。

「私の部下……あぁ、ティアドロップから聞いてるでしょうが、我々も決して無関係でもないのです。なにせ、天高くド派手な打ち上げ花火を晒した訳ですからね。まるでドラゴンの咆哮だ。怠惰な警察も腰を上げかねないほどの」

「ならば、何故――」

「何故、報復を止めるのかですか?」

 ヴァレリの疑問にコールマンが言葉を被せ、

「そうですね……理由の一つに、我々(・・)が表舞台のスポットライトを浴びることを嫌うからというのがあります」

「何を言ってる? お前たちは世界を股に掛ける商人だろう」

「そちらと同じように、リカルムもまた、一枚岩で出来てないのですよ」

「ふん、商売屋(バイヤー)同士の縄張り意識も厄介ということか」

「正確にはまだ時期ではないということです。曖昧な答えですが、これ以上はご勘弁を」

 コールマンは爽やかな笑みを浮かべ、さらに言葉を続ける。

「どうでしょう。要は表に出さないように手を回せばいいのです」

「殺し屋を雇えと?」

「ええ、飛びきり優秀な人材を提供しましょう。もちろん、条件に見合った殺し屋をそちらで用意してもらっても構いません」

「我々、法の薔薇には専用の仕事人がいる。手を借りるまでもない」

 ヴァレリは鼻を鳴らして答えると、コールマンが待ったを掛けるように端然と言い返した。

「ともかく、これ以上国内を荒さないように願います。ただでさえ、爆破テロだなんだと警察の眼が光ってますからね」

 陰湿な(かげ)りを帯びた瞳を、対面に坐るいかにも商人といった風体の男に向けながら、ヴァレリは黙して葉巻に火を点した。その様子をじっとコールマンが見詰めた。なにかを図るように。

 葉巻の着火面から小さな炎が出る。やがて、口の中でくゆらせた煙をゆっくりと吐き出した陰鬱な大物(ドン)に、

「そうそう、あなたに是非お見せしたいものが」

 そう、卒然と切り出したコールマンが鞄から取り出したのは一台のノートパソコンだった。

「長男であるミハイル氏の実刑は避けようもありませんが……その前に何故、あの場に警察車輌――それも覆面刑事のものが居合わせたのか」

 作動音とともにデスクトップが立ちあがっていく。コールマンは女を思わせる細っこい指先でキーを叩いて、ブルー画面にファイルを浮かばせた。

 画面をヴァレリ側に向ける。

 ヴァレリはそれを、ただじっと、無言で見つめた。

 表示されたファイルを見て、驚愕の感情を僅かにでも見せなかったのは、流石は一国の支部を任された頭目だけのことはある。組織者としての矜持だけでなく、自身の感情をコントロールできる術を持たなければ、闇社会を闊歩することなど出来ないのも、また事実であった。

 それでも――ヴァレリの眼球が生体反応として見せた微かな動揺をコールマンが見逃さなかったのは、このちっぽけに見える小柄な男が、対面に坐る老人よりも、はるかに昏い世界の住人であるが故か。

「その様子ですと彼のことを信頼されていたようですね」

「……ああ。優秀な男だ。まさかFSBの犬が紛れ込んでるとは」

「彼はいまどちらに?」

「仲間の付き添いで病院に……なんてことだ、こいつはマルセルの護衛でケーキハウスに向かわせた男だ」

「リヴァプールの倉庫にも?」

「いたはずだ」

 コールマンの確認に、堪らずひゅっと息を漏らし、

「例の二人組の殺し屋のデータを警察に流したのは彼でしょう。ボス・ヴァレリ。ロシア部の狙いはあなただったはずだ。尾行されていたのですよ。それが結果的にご子息の逮捕に繋がった」

 鼻っ面に突き付けられた事実に、ヴァレリの手から葉巻がこぼれ落ちていく。

 全てが誘導だった。

 呼吸の繋ぎ目を狙って紡がれたコールマンの言葉が、泰然としていたヴァレリの動揺を引き出したのだ。人は呼吸を吐いて吸うとき、もっとも心を無防備にさらす。その僅かな心の隙間を狙って、コールマンは突風のような言葉で、ヴァレリの感情の誘導を行ったのだ。

