023 果敢時戦場
テッドの身体に亡者の操縦桿を使ったのは、結果的に正解だった。なにせ、彼の体はぼろぼろで、病み上がりの病人が使う歩行器具があったとしても、一歩足を踏み出せばぺちゃんこに潰れること請け合いだからだ。
性格は粗野といっていいグウェンだが、彼女本来の持ち味は精微な干渉、把握、操作能力にある。その驚異的な集中力によって――たとえ、自身の特脳を阻害する電磁波があっても――彼女の識域下において、他者の肉体を繰るのは造作もないことだった。
要は、テッドの動かない体はグウェンが補助すればいいのである。
肩越しにテッドの荒い息が聞こえる。
腕時計の秒針が静かに、確実に時を刻んでいく。
56、57、58、59――
0の振り出しに秒針が触れた。同時に腹わたを揺り動かすような爆発音。一切のタイムラグなしに、同時に四つの車が炎の渦を上げたのだ。一瞬で空気が膨張し、音速を超えた衝撃波が、倉庫の内部を外壁ごと粉微塵に吹っ飛ばした。もうもうと猛る黒煙が、穿たれた大穴から雨風ごと建物内部に入り込んでいく。不意をくらったロシア人たちは蜂の巣を突いたようなパニックを起こした。
〈なんだ、何が起こった!〉
〈あぁああっ、腕がっおっおれの腕がねえ、無くなっちまった!〉
〈どうなってる! 外の武器が暴発しやがった!〉
〈馬鹿野郎、外は大雨だ! 商品を晒す訳ねえだろうがよ!〉
〈いてえっいてえぞクソったれ! ふざけんなクソっ!〉
〈ラビ! おまえ、なに銃なんか出してやがる! とっととこっちこい!〉
〈ミハイルはどこだ! 奴は無事か?〉
〈ボスの息子ならあの武器商と一緒だよ! 誰でもいい手を貸せ、火を止めねえと!〉
薔薇の刺青に、筋肉累々の屈強な男たちが次々に怒号を上げる。
ガスバーナー用のガスボンベが低く濁った音をたてた。
凝縮したガスに引火し破裂。金属の擦れる重低音。作業資材、飴色のスチール板、コンベイヤーが微塵に砕け、圧壊。炎の尾を引いた破片が波濤となって、膨張。爆風を引き起こす。敷地が大きく揺れ動き、セメント床がめくれ上がった。
衝撃波に煽られて、すぐ隣で身をかがめていた男の体がバラバラに四散した。ひずみの入った改修中の船体に、肉と内臓のペーストが上塗りされる。
爆破の連鎖は止まらない。梁が崩れ落ち、幾本もの鉄骨の群れが時雨のような音をたてて、建造中の船舶へと突き刺さっていく。
白煙がもうもうと立ち込める。
混乱を極めた作業場に、一際、透き通った銃声。
しみったれた女の泣き声を上げるのはカラシニコフ。
辺り一面に広がった煙のカーテンに、鋼鉄の銃弾が孔をあける。
手当たり次第にばら撒かれる7.62mmフルメタルジャケット弾が、いまだ何が起こっているのかも理解してない愚者の群れを襲ったのだ。
〈なにやってる!〉
〈おいそいつはみかたヴぇ〉
〈ロクスがやられたぞ! 撃て撃てッ!〉
側面から予想外の攻撃を受けた男たちが怒声をぶちまけながら、仲間を撃った裏切り者めがけて引鉄を絞る。
ふざけやがって、なんのつもりだクソったれクソったれクソったれ! ああ意味分からねえ、こいつらが敵なのかこいつらの仕業なのか、なんなんだコレ、ああクソクソクソクソ死んじまえ!
