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025 悪の仕組み

 ある神学者が言った。

〝人生はコーヒーに例えることができる〟と。

 七〇億もの人生というコーヒーが、同数の人間の手により、さまざまな味付けを施されていく。砂糖を入れて甘く、コーヒーフレッシュを混ぜてマイルドに、なにも加えず渋い味付けを愉しんでもいい。好みの味付けを目指して、人間は各々の人生を旅するのだ。

 人生がコーヒーなら、運命はカップに例えるといい。

 人生を支えるのは運命だ。カップが割れてしまえば中身も無くなってしまう。運命は赤子が生まれるよりも前に神に定められる。それは形を変えることができず、人間は黙して、運命という器に己が人生を満たすほかないのだ。

 注意してほしいのは、カップの中身を啜るまではそれがどのような味なのかは誰にもわからないということ。黒々とした液面から中身の底まで覗くことはできず、それが舌の上を通り、喉元を過ぎた際の感覚を想像するほかない。

 重要なのは真っ黒な液面に、たった一滴。純白のミルクを落とすだけで、カップに入った黒い液体の本質を丸ごと変えてしまうこと。

 たった一滴。

 問題はミルクの成分だ。

 コーヒーを調合する過程に、うんと凝縮された悪意を小さじ一杯垂らしたらどうなるか。誰にも気付かれることなく、液面の色も香りも違和感がないほどの悪意を。

『〈ナゲータ航空〉です』

「顧客番号2895771だ」

『ご用件をどうぞ』

「頼みがあるんだが――」

 悪意はコーヒー全体を侵し、やがて、運命を司るカップにまで染みとして浸みこんでいくのだ。

 想像するがいい。

 世界の本質を見抜くには想像力が必要だ。誰よりも卓越し、一の切っ掛けから、一〇の全体像を描けるだけの想像力が必要だ。注意深く、染みの一片まで見渡して、ようやくあなたは世界と渡り合えるのだ。




 高度三〇〇〇〇フィート上空は人間にとって死の領域だ。

 仮にだ。現在よりもさらに科学が進化し、新しい量子理論が誕生したとしよう。夢の近未来が実現し、物体のテレポーテーションが可能になったと仮定して、地上の人間を遥か雲の上まで送るとする。

 送り先の目的地にあるのは清冽な大気。

 人間の眼では視認できない激しい気流。

 マイナス四〇°を超える絶対死の外気。

 そんな場所に何の装備も持たず放り出されたら、三~四秒後には酸素不足で極度の呼吸困難に陥いり、酸欠状態となった脳がすぐに意識のスイッチを切るだろう。皮膚、眼球、指先といった脆い体表組織は瞬時に凍りつき、極限状態に置かれたストレスで神経系は間違いなく狂う。血圧も脈拍も正常に維持できなくなってしまう。

 無数の星々が見せる輝きのなか、地球上もっとも幻想的で、もっとも過酷な理想郷において、地上を制した人間はあっけなく死んでしまうのだ。


 天空には透明な星光のまたたき。足元に敷き詰められた白い雲の絨毯からは、時折、思い出したかのように雲放電の明りが(とも)る。

 機内が揺れた。

 乱気流の流れが機体とぶつかったのだ。

 大気の壁と時速八〇〇キロの鋼鉄がせめぎ合う。

 不気味な振動がステファンの靴裏を小刻みにノックした。

 M&A統括責任者の地位を持ち、ローテック・バイオテックグループ常務取締役である彼は昼間の苛立った様子とは打って変わり、オペラハウスの役者じみた口ぶりで手に持つ機内電話に語りかけた。

「逃げたなど、そんな言い方はよしてくれよ。君らしくもない」

 あたかもそれは、口から発せられる濁声を美声に聞かせようという口調だった。

「それは違う。私は彼ら(・・)から打診を受けただけさ。米国に向かう手筈を整えたのも、法の薔薇を使ったのも、いっさい私には関係のないことだ」

 受話器から男の金切り声が返ってくる。

 ステファンはやれやれと肩をすくめ、一〇センチほど受話器を耳から離すと、息継ぎもなしに続く罵声を聞き流すかのように、目の前の引き出し式シートテーブルに置かれたワイングラスに口を付けた。

「君の考えなど知るものか。これはビジネスだ。私は私の、君は君の仕事をするべきなんだ……ともかく、私はグリーンBI社に説明責任を果たすだけだ。ロシア人には〝何も問題ない〟と伝えてやれ」