 全ては己が目指す利益に向かって。

「人間の本性はわからない。どいつもこいつもクソばかりだ」

 落ちた葉巻を拾おうともせずに、ヴァレリはテーブルの呼び鈴を鳴らした。スーツ姿に身を包んだ側近が、すぐさま主の脇に歩み寄った。

「こいつを連れてこい。絶対に逃がすな」

 乾涸(ひから)びたようなしゃがれ声で、ノートパソコンの画面を指で力強く叩く。側近の男は忠実な猛犬のようにひとつ頷くと、踵を返して厨房へと戻っていった。

「いいだろう、お前の条件を飲んでやる。シリアへの切符は法の薔薇が持つだろう」

「安心しました、ボス・ヴァレリ」

「じき、警察がここにも踏みこむだろう。もう行きたまえ、従業員出口は厨房の奥だ」

 ヴァレリから譲歩を引き出したコールマンは、猫のような笑みを湛え、

「今後とも、より大きな利益(グレーター・グッド)のために良いお付き合いを」

 最後に商売人らしいビジネスライクな謝辞を述べると、重苦しい空気を纏った席を立った。




 外はすっかり晴れ模様が広がっていた。

 涼風が金糸の髪を梳くように撫でていく。その優しい感触に微笑を浮かべるのは、先程までコールマンと呼ばれていた男だ。

 穏やかな空気の流れを全身で浴びる彼女(・・)に、キーの高い男の声が掛かる。

「会談は無事終了しましたか? ミアトリス(・・・・・)

「ええ、つつがなく」

 間違いなく男性像で在ったコールマンの全身は、奇妙な事に、涼風に浚われたかのように、跡形もなくなっていた。

 角ばった肩腰から華奢な身体付きへと。

 骨ばった男性特有の、固い頬の線は、柔らかさを帯びていて。

 代わりにそこにあったのは、端整で器量のよい女性の相貌。

 右目は清濁併せのむターコイズブルー。

 左目は深淵を讃えるロリエ。

 虹彩異色を持つ女はまるで、腕のいい造型師が丹精込めて作り上げた西洋人形のようで――迎えの車横に佇むティアドロップを肩越しに眇め見て、

「旧ソ連の衛星国もいい感じに燻ってますねぇ……って、あらぁ? 今日は洒落たスーツじゃないんですねー」

「よくもまあぬけぬけと! いやらしい!」

 ミアトリスの鷹揚な口ぶりに、ティアドロップが歯を剥き出しにして睨んだ。白地のロングカバーオールに豹柄ストール、暗色のシャツには水玉模様の蝶ネクタイがつけられている。武器商人の恰好は今日も派手だった。

「メールで教えたじゃないですかぁ。自己責任ですよ」

「何をおっしゃいますやら……知ってますぞ。警察のおバカちゃん二匹に、無線を使って匿名のタレ込みをいれたのはあなたでしょう」

「何のことかわかりませんねぇ」

「ふぅん、しかし宜しいのですかな? アフリカに売る商品が全てパーですぞ。弾薬ならまだしも、あの船にはマザーセクメ(レーダー追跡装置)もあったのに火事で黒焦げに。これでは商売形無しだ」

 ティアドロップが肩を落とした。これでは大損害だ、という顔つきで。だが、彼のしかつめらしい態度とは裏腹に、その表情の裏に押し込めた愉悦の感情が、溜息とともに吐き出した言葉の節々に見え隠れしていた。

「マクスウェルさん怒ってました?」

 ぽつっと、ミアトリスが訊いた。

「茹だったタコみたいになってましたねぇ」

「おやまぁ、それはそれは」

 ミアトリスは猫のように笑った。

「アフリカで興した反乱軍、それを国民の正規軍たる地位にするチャンスを潰された訳ですからね」ティアドロップは、あぁと嘆き、「時間が経つにつれ、弱体化させた政府軍が盛り返す。長引きますよ、この内戦は」

「でもまぁ、これでリカルム内の勢力図が動くでしょう」

「ええ。アフリカへの企業投資優先権は我々のものに。問題は、あなたの暗躍が向こうにバレ次第、マクスウェルは殺し屋を放つだろうことです。怯えながら車のキーを回す日々がこないことを祈ってますよ」

