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029 矛盾と齟齬

 白い壁。白い天井。白い床。パネル内部に組み込まれた内蔵式照明灯の光が、影を作らせまいとばかりに室内の全面にまで行き届く空間――そこは観察病室だった。五メートル四方しかない部屋の中央にはスチールの机。ちょうど真向かいに、机を挟むように置かれた二脚のヘビーデューティーな椅子。調度品はこれだけだ。

 最低限の対話のためだけに用意された部屋の天井片隅には、赤いランプを点した監視カメラが取り付けられている。

 常人なら、数時間閉じ込められただけで発狂しかねない内装。

 そこは清潔な造りをした実験室にも見えた。

 室内にはゆったりと空気を循環させる静かな空調の音と、分厚いドキュメンテーションの束をパラパラと(めく)る音だけがあった。

 この空間にいるのは二人の人間のみ。

 その内の一人、アメリア・クラスが反対側に坐る女を伏し目がちに窺い、じっと見詰めた。

 一目で上物と分かるオフィスレディ用のスリーピースに、肩から胸元に流した亜麻色の髪。黒縁の眼鏡から覗く瞳は知性を感じさせる(とび)色。現にいまも、その切れ長の眼でセンテンスの文字を、左から右へ凄まじい速度でなぞっている。

 それに対して自分はどうだ。

 女の代名詞とも言うべき髪はすべて刈られ、薄らと青さを残す禿頭姿に、精神病棟の重篤患者が着るような忌まわしき拘束服。腕は胸元で重なるように固い生地に覆われている。まるで猛獣の扱いだ。これでは、ブロードアローが入った囚人服、もしくは黄色と緑の作業着の方がまだマシというものだ。


 アメリアの視線に気づいたのか、資料を無言で読み漁っていた女が顔を上げて言った。紙束のカバーには『プログラム被検体番号――082』とタイトルが記してある。

「心配しなくても改善手術は成功ですよ」

 字面だけ見れば相手を安堵させる言葉なのかもしれないが、淡々と述べる女の表情を見れば、間違ってもこちらを気遣っての言い回しでないのは確かだ。

 おそらくは、会話の切っ掛け程度の発言だろう。

 だがあえてアメリアは無意味と知りつつも、会話に乗ることにした。

「まだ、頭が痛い」

「術後九十六時間は様子見です。鎮痛剤飲みますか?」

「いらない。それより改善って何よ」

 眉間の間にしわを作りながら訊ねると、ややあって、「あぁ」と女が納得したように頷いた。

「〝PtEB手術〟のことです。Push the Envelope Brain、脳の限界領域に挑むための改善手術。あなたには〝プログラム〟としか説明していませんでしたね」

「何も知らないし、何も聞かされてない。人の頭、かっ開いておいて説明責任もないとか……あんたらイカれてるよ」

 アメリアの侮蔑の色が乗った視線を一顧だにせず、黒縁眼鏡の女は手元のデータへと目を落とす。

「安心していいですよ。異常波も異常所見も見受けられないし、器質的なダメージもない」

「だったらこれを脱がせてよ」

 そう言って、身体を捩じると腰もとから金属音が鳴った。

 椅子と拘束服を鎖で繋がれているのだ。人権も何もあったもんじゃない。苛立たしげにアメリアは舌打ちをした。

 その様子を女は無表情で、ちらりと一瞥すると資料を捲りながら、

「それは出来ません。我々があなたに与えた力は、いつ暴走するとも限らない代物ですから。完璧に制御できるようになるまでプログラムは終わりません」

 そう、あらかじめ用意していた答案を読むように言った。

 そして、一層険呑さを増したアメリアに向かって言葉を続ける。

「むしろ感謝してほしいですね、元暗殺屋(トリガー)さん? 国の委託業務をしくじって、むざむざ消されそうになったところを、我々が拾ってあげたのですから」

「何も知らない癖に、私が感謝するとでも?」

「取引内容は守ります。我々の世界では信用こそが、唯一頼れる通貨ですからね」

「どのみち、断ったら殺すつもりだったんでしょ」

「何故? 我々が手を下さなくても、元お仲間なり、秘密警察(・・・・)なりが手を汚してくれます」

 理路整然と話す女を見るアメリアの目に、明らかな苛立ちがこもった。こめかみには血管がうっすらと浮き出ている。

「あなたのことは調査してあります。なかなか愉快な人生を送っているようですね」

 顔を資料から上げた女が言う。一瞬、アメリアの顔が硬直した。女は眼鏡の縁を指で押し上げると、男なら思わず見取れてしまうであろう紅唇をゆっくりと開いた。

「……アメリア・クラス。当国の国籍を取得する際に提示した偽名。これは委託業務上の通り名でもあり、これまでに政府高官、大物議員、外国大使館駐在員など、厄介な連中の処理に宛がわれてきた……どれも容易には手出しできないアンタッチャブルな大物ばかり。大した結果を残してますね。――ただひとつのミスを犯すまでは」