 そういって、一息にグラス内の赤い液体を飲み干した。

 受話器の向こうの声が一層、荒々しくなった。

 そして、直後に銃声と思しき乾いた音。ガラスの割れる音。複数の怒声が混ざり、サーカスの開始を思わせる賑やかさが始まった。ふん、と鼻息をひとつ。それから、豚のようにぶくぶく太った体を揺らして、手元の受話機を隣の空席へ放った。

 顔を窓に向ける。

 鋼鉄製の銀翼が大気の渦を裂いている。

 ごごん、と大きな揺れ。

「……いまのは大きいな」

 先程までとは違い、不安そうにステファンが言った。

「今年は大西洋の海水温が高いですからね。そこらでジェット気流が蛇行しているんでしょう」

 答えたのは黒いスーツを身に纏った男だ。ビジネスマンにしては体格が良すぎ、オフィスに勤務するには全身から発する空気が違和感を醸し出している。機内には、そんな堅気には見えない男が三人乗り合わせていた。

 ステファンに答えたのはその内の一人だ。

 彼らは警備・護衛活動を主とする軍や警察のOBで、この場にいるのはひとえに雇い主である米国企業からの依頼によるものだった。

 周りに民間人の姿はない。

 ここ、高度三〇〇〇〇フィート上空を飛行するジュラルミンの円筒にいるのは、機長と副機長、客室乗務員の女に彼ら黒服、最後に護衛対象のステファン、合計七人だけだ。

 企業が所有する個人用ビジネスジェット機。

 胡桃色の革張りのシートが計八つ。アーチを描いた内装の縁を、プラスチック樹脂製の壁紙が絢爛な彩りで覆っている。リッチな人間の自尊心を満足させる作りをした定員十二名の小型機が、円筒の正体だった。


「おい、君。すまないが機長に空路の確認を」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 黒服の一人が客室乗務員に指示を出した。

 紺色のベストにタイトスカートを着こなした女が、緩やかにウェーブを描いた金髪を揺らしながら操縦室に向かう。

 その様子を、ステファンは体を横にずらしながら窺った。

 視線は彼女の尻付近に釘付けだ。きゅっと引き締まったヒップ。スカートの裾から控えめに覗く太もものライン。自然と頬が緩んでしまう。

 下卑た目つきで女を追いながら、無表情をつらぬく黒服連中にステファンが濁声で言った。

「いやぁ、君たちのところの従業員は美人だねぇ。小顔でスタイルもいいし、なにより笑顔がいい。彼女の名前は?」

「本社付属の者の代理だとか。空きが出た穴を急遽、埋めたのです」

「ふむ……まぁ本人に聞けばいいことだ。それより、知ってるか?」

 悪ガキのように声を潜めて、身をシートから乗り出し、

「スチュワーデスってのは世界中飛び回る職業だろう」

「ええ」

「時差で体のリズムが狂って場所を選ばず発情するんだ」

 けたけたと愉快気に笑うステファンに、男たちは視線は冷たく、だが表情は愛想を浮かべて返した。

 再び振動。びりびりと壁に貼られた液晶モニターが波打つ。

 刃のように鋭利な気流が機首を撫で、その影響か、モニター内に表示されたニュース映像が乱れた。

「失礼。機長は十五分もしない内に安定させられると」

 戻ってきた客室乗務員が甲高い声で告げた。

 手にはギャレーから持ち出されたワインボトルがあった。

「お飲み物が空の様ですので。こちらはいかがでしょう」

「それは?」

「ビルカール・サルモンの67年ものです。シルクのように口当たりがよくて、さっぱりしますよ」

「それはいい。今日は朝からじめじめと嫌な天気だからね。君たちも飲むといい」

「いえ、我々は……」

「護衛をここでする必要があるかい。スーパーマンでも襲ってくるのか?」

 両手をおおげさに持ち上げたステファンに黒服たちは反論を出せず、結局、タンブラーグラスを三つ追加することになった。


「まぁっ、二メートルのカジキ! すごいですわ」

「オーストラリアに休暇に行った際に出くわしてね。なんとヤロウ五人がかりでようやく対等だ。まさに二五〇キロの海の怪物だよ」

「恐ろしいわ、でっかい魚って」

「ほら見てごらん、クリスカ」

 濁声を弾ませながら開いた手の平には、一筋の傷が走っていた。

「怪物と戦った時の名誉の負傷だよ」

「ひょっとしてロープで?」

「そう! 戦いは二時間に及んでみんなへとへとだった。そんな私たちの油断を奴は見抜いた。一瞬だったよ。巻き上げたリールが火花を散らすぐらいに回転してね。私はすかさず銛で腹を突き、ロープを握りしめた。この傷は摩擦熱でできたものだ」

