024 マスタング
白い空間内にタイヤの悲鳴が響き渡る。車窓の外を高速で流れる光の群れ。ヘッドライトが視野の先を照らし出し、等間隔に設置された反射鏡がハイビームの粒子を撥ね返してくる。オッドフィッシュの逃走劇は、地方道路網再開発計画の端緒――経済都市の要衝を結ぶ、都市間高速トンネル道路へと舞台を移していた。
前方に一般車の群れが迫る。ステアリングを左右に素早く切り返しつつ、アクセルペダルを車体にめり込ませる。猛然と速度が伸びていき、漆黒のフォルムが車輌と車輌の隙間を縫っていく。
驚いた一般車から怒りのクラクション。騒がしいそれらを全て置き去りにして、グウェンが操るシェルビー・マスタングGT500は東に向けて驀進していた。
サイドミラーにアクアブルーの瞬き。追走役は、ロシアンマフィアから警察車輌隊――特型追跡車〈ムルシエラゴ・パトカー〉にバトンタッチしている。最高速度三四〇キロを誇る死神だ。もとはロンドン市内にのみ配備されていたものが、現政権が打ち出した地方の治安強化維持策の一環として、巡り回って再配備されたという訳だ。
トンネルの壁内でサイレン音が飛び跳ねる。
ほんの数秒で、サイドミラー内の影がポークビッツ大からその倍に膨れ上がる。車体を揺さぶる衝撃。お上品な啄み口によるカマ掘りだ。座席越しに、不愉快な振動が尾骨を伝わった。瞬間的な荷重移動で車体が前に傾く。
グウェンは盛大に舌打ちした。
いかに最高出力八〇〇馬力を誇るマッスルカーでも、半世紀のちに生み出された新世代スポーツカー相手では分が悪い。
「フィン、テッドの具合は!」
焦りを滲ませたグウェンの声に、
「最悪だ! 小僧が生きてんのは、かろうじてだ!」
背もたれ越しに、テッドの応急処置を行っていたフィンチが答える。元来、リアボックスが置かれていた後部座席に、身体を折り畳むように鮨詰め状態にされたテッドの顔色は酷いものだった。車床と体側の間に詰められたクッション代わりのマントコートは、まるで粗相をしたかのように、ぐっしょりと濡れている。
再び、強い衝撃。今度は斜め後方からだった。右後輪が、一瞬、宙に浮く。速度メーターの針が左右にブレる。重力に従いアスファルトの上に落ちたタイヤが、接地面にて空を切った。
車体姿勢が崩れる。高回転域を保持したままのエンジンが、八〇〇馬力の嘶きを上げた。マフラーが小さな火を噴く。金属が摩擦した音を立てながら、マスタングは反対車線へと砲弾のごとく飛び出した。
「ファック――」
フロントガラスに突き刺さる無数のヘッドライトの光芒。自然、グウェンの口をついて出た強意語が、むなしく宙を奔った。
咄嗟に右手がシフトレバーへと動く、クラッチを踏みつける、四速から二速へ――アクセルオフ――エンジンブレーキによる相対速度の減少。激しいクラクションの音とともに、横滑りした対向車のフェンダーがマスタングに掠めていった。
鋭角的にハンドルを振りながら、グウェンは深い息を吐いた――こめかみに青筋を浮かばせながら。
「上等だよ、カマ野郎」
再度、四速へとシフトチェンジ。車線を跨いで並走するムルシエラゴ・パトカーを睨みつけ、シフトレバーから離した手をグローブボックスに突っ込んだ。
「グウェン、これ以上はよせ! オーバードースになるぞ!」
グウェンがしようとしている事を見抜いたフィンチが、叫ぶ。
「一瞬だ、道を潰してやる!」
フィンチの制止を振り切り、細首にハイジェッターを突き立てた。ガスの圧搾音。グウェンの視界がクリアに、シャープに、明瞭なものへと変化。
白塗りの空間に鮮明なもやが広がっていく。
特化脳力場が、神秘的なもやとなって姿を現したのだ。
特脳を発動。
「束縛接続帯域」による電磁波の『糸』を検索。
対向車の群れから一際大きい物体を感知。
