027 陽が明けて
点滴チューブの管が肌を突っ張った。左腕に繋がれたチューブから、臙脂色の液体が血管内に注がれていく。アンゴスチュラ・ビターズを数滴垂らしたジン・トニックと同じ色だ。
いい気持ちだろう――ぼやけた視界内で、男が嗤って言う。
ダクトから排気された熱風が、剥き出しになった疵口に障った。
電気ブラシが身体に触れる。灼熱の奔流が全身を駆け抜ける。絶叫を鼓膜が捉えた。誰の声だ? 豚みたいな声だ。
この拷問法をオレはよく知っていた。メジャーなやり口で、軍の特殊部隊やCIAのパラミリが、アフガンやイラクで捕らえた武装ゲリラから情報を引き出す際に好んで使う手だ。
無理やり通電させられた皮膚が豆電球のフィラメントみたいにオレンジ色に熱発光し、数秒後には黒ずんだ焦げ跡になっていく。
舞い上がった飴色の金属粉が舌に触れた。
そこでようやく、豚の悲鳴を上げてるのは自分だと気付いた。
0秒間隔で襲い来る痛みに、喉奥がほとばしる。
オレはどこにいる。ここはどこだ?
洗濯機だ。壁一面に押し並べられた洗濯機が、轟然と唸っている。それはものすごい音で、耳を塞ごうにも腕が動かない。
シーツだ。部屋一面に吊るされたシーツが、躍動感たっぷりに踊っている。妙な揺れ方で、やがて、布地の表面がせり上がって獣の貌をかたどった。
死が具体的な形を持って現れたのだと思った。
シーツを食い破って出てきたのは、黒犬だった。大きな体躯に、死の気配を纏った毛並み。血の滴る口膣から覗く犬牙。黒犬は悠然とした足取りで、オレの周りを歩き始めた。オレの命脈が尽きるのをまっているのだ。
黒犬の口元が歪んだ。肉を切り裂くのに適した鋭利な臼歯から、どろりと涎がつたって落ちた。獣らしい残酷な笑みだった。
オレの目に火の粉が映る。
気付けば、眼前で嗤っていた男の姿は綺麗さっぱり無くなっていた。洗濯機のごんごんとうるさい音も、いつの間にやら遠ざかって消えていた。
周囲を囲むシーツは、純白のそれからドス黒い血染めへと変化していて、いまや、暗闇に閉ざされた世界で火元となっているのはオレの身体であった。皮下脂肪が熱せられると、人間の皮膚は炙った鶏皮みたいにぱりぱりになるのを知っているが、無情にもオレの肉体は焼け焦げていく練炭でしかなかった。
くすぶった熱が皮膚を焦がし、肉汁を滴らせ、頭に燃え移った火が髪を熔かし、おぞましい臭気を放つ。
炎を振り払おうとしても、ぎちぎちに固定された手足ではどうすることもできず、時間が経ち炎の勢いが増すにつれ、熱せられた筋肉や頭蓋骨や四肢の関節が収縮していって、手折れそうなほどに細まっていった。
喉を震わせた獣の唸り声。
血染めのシーツから、死の気配を纏った黒犬が次々と飛び出した。燃え盛る炎など、奴らにとっては恐れるに足らない。ぱっくりと分かれた上下の顎にびっしり生え揃ったナイフのような牙が、オレの脛に突き立った。
喉から悲鳴が漏れる。
後ろから衝撃。二匹目の牙が肩口を捕らえていた。炎に撒かれても、黒犬たちはお構いなしだった。三匹目、四匹目、五匹目……眼を爛々とさせた猛獣たちが、憐れな男の全身を貪っていく。
腹腔から零れたピンク色の臓腑を咥えて、黒犬が走りだす。まるで綱引きだ。腹に収まっていた小腸やらなんやらが、ズルズルと引っ張り出されていく。
どうだ、うまいか。いい感じにウェルダンだろう。健康に気遣ったオレの肉はジューシーだろう。煙草もドラッグもやらないA5等級の肉なのだから。食うんなら喧嘩しないで仲良く食え。平和的に、分けあって。ご馳走はまだたくさん残ってるぞ……
鼻息荒く肉を咀嚼する黒犬たちに声をかける。肩口をしゃぶっていた奴が、一声鳴き、顔面に喰らいつく。
自己の喪失。崩壊、虚脱。死臭、乖離……
顔面に牙を突き立て、忘我の境で悶える黒犬の吐息を感じながら、唐突にオレは理解した――いま、食われているのは自分自身の魂なのだということを。黒犬たちは死の使い。憐れな魂を地獄の淵に追いやろうと、仮借なき罰を下そうと、その牙を剥く。
ファイア、フラッシュ、スキール、スパーク……
頭蓋がひび割れた音を立てた。脳の襞にねっとりとした黒犬の舌先が触れたところで、視界が暗転。全ての感覚を置き去りにして、意識だけが宙を漂う。そこは深淵、暗黒世界。死の色に塗り潰された場所。ノイズ。混濁した意識が時間の彼方へと熔けていく。
自我が消滅する、ほんの一瞬手前。
世界を奔る紫電の煌めきがあった。