 この女は気に食わない――短い会話のなかでアメリアは、相手の人格が自分と徹底的にそりが合わないことを理解した。

 そもそもが幼い時から泥を啜るような人生を送ってきたのだ。

 学校すらまともに通っていない。

 自分に比べて向かいの女はどうだ。

 ひとつひとつの仕草は洗練され、言葉遣いも、話し方も、整った身なりでさえ、いまの自分には持ち得ないものだ。

 汚れきった暗所をおっかなびっくり歩いてきたアメリアと、エリート街道を高めのヒールを履いて悠然と歩いてきたであろう亜麻色髪の女とでは、まさに太陽と月。光と闇の絶対差があった。


 それでも――アメリアは口許をニヒルに歪め、

「ミスじゃない。裏切られたんだ。私の持つ情報を恐れた連中にね」

 それはプロとしての矜持でもなんでもなく、仮面だけの威勢であることは彼女自身も重々承知していた。こんな鎖がなければ、いますぐに眼前の女の細首をへし折ってやるのに。そこに躊躇はないのは確かだ。クソめ。

 アメリアの堂に入った態度を見て、女は何かしら考え込む仕草をした。それから、すぐに興味の失せた顔になり、再び資料へと顔を向ける。

 女の態度に、アメリアは皮肉気に唇を歪ませた。

「あんたたちも私を怖がってる」

「それこそまさか。我々はね、あなたが想像も及ばない世界で戦ってるのですよ」

「世界とは大きく出たね」

 嘲るように、アメリアが鼻を鳴らす。

「ネオナチのキ印特有の誇大思考ってやつ?」

「惜しい。PtEB手術の基になった理論自体は旧ナチス・ドイツで生まれたものですが」

「ネオナチじゃないなら、あんたたちは一体なんなのよ」

「我々を語る前に、少しばかり歴史の話をしましょう」

 女は舌で唇を湿らせた。

「19世紀末、当国の政治家セシル・ローズによって、イギリス王室に忠実なビジネス・リーダーを養成する秘密結社が作られました。俗に言う『300人委員会』です」

「それ、眉つばって話でしょ」

「いいえ、確かに存在していました。イギリス東インド会社の陰謀やらフリーメイソンやら……下らない尾ひれが出回っていますが」

「それで? それがなんだっていうのよ」

「〝権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する〟……この言葉を?」

「マキュアヴェッリ……いや、アクトン?」

「後者で正解です。『300人委員会』とは、とどのつまり受益の保護を目的とする貴族連合の総称なのですよ。そして、その影響力は国家の政治中枢にも及ぶほどだった」

 結社の勢力は途方もないほど大きかった。陰謀論が常に付きまとい、歴史研究家の間では、南アフリカに眠る莫大な鉱物資源、ゴールドやダイヤモンドを得るためにボーア戦争を仕掛けたという話もあるほどだ。

 女の話は続く。

「当時の陛下は、貴族連合による〝国家の掻き回し〟を危惧しました。利潤を啜る貴族たちの暴走が、目に余るようになったからですね」

 その話ぶりは、まるで高校の歴史教師のように滑らかで、

「そこで、国家の暗部に巣食う病巣を駆除するために生まれたのが、『外交』『国防』『技術』の三分野において、専制的な権限を有した三つの独立機関です」


 病巣の駆除――自分が殺した人間も、社会の病巣とやらだったのだろうか。癌細胞の治療法が肉体からの切除であるように、死んでいった人間たちもまた、社会構造から消されなければならないほどの病巣だったのだろうか。

 アメリアは思考する。

 いままで、そういう風に考えた事はなかった。

 送られた暗殺予定者のプロフィールを記憶して、相手の真後ろに忍び寄り、殺す。心臓の鼓動が消失するのを確認して、さよならばいばい。翌日の朝刊一面に載った、暗殺予定者だった人間の顔写真を眺めながら、コーヒーとドーナツと煙草で一服して仕事終了。