物体の前方に繋がる『糸』を、そっと抓む。
鼻孔から血が零れ落ち、周囲の音が遠ざかる。
淡い燐光を持った電気の線が、指先から前方へと刹那の時を走った。腕を緩やかに振るう――指揮棒でオーケストラを操るように。
進行方向の奥で巨大な影が揺らめいた。
重い金属音を轟かせながら、道路に連なる車を強引に押し退けながら、愚直に邁進する巨大な影。行く手を塞ぐ車列を物ともせず、マスタングに向かって加速する、鉄でできた巨塊――それは大型トレーラーだった。
衝突まで三〇メートルを切ったところで、牽引するトラクターが中央線を乗り越えた。グウェンは特脳を解除。ハンドル制御を取り戻したドライバーが慌てて、元の車線に車体を戻そうとする。
ハンドルとブレーキの急激な操作により、トレーラーの非常ブレーキが作動。火花を散らしながら、台車が横にずれていく。
トレーラースリップ――トラクターと台車を繋ぐ連結器が、耳をつんざく金属音を立て、トレーラーの後部がトンネル二車線を塞ぐように横滑りした。
グウェンはステアリングを左へ。壁際一杯までマスタングを寄せる。トラクターと壁の間に生まれた、僅か一台分の道を強行突破。車体を擦りながら大型トレーラーによる道路封鎖を突き抜けた。
一般車のスキール音に混じったサイレンの音が離れていく。
「バカ野郎! 無茶しやがって!」
フィンチが、がなり立てた。
「一般人を巻き込むな! 規則を忘れたのか!」
「規則なんて守ってたら、テッドを助けられないっていったのは、どこのどいつ?」
「話をすり替えるな。鼻血を拭け! 一歩間違えれば大惨事だぞ、解ってるのか!」
「解ってるわよ! 頭に響くから喚くな!」
「だから、オッドフィッシュなんて呼ばれんだ、クソったれ!」
「んなことより、テッドは?」
フィンチが血相を変えて振り返った。
「……ファック。出血がヤバい、どこかでちゃんと処置しないと」
「持ってどのくらい?」
「せいぜいが一〇分ってとこだ」
「くそ!」ハンドルを拳で叩く。
グウェンの焦慮の念を煽るように、事故発生を報せる警報のベル音が、トンネル内にかまびすしく鳴り響いている。壁面上部に取り付けられた非常灯が赤く点滅している。
スプリンクラーが作動していないところを見るに、火災による二次被害の心配はないようだが、それよりも考慮すべき問題はいまも死にゆくテッドの身体にあった。
フィンチが、テッドに施した肉包帯(コンドームほどの厚みの細胞活性化布地)は、皮膚下から滲んだ血液によって、いまや肉汁あふれるレア・ビーフステーキとして瑞々しく滴っていた。
このまま打つ手なしで死んでしまったら、あの鉄火場から救い出した意味がない。ファック! どうする? どうすればいい? 特脳使用によってヒート状態の脳味噌が、さらに熱を帯びていく。
病院? 駄目だ、機構の息がかかってない病院では特脳処置が出来ない。それに、ロシアンマフィアの手が回ってる可能性もある。
望むべくはポートダウンにある機構の研究所……だが、どんなに飛ばしても半日かかる距離だ。到底、間に合わない。
絶望がグウェンの脳裏を侵していく。
テッドのか細い呼吸音。全身に刻まれた火膨れの痕。打撲痕に切創痕。元々のハンサムな顔立ちは見る影もなく、その顔一面を真っ赤な臙脂色で染めている。
転瞬の間、心の裡に、最悪の事態を観念しようとする気持ちが湧いた。
その時だった。
『あ~、あ~、んん。聞こえるかな、どうぞ』
甘い息漏れ声が、耳に嵌めたままだったインカムからこぼれたのは。
「ウィスパーか?」と、驚いたフィンチの声。
『いかにも。随分と派手にやったようで』
「いつ、この回線を? いや……その前に、なんで高速トンネル内で通信端末を使える」