「勇敢なのね。素敵だわ」

 女が感心した風に言った。控えめなマスカラで縁取られた瞳が、ぱちくりとまたたく。女の初心(うぶ)な反応は、優等な家柄を持つステファンの自尊心をくすぐるのに十分で、気を良くした彼の口から口説き文句が飛び出すのはごく自然なことだった。

「君の髪色はカリフォルニアのビーチでこそ映える。仕事が終わったら一緒にラグーナに行かないか」

「まぁ嬉しいお誘い! 海にはなかなか縁が無くって」

「そういえば君はどこの出身なんだ?」

 陶然たる面持ちのステファンは上機嫌そのものだ。頬はうっすらと上気し、アルコールが乗ったおかげか嫌に舌が回った。護衛役の黒服たちも、いまでは反対側のボックス席で各々が好きに振る舞っている。

 具合のいい酩酊だった。

 ステファンはその豚のように膨らんだ腹を揺らし、隣のシートに腰がけたクリスカと名乗る女の太ももに手を這わせた。

 女は酷薄な笑みで答えた。

「東欧の片田舎ですわ」

 最後まで聞けたのか、聞けなかったのか。

 ステファンの意識は、女の言葉の途中で闇に落ちた。


        ◇


 ベンは憔悴しきっていた。

 法の薔薇からの連絡はあれ以来なく、自分の命運が刻々と磨り減っていく感覚が不気味だった。焦慮の念がゆっくりと押し寄せてくる。人目がとにかく気になる。監視――そう、今もどこかで自分の行動を逐いち監視してるんじゃないか。同僚や荷物配達人、ビルの警備員、セキュリティカメラ、向かいのオフィスビルの窓に映る黒い影。そこかしこが自分を狙う敵に見えてしょうがない。

 ステファンの奴はなにを考えてるんだ、ベンには彼の考えが読めなかった。あれだけ憤慨してみせたかと思うと、社から与えられたオフィスに別れたきりこもって、何やら策を弄しているようだ。

 すでに自分は下手を打ってしまった。ステファンの考えに口を挟むことはできない。

 法の薔薇はウゴローニキ(スリ、強盗、請負殺人、その他の極めて暴力的で即物的な犯罪を実行する連中)とは、訳が違う。マスプロ工場である矯正収容所で生まれたギャングと違い、手に掛けるビジネスはワールドワイドの巨悪に根付いている。それも政治家がバックについた、法で裁けない領域のビジネスを。だからこそ、メディテック時代には重宝したし、金銭の糸が途切れない限り、なにより信用できる暴力の伝手だった。が、事態はのっぴきならないところまで来てしまった。

 二人組の殺し屋は誰が放ったのか。コールマンかバイオテックの保守派か。それとも、まったく関係のない三つ目の勢力か。いずれにしろ、ステファンは自分に任せろという。ボイルドの〝リスト〟を使う気なのかは、知らないが。

 ロシアンマフィアは、処刑した人間の頭を大衆の目に届く場所に飾る、というのは何から得た情報だったか。大学の語学講座で隣に坐ったプリヘーリヤからだったか。彼女はたしか、母国の犯罪学を専攻にしていたはず。女のくせに、残虐な話に目を輝かせる妙なタチをしていた。

 もっとも、犯罪ピラミッドの頂点である政治マフィアや司法マフィアの類縁が、このご時世にどこまでの残虐性を発揮するかは、皆目見当がつかない。

 オフィスデスクに置かれた固定端末が鳴った。

 ベンは慌てた風に受話器を耳にあて、

「ロペスのオフィス」

『カーティスから伝言をお預かりしています』

 渋い男の声に、ベンの心臓が撥ねた。それこそ動悸でも起こしたかのように。

「は、はい。それで、代表はなんと……?」

『残念ながら期待には添えない、分水嶺はとっくに過ぎてしまった、と』

「そんな! 私がこれまでにどれだけ、代表の意向に注力してきたか。それを、これまでの忠義を、代表は解ってらっしゃるのか!」

 息を弾ませながらベンは言った。電話口の相手の声は粛々としたもので、

『人生にはいくつもの分岐点があります。あなたは選択肢を誤ってしまった。そして、あなたも私も、我々人間は過去に遡ることはできない。選んだ決断に対し、我々ができるのは後悔だけですよ。ミスター』