 ターゲットとなった人間が、なぜ殺されなければならなかったのか自分は知らない。そういった死者の事情を胃の腑に収めることなく、与えられた仕事を粛々とこなす日々。暴力と、血の蝸牛と、燻る硝煙と、コーヒーとドーナツと煙草の日々。人生。

 相手のバックボーンは想像しない。殺した相手の人生が染みとなって、自分の人生にこびりつくのだけは御免だったから。

「一世紀以上もの間、それぞれの機関は国家の為に働き、また、病巣を取り除く過程で、その本質や構造の変質も起こりました。当然ながら、我々もね」

 死の螺旋。生の実感を得るために築いた死者の渦。

 殺して殺して、また殺して。最後には裏切られて。

 アメリアの頭の中で、黒く濁った考えが渦巻いた。


「我々は、〝功利主義〟という偽装的な言葉で〝現代化〟を図った、『技術』の理念を受け継いだ組織というわけです」

「じゃあ、私の頭蓋骨をかっ開いて脳みそをイジったのは、あんたらにとって善に傾いた行為だってわけだ」

 咄嗟に口をついて出た皮肉にも、女はいっさい動じなかった。

「我々『技術』が開発した〝PtEB手術〟は、次世代国家戦略の骨子となる可能性を秘めた雛形なのです。そして、このプログラムは政府のバックアップのもと、莫大な資金が注ぎ込まれている」

「私をスカウトした理由を言いなさいよ」

「『技術』を巡る戦争が起きているのですよ。決して表舞台には上がらない、闇から闇に葬られる戦いがね」

「あんたらがこさえた糞溜めの後処理をしろってか?」

「世間は何事も適材適所。あなたの能力に見合った仕事をあてがおうというだけの話ですよ」

 女は分厚い資料を閉じた。

「ルーマニアの焼かれた村について話しましょうか」

「なに?」

 唐突に切り替わった話題にアメリアは戸惑った。

「あなたの出自ですよ。旧モルダビア・ソビエト社会主義共和国。幼年期に故郷の村を所属不明の武装勢力に襲撃され、」

「なんでお前が知ってる」

 荒げた声が女の言葉を遮る。

 アメリアの瞳には赫怒の炎が宿っていた。それは終末の光景。灼熱の炎に燃える、かつての理想郷――がらんどうの闇。

 いまにも飛び掛かりそうなアメリアを制したのは、椅子から伸びた胴体拘束具の鎖だ。甲高い金属音が鳴った。絞め上げる拘束の苦痛を屁ともせずに、身を包むジュート繊維が千切れそうなほど喰ってかかったアメリアを見て、亜麻色髪の女は初めて笑みを浮かべた。

「以降、各地域を転々とし、時には国境を跨いで暮らす。最初に入った『施設』は僅か五ヶ月で脱走していますね。職員から性的虐待でも受けましたか?」

「連中は〝男のプライド〟しか頭にないケダモノだ」

 アメリアが鼻で笑った。

「あなたみたいなのは何人か知っています。大概、そういった『施設』では〝意欲〟と〝従順〟さが求められることも」

「………」

「あなたが『施設』の職員を殺していることも知っています。()は犬の首輪を少女につける趣味があった」

「それ以上、口を開いたらお前を殺してやる」

「〝女は人間ではない。男がいなければ価値を見いだせない家畜以下の存在〟……なかなかにユニークな標語だこと。現代文明の闇ですね」

「………」

「そういえば、あなたは殺しの際に女の武器を使わないとか。ひょっとして男性にトラウマでもある?」


「――」


 その言葉が鼓膜に触れた途端、アメリアの全身が総毛立った。

 砕き割れんほどに噛みしだいた歯の隙間から血が滲み、体の芯から、殺意の塊が溢れ出していく。

 アメリアは自分自身について、ただしく殺し道具だと自覚している。生き延びるために殺人を犯すのであって、その殺人ルーティンの連なりのなかに、曖昧な言葉による殺意の虚構がないことも認識している。大義だとか、愛国心だとか、家族愛だとか、ましてや報酬のためといった、高尚な動機は含まれていないことを。