昨日の土砂降りが嘘のように止み、代わりに雲の隙間から燦々と照った太陽が顔をのぞかせていた。部屋にこだまするのは心電図測定装置の電子音と、こまごまとした小さな物音だけ。はるか遠くやってきたであろう穏やかな風が窓から吹き寄せ、室内の乾いた空気を循環させる。
鼻から喉を通り気道を刺激させるシンナー臭に、健やかな眠りについていたテッドは盛大にむせた。咳をして、また空気を吸い込むごとに狭い空間に充満した臭気が肺に満ちていくのを感じ取って、眠気が残るのを我慢したテッドは臭いの原因を探るべく、腫れぼったい目を開けた。
原因はすぐに分かった。
「おい……豚クン。何してる」
自分でもびっくりするぐらい声が掠れていた。
舌で口内をなぞると、自慢の歯並びにいくつもの空白があることにショックを受ける。傷はまだ癒えてない。唾液に混じって鉄の味がした。
あのイカれたランドリールームから助け出されたのは覚えているが、声が老けこむほど、たんまりと痛めつけられたようだ。全身にギプスと包帯が巻かれている。きっといまの自分の姿は酷く滑稽なものだ、とテッドは思った。
それよりも最優先の問題は、空気を現在進行形で汚しているこいつ。テッドが占領するベッドの、すぐ隣に坐っているミルトンだ。
銀縁のサングラスを頭に乗せ、ピンク髪のアニメキャラがプリントされたTシャツに白いブリーフ一丁姿。いかにもな珍獣スタイルの肥満体型が、突然声を掛けられたことに驚愕も露わといった様子で跳ねた。
でっぷりした腹で、横に引き伸ばされた魔法少女ルックなキャラプリントが、ぶるるんと縦に震える。
ミルトンは眼鏡を外すと素っ頓狂な声を上げた。
「うおっ生きてた!」
「そりゃ、生きてんだろおまえ」
体は金縛りにあったみたいだ。唯一、動かせる首を捻ってミルトンを見据えた。
「これ……なに打ってんだ」
右腕の静脈に繋がった点滴。チューブを通る琥珀色の液体を見て、不安げな眼差しをミルトンに向ける。
「あんた、覚せい剤打たれて拷問されたんだよ。すぐに死なないようにね。だから、脳内のエンドルフィンを中和させるために、食塩水で薄めた合成エフェドリンを点滴してんのさ」
鼻息荒くミルトンが言った。
「まったく生きてるのが不思議だよ。医学誌に投降モノだね!」
「ここは?」
「ウチさ。昨日遅くに運び込まれたんだ。手当てはばばあがやった。もう起きるとかどんな体だよ、ネットで見たグロ画像みたいになってたのに」
そう言われてテッドは室内を見渡した。部屋の趣は病院の暗い無趣味なものではなく、それとは真逆の少女趣味を全開にして突っ走ったものだった。
「血まみれのあんたを見て、ばばあびっくらこいてさ。メス握んの一〇年ぶりだってはりきってたぜ」
ミルトンが国際手配のかかったクラッカー、そしてウィルは免許から社会保障番号まで何でもござれの偽造屋ときて、アビーはフランスでコサルカマフィア相手の闇医者を営んでいた過去がある。
「のどが痛い。水をくれ」
「ほい」
ストローつきのマックシェイクをさし出す。知らずに飲んだテッドは再度むせた。
「てめっ、粘膜がからんで、てめっ」
「あ、ごめん。これ僕のだ」
「もういいからアビーと代われ!」
「ばばあは教会のチャリティ食事会。じじいはなんか車いじってる。燃焼室が熱くなってノッキングがなんたら。で、僕が看病を頼まれたんだよ」
「で、いくら」
「新作ゲーム一本」
ぶっきらぼうに答え、ミルトンは机に向き直り手のひら大のフィギュアの塗装を再開した。臭いのもとは瓶詰めされた塗料だ。普段キーボードがある位置には方眼マスの入ったカッターマット。ディスプレイの代わりにカラフルな小瓶がオーケストラのように並んでいる。
「くせーから外でやれよ……」
「もう作業始めちゃったから無理」
「それなにしてんの」
ペーパーバックほどの面積の乾燥台に何本もの木串が刺さっており、その先端には奇妙なことに分解された人形のパーツがくっ付いている。バラバラ殺人、もしくはバビロンの串刺しの丘だ。
それをにやけヅラで手にとって弄ってるものだから、ミルトンの前頭葉には宇宙人に埋め込まれたシリコンチップがあると言われても、いまのテッドなら一〇〇パーセント信じるだろう。
「あ、興味ある? 意外だなーあんたってアメリカかぶれなのかと思ってたけど、まぁ人って複雑だからね。まともな奴ほどヤバい趣味を持ってるのが世の常ってもんだね」
「後半は激しく同意だがな……あいにくオレは大人なんでね」
「あ! それって差別だぜ! ジャパンとか見てみろよ。三〇超えた奴が日曜の幼児向けアニメで興奮すんだぞ。連中に比べたら僕なんてまだまださ!」
「おまえは十分ヤバいよ」
そういえば、と大腿から切り離された足にエアブラシを薄く吹き付けていたミルトンが口を開いた。