『その疑問はもっともですな。本来なら開発途中のトンネル内は電波障害が起こり易いのですが、交差岐路にて車の衝突事故があったようで』
先程、グウェンが引き起こしたトレーラースリップだ。
『こういった場合、交通局の非常事態におけるマニュアル通り、事故現場周辺を中心に通信システムのリソースを組むんですわ。おかげ様でアップリンクを確立させ、そちらさんにリモートアクセスすることに成功したってわけです』
「ウィスパー、あんたとお喋りしたいのは山々なんだけど、こっちには時間がないの」
グウェンの苛立った声。聞く者を威圧する声音にも、当のウィスパーは飄々としたものだった。
『ままま、こうしてお話できるんですから、少しは有益な情報をプレゼントしようと思うんですが』
「言ってみろ」フィンチが端然と返す。
『M11出口とM13出口に向かうのは止した方がいいですな。警察の検問がある』
「他に出口は?」と、グウェン。
『M14方面に向かってください。道中の非常駐車帯にコンテナ車を駐めてありますので、そこで合流するってことで』
不快なノイズ――耳小骨が痛くなる空電音が消え、ウィスパーのささやき声も途絶える。
「あいつ、なんで検問の設置場所を?」
ハンドルを回しながら、グウェンが不思議そうに訊いた。
不本意な事だが、ウィスパーの登場によって事態の打開策が見えてきた。そのせいか、暗く沈みかけていた心の裡は、軽いものとなっていた。
「ミルトンが盗撮趣味なら、奴は盗聴趣味ってことだ。どっちもどっち、趣味は悪いがな」呆れ口調で答え、後ろに顔を向ける。「テッド、踏ん張れよ。〈スカイロード〉のコンテナだ。VIP待遇で迎えてくれるぞ!」
赤いサイレン灯が危機感を煽るトンネル道路を、疾走する。奥の方はさほど混雑は起こっていなかった。雨天だったのが幸いしたのだろう。これが平日の通勤時間帯だったら大渋滞が発生してる。
〝M14 ハイ・レ方面27キロ〟
フロントガラスに投射された電光表示の指示に従って、ハンドルを切る。遠くの方でサイレン音のこもった音が聞こえた。
やがて、左に道を広げた非常駐車帯に青い大型車が見えた。
〈スカイロード社〉の企業ロゴマークが、デカデカとプリントされたコンテナ車だ。コンテナに続くタラップは降りている。ステアリングを左に回し、勢い良くタラップを踏み込む。
コンテナの中にマスタングを収納。タラップが自動で持ち上がり、静かな駆動音とともにコンテナ車が動き出した。
テッドを後部座席から下ろし、壁面収納ベッドを引きずり出して、その上に寝かせる。コンテナ内部の壁に掛かった医療ボックスを取り外す。テッドの生体電流は荒れている状態だ。すぐさま、医療処置を施していく。
テッドの指先に携帯型パルスオキシメーターを取り付ける。機構が開発した小型医療機器で、手術室や麻酔室に置かれる据え置きタイプの生体モニターと同じ機能(酸素飽和度だけでなく、心電図やその他の重要バイタルサインの測定)を有した優れものだ。
「サチュレーション」フィンチが叫ぶ。
「90を下回ってる」グウェンが返す。
酸素とヘモグロビンの結合値が、基準値より下を示している。体組織が酸素を取ることができないので、組織の活動性が低下しているのだ。
高濃度酸素が貯留されたリザーバーバッグを、テッドに顔面に嵌める。酸素投与を行い、テッドの身体をチェック。深達性Ⅱ度熱傷――表皮から真皮までの瘢痕。早期の治療が必要。ボックスから局所麻酔スプレーを出し、火傷痕にくまなく吹きかける。殺菌、鎮痛、冷却効果によって、テッドの顔色が心なしか好転したように感じた。
だが――甲高い電子音。激しく痙攣する身体。
「ショック・バイタル!」
グウェンは顔色を変えた。意識はついさっきまであった。失血によるものじゃない。ならば、原因は?