「わ、私を助けてくれないのですか?」

 ベンは戦慄(わなな)きながら、言った。

『ミスター、落ち着いて。まずは状況を受け入れることです。現実を拒んではいけない。あなたは覚悟してきたはずだ。いずれ運が尽きるかもしれないと、過ちを犯してしまうかもと。それでも、あなたは〝悪〟の世界に身を置こうとした。金のため、名誉のため、欲望のため……成功を手にしようとして、裏社会の力を利用し続けた。悪徳を築くのをやめなかった。いまさら自分は無関係というのは、いささか甘すぎる』

 急速に体が冷えていく感覚。電話の主の声が、どこか遠くに聞こえるような。

『あとから何が正解だったかなんて、誰も口にする権利はない。だから私も、あなたに対して言うことは特にない。すべてが終わったことなのだから。事態が進行した今となっては、世界が紡ぐ「物語」にあなたの願望を付け加えることなどできないのだから。これは主の意向でもあり、つまるところ、これ以上迷惑をかけないでほしいという、我々からの総意だと思ってほしい。わかりますね?』

「そ、そんな……私は」

 それきりだった。回線切断を報せるビジートーンだけが、あった。

 ベンは茫然と立ち尽くし、やがて、うずくまって嗚咽を漏らした。


 マセラティのグランカブリオは、雨でけぶる市中においても、よく目立った。なんせ、不死鳥をイメージしたフェニックス・レッドに、水滴をはじく特殊コーディングが施されているのだから。

 鉄筋コンクリートとガラスと煉瓦の街、ロンドン。自然を排した人工物が群生した街中を、ベンが運転するスポーツカーは疾走していた。

「クソ! なんてことだ!」

 口をついて出た言葉に行き詰まりを感じ、どうしようもなく遣る瀬無くなる。ステファンには手があるらしいが、もう駄目だ。自分は殺される。甚振られ、惨たらしく、殺される。

 ベンは深く息を吐いた。

「ジェシカ、これから言うことをよく聞いてくれ。学校までメアリを迎えに――」

 ハンズフリーにした通信端末に、落ち着いた声音で言う。こういう時に限って留守録なのは、映画のお約束だけだと思っていたのに。いざ家族に連絡がつかないとなると、胃液が逆流するような不快感の波がベンを襲った。それに抗いながら録音メッセージを残すのも、きっとお約束なのだろう。シュワルツェネッガーやスタローンだって通った道だ。

 とにもかくにも、家族を連れて逃げださなければ。時間の猶予はない。遠くへ、荷物をまとめて、チェコ辺りのひっそりとした所へ――駄目だ、ベンはかぶりを振った。EU圏は危険だ。どこにロシア人の目があるか知れたもんじゃない。そう、アメリカだ。アメリカの田舎に高跳びしよう。それがいい。


 そう、それがいい、それがいい……

 微睡んだところに硬い拳。みぞおちに食い込んだそれに、たまらず苦鳴をあげてしまう。自分を取り囲む、無表情の男たち。受話器越しに響く、ステファンの大仰な演説。あいつめ、なにが〝何も問題ない〟だ。窮余の際には窮余の一策。ステファンは、すでにグリーンの連中に渡りをつけていたのだ。何を手土産にするつもりかは知らないが、それこそ売国行為なのを解っているのか。

 首に食い込んだロープが咽喉を圧迫する。ベンは思わず嘔吐(えず)いた。足元がふらつくのを必死に抑える。この小さな足場が崩れたら、翌日のニュース一覧に『合併進行中の大企業の常務が、ストレスを苦に首吊り自殺』などという、馬鹿げたトピックが追加されてしまう。

 ジェシカでもメアリでも隣人のポールでもいい。誰かが気付いて、警察に連絡さえしてくれれば。そうすれば、この野蛮なロシア人どもは終わりだ。が――

「どうやら、お仲間に見捨てられたようだ」

 黒の皮ジャケットを着た男が言った。

「やめてくれ、たのむ、わたしを殺してどうなる……」

 ベンは涙ながらに懇願した。

 男はかぶりを振り、

「俺たちの世界はね、一度動き出したらもう止められない、話の通じない、非情で非人間的な、機械的なシステムによって成り立ってるんだよ。そこには善悪なんて関係ないんだ。温度や主体すらない、厳しいルールがあるだけなんだよ」

