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003 歪な愛国者

 都市部を抜けた郊外の森。僻地と言って差し支えないほどに、鬱蒼と茂った木々に覆われた深山幽谷。山沿いを縫うように敷かれた道の奥深く――そこに、ほとんど人が訪れることのない荘厳な雰囲気の洋館が身を隠すように佇んでいた。

 蔦が巻き付いた真鍮製の柵門を潜ると広大な敷地が広がり、中心には屋敷と調和のとれた彫刻入りの噴水がある。噴水の左右には、いかめしい感じの門とは対照的に、美しく整備された寄せ植え花壇が敷かれている。

 蕾を膨らませ始めたシャクナゲやアザレアが、色鮮やかに咲き誇ろうといじらしく主張していて、庭園の中に自然な植栽と自生植物をふんだんに散りばめた光景は、古典主義の写実的な風景画を完璧に再現していた。

 人気が感じられないにもかかわらず、庭園が重圧を放つのは、屋敷のオブジェに紛れて設置された監視カメラの存在によるせいだ。


 閑静な洋館の一室。

 机上の紙幣計数機が赤い札束をばらばらと弾く音が、まず、あった。新札特有の手垢のついていないインクの匂い。処女のように清らかでかぐわしい金束が、愛のない機械の手で乱暴に、そして精微にめくられていく。

 緑のランプが点滅すると、机の傍らに立つ執事が数え終わった札束をジュラルミンケースに詰め込んだ。ケースの中には五〇ポンドの札束がみっちりと並べられている。

 執事はケースを閉じると、黒革のモダンカウチに坐る男にさし出した。ブルドックのように両頬が垂れた男だ。男は手元に広げるバインダーを読み込むのに夢中で、それに気づかない。

「ミスター?」

 気を利かせた執事が声を掛けた。

 ハッと顔を上げ、男の目が眼前の銀製ケースに留まった。

 確認の意味合いも兼ねて、ケースを少しだけ開き、その中身が満杯であることに口元をほころばせると、視線を暖炉の真向かい――医療用ベッドに横たわる屋敷の主に向け、

「確かに受け取りました、ホワイト代表。これで静観している委員会の中道右派をこちらに引き込めるでしょう」

 そう述べる男には自信が見て取れた。光沢のあるストライプスーツを羽織った姿といい、堂々とした口ぶりといい、まるでブルックスブラザーズのやり手営業マンを想起させる男だった。

 屋敷の主は小さく頷き返し、手元のスイッチを操作してベッドの上体を上に起こした。

「頼んだよ、ブラット君。ここまでお膳立てしたんだから、しっかり仕事をこなしてね」

 屋敷の主――齢八〇になる老人、ホワイトの口調は穏やかなものだった。

 整然と切り揃えられた白髪に、深い皺の刻まれた顔。ひび割れたそれは、乾いた大地のようだ。そこに重そうな鼈甲(べっこう)縁の眼鏡が鼻の上に乗っている。痩せた体は、一見すると、骨に皮を貼りつけただけの髑髏のような風貌だ。腕には点滴チューブ、ベッドの横には医療モニターが光を放っている。

「もちろんですとも。全てこの噛みつきブラットにお任せを」

「……いままでの前任者はボンクラ揃いだったけれど、君は違う。君は羊の皮を被った狼だ。もうあまり時間がないからね。場合によっては連中の背中を引っ掻いてもいい。私は結果主義だからね」

「承知しました」

 それから、ブラットは室内の調度品をぐるりと見渡し、

「それにしても見事なコレクションです。いったい、この部屋の品々だけでいくらになるか」

 そう、ありきたりなことを述べた。

 それに対して、老人は呆れたように、出来の悪い生徒に言い聞かせるように、

「いいかい、ブラット君。金持ちというものは、自分の為に美術品を集めたりしない、次世代の為に保管しているのだよ。時価総額いくらだとか、そんな、せせこましいことを言うものではない」

 いまにも手折れそうな細首を静かに振った。

 ホワイトは視線をブラットから外すと、ベッドの上に設置された六画面マルチディスプレイに移した。

「まったく、首を回すだけで痛みが走る。数歩歩けば体が悲鳴を上げる。小僧の小便でもまだ威勢がいい」

 言い回しは汚いものだが、その表情は晴れやかだ。

「季節の変わり目ですから……ご自愛ください。では代表、私はこれで失礼を」

 仰々しく礼をする客人を一顧だにせず、ホワイトは軽く手を振った。視線は画面にくぎ付けのままだ。ブラットは老人の態度を気にもせず、ケースを左手に持ち退室した。


 老人の目を離さないマルチディスプレイは一画面ごとにさまざまな情報を流している。株価チャート、為替取引のレート、各国の主要ニュース。六画面が垂れ流す情報は膨大だ。ホワイトは老いてなお明晰な頭脳を持って、自身に必要な情報を取捨する。彼はこの作業を得意としていた。彼にとって世界は情報で構成されている。常にアンテナを張り続け、どんなに些細な事柄も逃がさない。全ては国益の為に。