それは、おそらく職業医師では気付けないものだった。特化脳力場の観測を旨とするグウェンだからこそ、気付けたショックの原因。その視線は左胸部に向けられていた。
神経原性ショック――迷走神経の緊張亢進によって引き起こされる症状。
迷走神経は、脳神経の中で唯一腹部にまで到達する神経/首から横行結腸の三分の一までの、ほとんど全ての内臓の運動神経と副交感性の知覚神経を司る人体の操作盤だ。
あのイカれたランドリールームから脱出する際、人体でも最重要の迷走神経を介して、グウェンはテッドの身体を操作した。左胸部――未だ突き刺さったままの亡者の操縦桿が、テッドの生体電流が嵐のように緊張していることを、感覚的にグウェンに知らせた。
「フィン、アトロピンの投与!」
「輸血が先だ」
「失血によるものじゃない、信じて」
「……アトロピン五グラム投与」
医療ボックスには各種薬品がバイアル瓶に詰めてある。目当ての薬品を注射器で吸い出し、テッドに投与。
二人は固唾を飲んで、携帯型パルスオキシメーターを見守る。
やがて――規則正しい電子音。バイタル数値が安定値に近づいていく。
グウェンの判断は正解だった。
フィンチは重い息を吐いて、床に腰を下ろした。その横で、グウェンも医療ボックスの上に腰掛ける。
「……よくやった」
「よしてよ、たぶん……私の特脳が影響を及ぼしたんだろうし」
「それでもだ。お前の判断はテッドを救った」
フィンチの言葉は造船所の地下、ランドリールームでの判断も含んでいるのだろう。
グウェンは鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「煙草……吸いたいわね」
「やめときな。いま吸ったら、坊やが跳ね起きちまうからよ」
「はは、違いない」
グウェンとフィンチが人心地ついていると、トラクター連結通路から、赤毛をダックテールにした太りじしの男が入ってきた。フーリガンじみた粗野なウィスパー、だが、この場においては確実に救世主といえる最高のクソ野郎だ。
「あらら……生きてんですか、それ」
「生きてるわ、かろうじて」
「よぉ、クソ野郎。あとでほっぺにちゅーしてやるよ」
テッドの心拍数を表すモニター数値が、正常値に近付いていく。危機は脱したようだ。グウェンとフィンチが、それぞれ床にへたりこみながら悪態をつく。
「おじさんのスキンシップはノーサンキュー。それよりも、あんたらは運がいい」わざとらしい咳払い。「数分の入れ違いで、ロンドン警視庁の専門作戦局特殊班が造船所を急襲。もともと、連中をマークしてたんでしょうな」
「……あぁ、どうりで」
納得顔でグウェンは頷いた。
オッドフィッシュによる襲撃から、警察による主要幹線の検問設置までの時間が早すぎたのだ。最初から逃走車を想定していなければ、あり得ないほどに。
「今頃現場はお祭り騒ぎでしょうよ」
「いい感じに盛り上がっちゃったわね」
彼らのガイ・フォークス・ナイトは、まだまだ続くようだ。グウェンが唇の端に浮かべた笑みには、警察とロシア人、その双方を嘲るような翳りがあった。
エンジンを切ったシェルビー・マスタングGT500が、ぶすぶす燻っている。あれだけ無茶な逃走劇を繰り広げたのだ。果敢賞をあげても、いいくらいの働きぶりだった。グウェンは拳で穴だらけのボディを軽く小突いた。
「うっわ、なんですか、この旧車。レストアもんですがな」
「ウィルの渾身作だ。なかなかの代物だぜ」
グウェンを真似て、フィンチもボンネットを叩いた。
ぼん、と小気味よい音を立て、ボンネットの隙間から黒煙が昇った。ウィスパーが慌てて、小型消火器をかけた。
「なんつーか……あんたら無茶しすぎでしょう。彼を奪還するにせよ、一言連絡くれりゃ特殊装具の手配だって出来たし、反解像レンズ搭載の迷彩バンだって用意出来たのに」
「時間が惜しい」
「時間の無駄だ」
ほぼ同じ答えを同時に聞かされて、ウィスパーは盛大に溜息をつき、
「まぁ、あっしは説教キャラじゃないんで……とと、それよりも、正規の任務に戻ってもらいますよ」
「せいきのにんむ?」あどけなげに、グウェンが反芻。
「元凶の始末がまだですから」
修辞的な疑問系に、ウィスパーは囁くように返した。