 ようやく、ベンはおぼろげながらも悟った。〝悪〟の本質を。

 すなわち、システム全体に奉仕する歯車として、人間の運命は〝そこ〟に含まれていて、たとえ自分が個別に悪事を行ったとしても、それすらも厳然と日常に存在する〝悪〟の一部に過ぎないのだ。

 みんな、目を背けていただけだ。

 人間は誰しもが、〝悪〟そのものを、日常で見聞きしているのに。ただ、それがあまりに卑近すぎるというだけで、みんな気付かないふりをしているだけだ。

 ベンは目をつむる。もっと早くそれに気づいていれば、と。

「あんたとはそれなりに長い付き合いだったが、まあ、残念だよ」

 男は言い、ベンの後ろに控えた仲間に顎をしゃくった。蹴れ、という合図なのだろう。ベンの股間に茶色い染みが浮き始めた。染みは片足を伝って広がり、椅子の脚を下りて、やがて床に着地した。

 男が嫌そうな顔を浮かべた、その時だった。

 ガラスが割れる音、明滅する照明、捲き上がる粉塵。我が物顔でベンの自室に陣取っていたロシア人たちの、慌てふためく声。それは一瞬だった。一瞬一瞬のうちに、ひとりまたひとりとロシア人たちは倒れていき、いつしか、部屋の中央に茫然と居竦んだベンの足元には、大きな血溜まりができていた。

 そうして、静寂が残った部屋に踏み入ってきたのは、雨でてらてら濡れ光るバイカージャケットを着こんだ壮年の男だった。

「うう……」

「――おうおう、随分とまあ窮地って感じだな」

 傍らに自動小銃を抱えた男は、訝しげに目を細め、

「ベン・ロペスだな? 助けてほしいか」

「け、警察か、あんた」

「スコットランドヤードのロシア部特捜班のもんだ。いま、ある事件を捜査中でね。あんたに聴きたいことがある」

 胸ポケットから煙草を取り出し、火を点した。

 助かったのか、ベンはそう思った。生の実感が湧いた途端、恐怖から開放され安堵感が全身に広がったことで、ベンの膝関節はがくがくと笑いはじめた。気付けば、バルバの高級シャツは汗でぐっしょり湿っている。ズボンもそうだ。人前で漏らしたのなんて、ジュニアスクールの夏季合宿以来だ。

 ベンはぎこちなく微笑み、

「なんでも聞いてくれ、もううんざりだ。助けてくれるなら、なんでもはなすよ」

 ローテックの企業合併のこと、保守派と急進派のこと、〈ベントルン・ホテル〉でのこと、コールマンと法の薔薇のこと――助かりたい一心か、ベンの口はやたらと饒舌だった。

 それこそ、告解室で神父に自罪の懺悔をするように。自身の重ねた悪事のすべてが赦されるとでもいうように。異常な状況に、理性が働かなくなってしまったかのように。

 男は弾痕の刻まれた壁にもたれ、ベンの痛悔を静かに聴いていた。

「なあ、もういいだろう。そろそろ、これを取ってくれ」

 ベンは話も終わる頃になって、ようやっと自身の状態に気が回った。少しでも体勢を崩せば、奈落に一直線の絞首台に、いまだ自分がセッティングされていることに可笑しさを覚える。

 男は、そうだな、といい、ベンの背後に回った。

「早く、はずしてくれ――」

 ベンは言い――直後、浮遊感。視界の端で床を転がる椅子。喉許を締めつける圧迫感、脳の血管を駆け廻る危険シグナル。

 げえっ、ベンは奇妙な呻きをあげた。酸素、酸素、酸素! 舌と唇が呼気をしようとするも、ロープによって圧着した咽喉は、1ナノグラムも酸素を通してはくれない。頸動脈が遮断され、頭の血流が沸騰していく感覚。地上にいながら溺れゆく苦しみ。絶望。

 なぜ、なんで、どうして。死の痛み、尽きぬ疑問。

 足をバタつかせながら、ベンはゆっくりと死に呑まれていった。

 やがて完全に沈黙したベンを見ながら、男は吸いさしの煙草を血溜まりに吐き捨てた。半分まで縮んだ煙草(マルボロ)に、床に突っ伏した男たちのDNAが染み込んでいく。

 男はしばし黙考したあと、ベンの両手を縛るハンカチーフをほどいてやった。いまさらだったが――

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