 鎖に繋がれた獰猛な殺人獣、それがアメリアだった。

 この高慢ちきなオフィスレディは、自分を侮った。グロテスクな世界を渡り歩いてきた自分の存在理由(レゾン・デートル)に、ズケズケと無遠慮に踏み入ったのだ。

 白い視界が真っ赤に染まった気がした。

 名状しがたい感覚が荒れ狂う。

 それは純粋な怒り。過去の記憶の底に沈殿していた(おり)を、その瀟洒なヒールの踵底で、無遠慮に巻き上げられた怒りだった。

 視線だけで殺しかねないほど、いま、アメリアの瞳には狂気が宿り――それに呼応するかのように、突如、紫の燐光を纏った電気の線が、蜘蛛の巣を張るようにアメリアの全身から放射状に伸びた。

 亜麻色髪の女が、息を呑むのが感覚でわかった。

 紫電は塊となって部屋中に四散し、照明が天井のパネルごと爆ぜた。室内は暗闇に包まれ、しかし、すぐさま予備光源として設えられた非常灯の赤い光が部屋に照射されていく。

 一瞬の明滅のすきに逃げ出したのだろう、観察病室にはいまや、アメリアただひとりだけが残された。面談の事前に、実験エプロンを着た医者どもに貼られた頭部を覆うパッチシールは、そのすべてがはじけ飛んでいる。

 ショッキングな流れのなかでも、アメリアは沈着だった。

 唐突に現前したもやの波。ある種の幻想美を備えた、もやの波。さながら、祭りで食べたわたあめに光を差したような揺らぎの塊り。

 アメリアはこれを知っていた。使い方を知っていた。

 やることは単純。思いきり引っ張るだけだ。あのイケすかない女の腕から伸びた『糸』を。それだけでこいつを■■せられる。頭蓋の内壁に接した前頭葉がそそけ立つ感覚――上等だ、ひと泡吹かせてやろうじゃないか。

 その時だった。

 転瞬の間、全身の皮膚が焼けつくような痛み。悲鳴。

 床下から襲ったサージ電流は、アメリアの意識を一瞬で奪うのに充分な威力で。非常灯の赤い光が部屋全体を通ったときには、哀れなアメリアの無力化はすでに終わっていた。




「こんなことが、まさか。実験プロトコルは術後初期の亜段階だというのに、すでに磁界操作能力を使ってみせるなんて……」

 貴婦人然とした声調で老婆が呟く。別室にて、モニター越しに実験室の様子を観察していたアンドレア・アスターは、歓喜の表情を隠そうともせずに監視カメラが捉える映像に見入っていた。

 モニターを見つめるのはアンドレアだけではない。あらゆる角度からの映像を流すモニタールームには、科学者めいた姿恰好の男女が何人も入り乱れていた。その全員が忙しなく身体を動かし、先程起きた現象の解析作業に取り組んでいる。

 その中に一際異彩を放つ男がいた。一人、喧騒から離れた壁際で煙草の煙を(くゆ)らせている壮年の男だ。白衣がデフォルトとなっているこの場において、上下のダークスーツを着込んだその男は、白生地に零れたコーヒーの染みのように浮いていた。

 慌ただしく観測装置が唸りを上げるなか、男が低い声で老婆に訊ねた。

「どこでこの女を拾った?」

「その辺はいろいろ事情があるのよ。前々からマークしてたんだけどね」

「東欧の辺境出身だと適正があるとは言わんよな」

「言わないわ。それこそ〝神のみぞ知る〟よ」

「神に嫌われてそうだけどな」

 男が苦笑した。

 アンドレアは男の方を眇め見て、つまらなそうに目を細めた。

「私たちは彼女の足取りを辿っただけ。ただね、このアメリア・クラスは暗殺屋(トリガー)として活動していた過去に特脳に似たことを再現しているの」

「電磁界の拡散か」

「先程のものより小規模なやつをね。彼女はひょっとしたら、生まれながらに適合因子を持っているのかもしれない」

「確かに逸材だわな。術前テストをクリアした者でさえ、〝PtEB手術〟が確保した成功率は二割弱。それを考えたら、アメリア・クラスは神の落とし子つっても過言じゃない」

「あるいは、どん底から這い上がる遺伝子が体に流れてるのかも」

 男は、老婆の戯言(ファニージョーク)を鼻で笑った。男の不遜な態度にも、アンドレアは妖艶な笑みを崩さない。

「どう? 眼鏡に適ったかしら。大尉」

「……いいぜ、こいつをチームに加える。あと、階級名で呼ぶな」

 再度、鼻を鳴らして不機嫌そうにアダム・フィンチは紫煙を吐いた。


 フィンチが吸いさしの煙草を灰皿に押し付けると同時に、モニタールームの扉が勢いよく開く。中にずかずかと足を踏み入れるのは、今し方までアメリアと相対していた亜麻色の髪に黒縁眼鏡を鼻に乗せた若い女だ。