「フィンチから伝言。ランダとかいう人から電話があったとか何とか」
串に刺さった手羽足にムラができないよう、器用に指を擦って回転させながら告げた。
「電話……オレの携帯どこだ?」
「さぁここにはないけど」
「ああそうだ、あー、あん時……しゃあない、家電貸してくれ」
ミルトンから借り受けた子機に〈クラブ・ラヴ・ポイズン〉の番号を思い出しながら打ち込んでいく。正規の店舗番号ではなく、業者直通の番号で以前教わったものだ。
数秒のビジートーンの後、甲高い男の声が返ってきた。
「テッドだけど。ランダか?」
『あぁん! もう、心配したんだからもう! 体は平気なの?』
「当分は瞑想生活だ」
『ほんとごめんなさいね』
「あん? なんのこと」
『……ボスに代わるわ』
急な謝罪に変な顔をしていたのだろう、不思議そうな顔でミルトンがこちらに顔を向けていた。
『あーあー、ハロゥテディボーイ。お加減はいかが』
受話器からキンキンと黄色い声。
プリティヘッドの高調子な声音がテッドの鼓膜を揺さぶる。
「最悪だ。それより何か言いたいことがあるんじゃないのか」
『そのことなんだけれど……プエルって子覚えてるかしら』
どこかで耳にした名前だ。ポリネックで固定された首を、許容値いっぱいまで曲げて思考に埋没する。脳裏に浮かぶ、ドレスを着こなしたマッチョたちの姿。その内の一人が可愛らしく首を傾げた。
「確か、ロシア人のことで部屋に呼び出した奴だよな」
テッドは昨日の記憶から、プエル何某の顔を思い出す。心のどこかにあの不愉快な目つきが残っていたのだろう。
『そう。その子がね、あなたをロシア人に売った』
「……」
『本当に申し訳ないわ。最近うちの情報網を漁ってるやつがいるって話したでしょ? 一度うちの従業員全員分の口座を調べて発覚したんだけど、プエルったらあなたのことを一般の客だと勘違いしてて……ホント馬鹿な子』
プリティヘッドは残念そうな口調で、
『記者と組んで顧客をゆするなんて、本当にデリカシーがないわ』
納得はいった。あの変態御用達のクラブで情報を買ってから、こちらの位置情報を突き止められるまでの時間があまりにも速かったからだ。FBIでもこうはいくまい。その点、プエルから連絡を受ければすぐにでも駆けつけることができる。
『直接謝らせたいのだけど、プエルはもう土の中だから……ごめんなさいね』
「死んだのならいいさ。死人にできることはない」
『そう言ってくれるとありがたいわ。いずれ、しかるべき形で痛みの代金を払わせてもらうね』
「なあ、お前さ、アイルランド人の殺し屋――雇ったことあるだろ」
直感で言ってみたのだが、
『バレちゃった?』プリティヘッドは悪びれることなく、『例の児童買春の捜査網がこっちに飛び火したら困るからね。先手を打ったのよ。そこへ、あなたが来たでしょ? 何事かと勘繰っちゃった。でも、知りたい情報はすべて伝えたはずよ』
「確かにな……」
知ったところで結果は変わらなかっただろう。
プリティヘッドとの通話を終える。
天井に目を彷徨わせる。
何故だかは知らないが、深い溜息が出た。
「なぁミルトン」
「なんだい」
「膀胱がやばいんだ。尿瓶、頼むわ」
ミルトンは盛大に咳き込んだ。
「ふっざけんなよ! 何が楽しくて野郎の下の世話なんざ!」
「頼むぜ。それともこの部屋にアンモニア臭を放ってやろうか」
「冗談じゃないよ、バイトなんか受けるんじゃなかった」
「惨めなのはオレだぞ。いいからやってくれそろそろヤバいフィギュアなんていつでも作れるじゃないか」
「本当は昨日取り組む予定だったんだよ! なのにグウェンたちが押し掛けていろいろばれて、銀行やら警察やら航空会社やらにひたすらハッキング仕掛けて! これで無給なんだから激おこだよ!」
顔を紅潮させながら、ミルトンが興奮して声高に言い募る。
太ったイケメンは本当に残念だなと、テッドは憐憫の情がわいた。
「航空会社?」
「派手にやらかす前準備だぜ!」
ミルトンから今朝までの出来事を聞く。何やら知らないが当面の問題はすべて片付いたらしい。今回ほとんど役に立たなかったどころか、ミルトンにまで借りを作ってしまったことにテッドは珍しく落ち込んだ。
尿瓶騒ぎはアビーが帰ってくるまで続き、結局彼女が下の処理をした。警官二名の死体が牛舎の肥溜めから見つかったことをニュースで知るのは、それから三〇分後のことで、ミルトンの頭に乗ったサングラスのつるに『Peace』の金刺繍が入っていることに気付くのは、さらにずっと後のことだった。