「庇ってください~」

「インターポールへの意図的な情報漏洩に、オッドフィッシュの誘導による造船所襲撃……こりゃあ、捕まったらバラされますな!」

「ひょっとして情報をリークしたの怒ってます?」

「当たり前というものです! いきなり建物が爆発して、気付いたら野晒しにされていたんですからな。おかげでお気に入りのスーツが台無しだ」

「彼らがあそこまでやるとは思わなかったんですよぅ……」


 誤算があるとすればそこだ。事前情報では特脳のデータ収集を目的とした実験部隊だったはずが、蓋を開けてみれば鉄火場上等の武闘派集団。常人には扱えないスキルを持つとはいえ、ここまでやるとはとんだうれしい(・・・・)誤算だった。

 口を尖がらせてぼやいたミアトリスは、おもむろに指先を左目へと入れた。ぬちゅりと、粘性の糸を引いた眼球を躊躇なく取り出した彼女に、嫌そうな顔をしたのはティアドロップだ。

「路上でやらないでほしいですな」

「仕方ないでしょ? 私の特脳(・・)は、一回ごとに補助具を装填し直さなきゃならないんですから」

 そう言って、ミアトリスは懐から眼鏡ケースを取り出し、開く。狭い空間に一列で並ぶのは、ゴルフボールほどの大きさを持つ球体。淡い陽光に球体の表面が乱反射して、鮮烈な色彩を放つそれは、常に人々の視界に在って、なお且つ、それ単体では存在しえないモノ。

 その正体はカラフルな虹彩を放つ義眼。ワインレッド、ターコイズブルー、マラカイトグリーン……多様な虹彩を持つ義眼が全部で五つ。ケースの底に敷かれた、ウレタン製の衝撃緩衝シートの上にちょこんと坐っている。

 ミアトリスはその内のひとつを摘まむと、ぽっかり空いた眼窩へと嵌め込んだ。

「〝プレゼント〟の受け渡しはどうなりました?」

「無事に完了したようですぞ。さすがは、英国屈指のスペシャルフォース。その実力に嘘偽りはなかったということでしょう」

「そうですか。それはなによりですねぇ」

「前から聞きたかったのですが」

 運転席に乗り込んだティアドロップが疑問の声を上げた。

 それに対して、助手席側に乗り込んだミアトリスが、どうぞと間延びした声で言った。

「瞳の色が異なるのは趣味? それとも能力に影響が?」

「どっちもですよ? 私のカメラ・オブスクラ(暗い昏い世界)は義眼を通して相手の大脳辺縁系に干渉すること。相手の記憶をリアルタイムで上書きしているのですが、カラフルな目の色の方が相手と目を合わせやすいのです」

 ミアトリスが自身の左眼球を指でとんとんと叩く。

 アクチュエータ(駆動回路)を搭載した義眼が、指先のリズムに合わせてきょろきょろと視線を彷徨わせた。やがて、動作確認に一段落ついたのか、ミアトリスは誰に聞かせる訳でもなく、ぽつりと呟いた。

「ちなみに、コールマンとは第二次世界大戦時に活躍したセールスマンの総称なんですねぇ」

 アイスグレーの虹彩を放つ新たな左眼を、最後にぱちりとウインクさせた。不穏当なビジネスネームの由来を、耳聡く聞き咎めたティアドロップがにたりと嗤う。

「随分あくどい商売人ですな」

 部下の不遜な意見に、ミアトリスは口を(すぼ)めた。

「世界を刷新する人種は、得てして、そういうものですよ」

「世界、回せますかねぇ」

「世界は移ろいゆくものです。そう――ユリシーズのように」

 ベントレーのキーを回す。何物にも属さない灰白色のコンチネンタルRが、整然とした律動を開始した。それにしても、とティアドロップが口を開いた。

「なにも、あなたが些事を相手取る必要はないというのに」

 苦笑混じりに憂い顔を浮かべた彼は、上司を気遣う部下を演じながら苦言を呈する。ミアトリスの頬がぷうっと膨らんだ。白磁肌を微かに朱に染めて、一息に肺に溜まった空気を吐き出す。

 儀式めいた作業を終えたミアトリスがにこやかに答えた。


「私、映画館とか最前列で見る派なんです」


 まるで、死を振り撒く残酷な遊びを満喫したチェシャ猫さながらに。意地悪で、歪んだ魂を宿しながらも、微塵の曇りもない笑みを浮かべながら――





 沸騰世界のロリポップ

 Web of intrigue,

 From the United Kingdom.

 ~Fin~




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