「あら、おかえりなさい。いい煽りだったわよ」

 アンドレアは悠長に声を掛けるも、普段の悠然とした様子とは違い、額に大粒の汗を浮かばせた部下の表情に驚き、訊ねた。

「ロレッタ? どうしたの?」

「局長……これを」

 そう言って、ロレッタは自身の右手を見せた。その有様を見て、アメリアの力を考察していた二人は絶句することになる。

 右手人差し指及び中指が奇妙なほどに、手の甲側に仰け反っているのだ。基節――第二関節と指の付け根の間からぽきりと折れてしまったように。

「おいおい……それどうなってんだ」

「折れてます。見ればわかるでしょう」

 痛みが走るのか、ロレッタは飄々と問いかけるフィンチに、苛立たしげに答えた。驚愕の表情から喜色満面の笑みに移り変わったのはアンドレアだ。部下を労わるのも忘れて、若干紫色に染まりつつあるロレッタの右手をしげしげと眺める。

「……素晴らしい。プログラムを完了しない内に第二フェーズを発現したというの? しかし、いや、改善手術による脳領域の侵襲リソースに、あらかじめ耐性免疫が保有されていたとしたら。ネクローシスが起こらなかった時点で気付くべきだったけど、これは学際的なデータから参照してもありえないことではない……」

 口元をしわの刻まれた手で覆い、思考の海に潜ったアンドレアを放って、フィンチはモニターへと眼をやった。

 力なく項垂れる青年期の女。肌は色素が不足しているのかと思うほど白い。術前の資料写真ではアメリアの髪色は黒オリーブのように艶やかで、黒々とした頭髪と何物にも染まらない白肌は、さぞや目を引くツートーンになるだろう、とフィンチは思った。

「決めたぜ、ばあさん」

「だとして彼女の変性意識状態がダイレクトに働くとしても……ん、呼んだかしら」

「こいつの新しい名前だ」

「ああ、〝アメリア・クラス〟はもう存在しないことになるわね。で、なに?」

「〝グウェン(純白)〟だ。暗闇を生き抜いたこいつには相応しい名前だろうよ」

「そう……そうね。ふふ、皮肉が効いてていいかもね」

 アンドレアは上品な笑い声を上げて、モニターの向こう側で眠るアメリアに囁くように言った。

「ようこそ、〈宇宙開発医学実験機構〉へ。歓迎するわ、グウェン」


        ◇


 船の野太い警笛が壁越しに響いた。

 潮の臭いと鉄錆びの生えた狭い船室で、グウェンはゆっくりと過去の追憶から意識を復帰させていった。

 薄汚れた(ほこり)色のシーツに木張りのベッド。ボンネルコイル・マットレスなど気の利いたものではなく、硬い素材そのままに組み立てられた寝床のおかげで最悪の寝心地だった。

 なにしろ、波の揺らぎをそのままダイレクトに、背中越しから受けるのだ。

 疲弊した身体にはたまったもんじゃない。

 目覚めと同時に襲い来る、酩酊にも似た脳の麻痺状態を活性化すべく、グウェンは軽く頭を振って、身体を覚醒させていく。

 ふと、船員たちが外で慌ただしく動き回るのを感じた。

 随分長いこと眠りに落ちていたらしい。港湾はすぐそこまで近付いているようだった。ひとつ伸びをすると、色褪せた壁とベッドの繋ぎ目についた鉄錆びののたくりを指ですっと撫でた。

 それから、思い出したように、申し訳程度に設えられた壁棚から煙草――こんがりと肌焼けした若い水夫から頂戴したものを手に取り、一本咥え、マッチで火を点した。

 紅茶味のフレーバーが染み込んだ紫煙を肺の中で、たっぷりと踊らせ、ゆっくりと吐き出していく。

 昨日(・・)の悪夢ほどではないが、今朝(・・)もまたなんとも夢見の悪いことだった。過去から現在に渡ってなんて。記憶旅行を予約した覚えはないってのに、くそったれめ。

 プログラム(改善手術)を受けてからだ。以前にも増して、悪夢を見る頻度がぐんと上がったのは。訳が分からないのは、悪夢に登場する死体の数に変化があったことだ。

 以前の夢に登場する死体はふたつ。山口近くのバンガローに住むマイルストーン親子――雪道の上で腹腔を轢き潰された老婆の死体と、全身に銃弾を浴びて眠る息子の死体――そのふたつだけ。

 だとするならば、これはいったいなんのジョークだってんだ? 自分はあの時、すでに逃げていたのだ――村から――襲撃が発生する前に。だからこそ、あの地獄から生き延びれたのだし、いや、そもそも自分は地獄そのものを見ていないはずなのだ。あの虐殺の光景を。だったら……なんでその光景の記憶があるんだ?