 ホワイトの体は多くの病巣が蔓延(はびこ)っている。それでも、彼の体には人生最大といっても過言ではないほどの活力が漲っていた。いつ死に目を迎えてもおかしくはないというのに、その窪んだ瞳が爛々と輝くのは、数多の業を背負ってなお、抑えきれない死に欲故か――

 思考を巡らせていたホワイトの目が一つの画面に留まる。彼は手元のコントロールパッドを操作して、その画面の音量を上げた。


『――アメリカ司法省が条件をつけずに独占禁止に関する審査を終えたことで、米国グリーンバイオインダストリー社と英国ローテック社の吸収合併は事実上の承認となりました。来週末行われる欧州委員会の承認が得られれば、バイオ産業最大級の企業が誕生します』

 画面内の女性レポーターが抑揚のない声で淡々と話す。

『新会社のローテック・グリーン社はユグドラシル大東社に次ぐ、世界第二位の製薬会社となります。影響を受ける労働者は七〇カ国で二万三千人。総収益はバングラデシュのGNPを上回り、経済力の面でも世界第二十七位に。合併の会見よりグリーン社会長ウッドマン氏のコメントです』

『半世紀にさかのぼって我々は市場覇権をめぐり対立してきた。今回の合併は先人からしたら、まさに画期的な出来事だ。高価値、高品質、誠実な商品を消費者に還元したい。我々が手を結ぶことで、より良い製品をより安く提供できるでしょう』

『ウッドマン氏のコメントに合わせ、市場は十五から十八ドルの上昇基調、要因は――』


 時折響く暖炉の薪のはぜる音が、耳奥で心地よく跳ねる。ホワイトはニュースの音量を下げながら、これからの展開を練る。万事に遺漏はない。いまのところ、計画は順調に推移している。

 件の実行犯、三人組のリーダーが思ったよりも頭が回ったため、取り逃がしこそしてしまったが問題はない。むしろ、タイミングが狂ったことで、真実が露見した際のカバーシナリオに活かせる。

 そう、あらゆる状況が成功をもたらすべく仕組まれていた。

 自分の思惑通りに進んでいるのなら、そろそろ彼女が重い腰を上げるはずだ。その時だった、電話のベルが鳴ったのは。ホワイトの脇に静かに控えていた老年の執事が、受話器を耳に当て、何度か小さな返事を返すとフックに掛けた。

「旦那様、連絡員からです。怪魚が動いたと」

 執事は簡明に内容を伝えた。

 ほら、彼女が動いた――ホワイトは軽く笑みを溢し、「ミアトリスに連絡を」と執事に命じた。ふと、窓の外に目をやる。

 掻き曇った灰色の空からぽつぽつと、雨粒が落ち、立ち枯れた草木が一陣の風にざわめいた。


        ◇


 休眠期に入り、色落ちした芝生が視界の果てまで続いていた。どんよりと曇った空に、静寂が広がる大地。砂と石灰を混ぜて作ったモルタルを、たんと塗りたくったかのような景観に、ぽつんと寂しく(しつら)えたベンチ。

 そこには二つの人影があった。


 一人は女だ。白絹のような肌に、微風に()かされる金髪を肩に流し、カーキ色のトレンチコートを羽織る美人。単に美しいというのではなく、人間の枠を超えた、一種の芸術めいた類いの「魅了」とも呼べる美貌の持ち主だ。

 その瞳は左右で異なる色合いをしている。右目は清濁併せのむターコイズブルー、左目は深淵を讃えるロリエ。虹彩異色を持つ女はまるで、精良な審美眼を持つ蒐集家を虜にする西洋人形のようで。人気のない公園を、彼女はその左右異なる瞳で眺めていた。


 ふいに、この悲壮色で塗り固められた世界を壊す、軽快なメロディーが鳴り響いた。音の出所は女の鞄からだ。慌てることなく音の発信源を取り出すと、それを上下にスライドさせて耳に当て、

「はいー、ミアトリスですが」

 どこか間延びした、それでいて、どこまでも透徹な響きを持った声。にこやかな表情を浮かべた女は、頭をゆらゆらと揺らし、電話の相手と言葉を交わす度にその声を喜色に染めていく。それは子供のような無邪気さだった。通話を終えると、ミアトリスと名乗る女は、ベンチの隣に坐る熟年の男に顔を向けた。

「ベケット中将。状況が動いたようです。今日にはカタがつくかと」

「それはよかった。どうにもここ数日、胃がキリキリ痛くてね? ようやく忌々しい胃薬ともおさらばだ」

 男は微笑を浮かべた。その顔右半面には眉間から頬にかけて、目をぐるりと囲む深い切創痕がある。傷痕がミミズ腫れのように膨らんでおり、その見掛けのせいで彼の笑みは仄かに狂気を感じさせた。

「君の方の首尾はどうだい?」

 ベケットの問いにミアトリスは唇に指を当て「う~ん」と思考の海に沈む。だが、あくまで数瞬だ。ミアトリスはぱっと視線を男に戻し、

「怖いくらい順調ですねー。既にこちらが用意した偽のアドレスに、あちら(、、、)から複数回の接触がありましたし、部族の長に対しても背後関係の糸は通してあります」

 そう、何も心配することなどないのだ、と言外に告げた。

「種を仕込んだ男は大丈夫かね」

 そう訊ねるベケットの声音は、これは事務的な確認だ、という意味合いが強く――にこやかな笑みを返すミアトリスもそれに倣って、進行状況を淡々と口にしていく。

「はいー、我々で過去五年の渡航歴をチェックしてあります。中東諸国をはじめ、先進各国からタックスヘイブンまで、年がら年中飛び回ってますから。……あー、彼の事務所のスタッフについても同様です」

「ふむ、私の部下が芽吹いた種を回収すると」

「アンゴラ船籍20763。武装要員が乗り合わせてますが、あなた方にとっては赤子の手を捻るようなものでしょう」

「まったく。クリスマスは、まだ一月も先だっていうのにね」

「とびっきりの〝プレゼント〟ですよ」

「〝イワンの兄弟〟が余計な動きを見せていると聞いたが?」

「はいー、私の部下が彼らと接触して得た情報ですと、バッティングの可能性は無きにしも非ずですねぇ。でも、どちらがアイルランド人を殺しても、結果に違いはないでしょう?」

「そうだね――」


 彼らがいる公園のすぐ脇道を緊急車輌が走り抜けた。急調子のサイレン音がゆっくりと遠ざかっていく。

 ベケットは重い溜息をついた。

 覚悟を決めたとはいえ、それでも時折、自身の姿がひどく滑稽に思えるのは罪悪感ゆえか。ベケットは思わず苦笑した。否、全ての業は未来の礎に必ずや役立つ。そう信じたからこそ、ミアトリスを寄こした組織――〝リカルム〟と手を組んだのだ。

 ふと横に視線をやると、ミアトリスが不思議そうな顔をしていた。

「……いやなに、国民国家を騙すのは些か気が引けてね」

 懺悔にも似た言葉に女は一瞬、きょとんとした。そして、すぐさま、その豊かな胸を揺らしながら笑い声をあげた。

「心外だな。そんなに笑われるようなことかい」

「……ふふふ、ごめんなさい。ですが、その負い目の気持ちは的外れとだけ言っておきましょう。確かに我々〝リカルム〟は商人気質を持ち合わせてはいますが、その真髄に揺らぎなどあり得ません。――ベケット中将、あなたは中将なのですよ。国家の代理者ではありませんか。将来のための、付随的損害だと割り切ってみてはどうでしょう」

 紡ぐように語られた言葉に、ベケットは心を覗かれたかのような恐怖を抱く。まるで、高所から獲物の急所を一刺しにする鷹のようだ――ミアトリスに抱いた感情を押し殺し、

「……ああ、その通りだよ。まったくもってその通りだ。幸福と発展のために権力がやるべき義務がある」

 つい先週までは夏の熱気を肌に感じたというのに、いまでは通り風が全身を針のように刺す。身震いしたのは、果たして何のせいか。

「では、私は状況の進捗具合の確認に行ってまいります」

 ミアトリスは鞄の中から濃紺色のマフラーを取り出し、首に巻いた。

「わざわざ君が確認しに行く必要があるのかい?」

「私、映画館とか最前列で見る派なんですよー」

「それだと、視界の端が見えなくなってしまうのでは? 君の役割ならむしろ、後部座席から一望するべきだと思うのだが」

 ベケットの単純な疑問にミアトリスは小さく笑い、

「いいえ。寧ろ最前線だからこそ、見落としてしまいそうな細部にまで目が届くんです」

 人形めいた笑顔はチェシャ猫のように歪んでいた。


 ミアトリスの姿が公園のゲート(出口)へと遠ざかっていく。穏やかな微笑を浮かべたまま、ベケットが呟いた。

「売女め」

 ぽつっと、おぞましい言葉を口にした彼の背後に――いつからいたのか、ベンチの影にひっそりと佇むスーツ姿の男がいた。

 燻し銀のような短髪、日焼けした肌、分厚い血管が浮き出た手の甲、ピンと張った背筋。一見して、その男が熟練の兵士であることがわかる風貌だ。

「……部下に跡をつけさせますか?」

 冷たい金属のような瞳を向けて、男がベケットに言う。その剽悍な面構えに見合った、聞く者を委縮させる、うっそりとした声だった。

 ベケットは静かに首を振った。

「必要ない。あの女はいざという時のロスカットだ。生かしておけ」

「よろしいので?」

「誇りや規律、愛国心さえ持ちえない愚者だが、カーティスのお気に入りだ。手は出すな」

 その声音はミアトリスに向けていたものとは、まるきり異なる冷ややかなものだった。ベケットは言葉を続ける。

「もうじき、終幕(フィナーレ)となる。部隊を待機させろ」

「了解」

 男が短く答える。ベケットは腰を上げ、ミアトリスとは逆のゲートへと足を向けた。

 吹きすさぶ風。空虚に切り取った一枚の絵画。

 ベンチには先程まで二人の人間がいたというのに、まるで初めから朽ちていたかのように、静かに空っぽに、ぽっかりとしたスペースだけが残っていた。

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