 喉を切り裂かれたパン屋のベルティーニおじさんを。

 教会前で銃火を一斉に受けた猟師、老人たちを。

 豚小屋に押し込まれて焼き殺された母親を。

 自分が視た光景と記憶が喚起する光景。それらを素に構成された夢。そこには矛盾と齟齬があった。


 村を離れて湖畔に向かう道中で、私はマイルストーン婆さんと息子のペトルおじさんが殺されている場面に出くわした。私はもと来た道を振り返り、村から火の手が上がるのを見る。そこから先の続きが矛盾だ。8mm映写機が白飛びしたみたいに場面が転換し、次の瞬間には私は村にいた。

 村は黒づくめの兵士に襲われていた。そこらじゅうで炎が噴いていて、瓦礫の山から真っ黒な煙が昇っていく。そこで私は、実際に視ていないはずの虐殺の光景を眺めている。好きだった人たちが虫けらみたいに殺されていく様を。そして、私は夢のとおりに彼らが死んでいることを知っている。これこそが齟齬だ。視ていないのに知っていて、事実だと確信しているのだから。

 まるで、他人の悪夢を体験しているようだった。喩えるなら、SF映画『ダークシティ』の〝記憶の素〟をつかった人格実験に似てるはずだ。映画の中で、街の真実に気付いたために頭のおかしくなった刑事はこう言った。

(人々の記憶を奪って、それを絵の具のように適当に混ぜて、また人々に注射し――みんな訳が分からなくなる)

 プログラム……〝PtEB手術〟も似たようなものなのかもしれない。プログラムの内容は機構の秘匿コードで包み隠されている。与えられた権限レベルでは、実験プロトコルの確認がせいぜいだ。

 夢の続きに思考を馳せる。夢の中で私はとにかく走っていた、湖畔の番屋に向かって。積もった雪を踏みしめ、行く手を阻む草木をかきわけて走っていく。

 番屋は無人だった。

 番屋には私がいた。

 私は安堵の息を漏らし、黒づくめの男に背後から襲われた。

 私はキャビネットの折れ戸の隙間から、それを眺めていた。

 私は死を意識し、姉妹を呪った。

 私は息を殺し、姉妹を見捨てた。

 私の脳が視るものは(・・・・・・・・・)紛れもない現実で(・・・・・・・・)


 煙草の吸いさし手前まで迫った灰に、グウェンははたと気付いた。まただ、クソ。いつもそうだ。気付くとそれはやってくる。

 狂った記憶がフラッシュバック、自我を熔かそうと襲い来る。

 コバルトブルーの瞳。仄暗い星空。銃撃の音色。

 グウェンは頭を振った。

 思い出してはいけない。

 あのおぞましさを。

 あの恐ろしさを。

 あの裏切りを。


 既に壁時計の針は正午近くを指していた。

 ビスでぐるりと囲まれた丸い船室窓から、暖かな陽気が射しこんでいる。流れ込む日差しに軽く手をかざし、肌から伝わる穏やかな感触に暫しの間、目を閉じ、浸る。

 もう一度、紫煙を身体に巡らせる。

 驚くほどに密度の濃い一日だった。

 過去の悪夢を夢に見てから、『昨日』を乗り切ったのだ。自分でもジンクスに近いとは考えている。それでも、『今日』を迎えるために『昨日』を乗り越えたのだ。

 それだけでいまは十分だった。

 帰ったら鉛色の遮光カーテンを取り換えよう。最後に悪夢の原因と思しき「五ポンドで買ったシャッター」を捨てることだけを考え、吸いさしの煙草を壁に押し付けて消す。

 潮の臭いと紅茶フレーバーの香りが入り混じった狭い船室で、グウェンはシーツに身を(くる)み、身体を丸めて膝に顔を埋めた。

 外の世界を恐れる子供のように――じっと、じっと。

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