かつての仲間同士で鋼鉄の死を撃ちまくる。
裏切り者は二人だ。それに対して、怒りの形相を向けるのは一〇人以上。火力が違う。疑問とともに吐き出された銃弾が、二人を容赦なく穿っていく。耳を目を歯を指を頭皮を腹腔を、鮮やかなピンクの肉片を削り飛ばしながら、ギラギラと鈍く光る空薬莢が撥ねる。
死んで当然の銃撃。
過剰なまでの攻撃。
だというのに――二人は薄ぼんやりとした表情を変えずに、そこに変わらず突っ立っていた。痛覚がないんじゃないか、と疑わせるほど彼らは一言も発さずに、じぃっと虚空を見つめていた。
二人と相対する男たちは、誰ともなく唾を飲み込んだ。
二人に向けられたままの銃口が、揺れる。
〈……なぜ倒れない?〉
男たちの誰かが当然の疑問を口にした。刹那――二人は前のめりにゆっくり姿勢を倒し、足を曲げ、腕を振って男たちに向かって突進した。
「なっ」誰かが驚きの声を上げるも、さらなる銃声にかき消される。僅か6グラムの鉄の塊が二人をミンチにしていく。もはや、男たちには恐怖の感情しかない。当たり前だ。アニメやフィルムコミックじゃあるまいし、まさか現代で、それも科学が人体の神秘を解き明かした時代に、よもやウォーキングデッドと見紛うモノが怯むことなく突貫してくるのだから。
〈なんなんだお前ら!〉
〈殺せ殺せえ!〉
〈来るなっ、止まれ、止まるんだ!〉
ぎざぎざの骨が剥き出しになった腕を大きく振り上げ、風穴だらけの二人が緑色の何かを握った。そして、耳を澄まさなければ聞こえないほどに小さな金属音。
男たちまであと数メートル。
だが――哀れな二人はそこまでだった。頭部目掛けて殺到した銃弾が、二人の顔面を穿ち、後頭部へと突き抜けていく。真っ赤な花を宙に咲かせ、頭蓋の中身を大気に曝しながら、二人の身体は静かにくずおれてしまった。
そして――二人を操るグウェン・オールズには十分な距離だった。
まばゆい閃光。腹に響く重低音。
男たちは二人の置き土産――投擲手榴弾がバラ撒いたモスグリーンの破片を正面から食らった。亜音速の死の破片だ。食らえばひとたまりもない。倉庫内が阿鼻叫喚の地獄と化すのに、さほど時間はかからなかった。
グウェンはマントコートから、シャフトと骨組みだけの折り畳み傘を取り出した。傘生地が張られていない、製造工程ではじかれたジャンクのような傘だ。装備品をすべて取り外して軽量化したコートは全裸のテッドに被せてやり、自身が纏ったコンバットハーネスの腰部に傘の玉留を引っ掛ける。
この一見なんの変哲もない骨組みだけの粗悪品が、倉庫外を飛び交う銃弾の雨を防ぐ切り札になるとは誰も思いもしないだろう。
陽動に陽動を重ね、敵に見咎められることなく脱出するには絶好の機会だった。山のように積まれた機器と支柱の間を縫って、グウェンとテッドは脱出に向け、動き出した。
吹きあがる黒煙と炎の柱が夜の影の輪郭を一層濃くしていた。
墨汁のような黒々とした夜陰にぱっ、ぱっ、ぱっ、と光芒が咲き、どこまでも冷え冷えとした銃声が一面に響き続ける。氷の手で脊髄を鷲掴みにされるような怖気。錯覚をもたらす死神のささやきだ。
豪雨に負けじと鋼鉄の銃弾が飛び交う。闇に溶けこむ黒いレインコートを着た男たちが、コンテナやトレーラーの物陰からカラシニコフを撃つ。撃つ。撃つ。小やみなく降り注ぐ銃弾が、黄色い建設重機の陰に隠れるフィンチを襲う。
巡回していた男の死体が見つかったのだ。
フィンチは襲撃をいち早く察した敵と交戦していた。
タタタン、タタタン、と甲高い銃声。
死線が入り乱れたキリング・フィールドに身を置いて、なおフィンチは冷静だった。彼は元軍人だ――銃は愛すべく道具、飛び交う銃弾は良き隣人――死を運ぶ甲高い銃声も、フィンチのビスどめの心臓を揺さぶるには力不足なのだ。
銃撃戦を制する鉄則その一。
臆病と後ろ指をさされても、とことん身を隠せ――
銃撃戦を制する鉄則その二。
心は平穏に。敵影を射線に乗せてブレなく撃て――
軍で新兵に叩き込まれる基礎中の基礎戦術、ヒットエンドラン。そこに熟練の兵士であるフィンチが自らの特脳を組み込んだのならば、それはもう職人技にまで昇華された射撃術であった。
引鉄を引く動作は歯磨きチューブを絞るのといっしょだ。
カービン銃の狙いをすまして、右目に集中。
感応収斂を発動。
フィンチの視野内の、すべての物体の速度がぎゅんと落ちる。それに反比例するように彼の視床活動電位は通常時を超え、その波及効果によって、脳運動は擬似的な加速をもたらす。
楕円状の雨粒のゆらめき。
またたくマズルフラッシュの光。
大気を疾走する円錐状の銃弾の群れ。
火薬が炸裂し、生じた衝撃波が髪をなぶる。
色彩を失った世界では、すべてがフィンチの認識下にある。
蠢く敵影に殺意の焦点を同期させ、コルト・カービン銃の磨き上げられた引鉄を絞る。絞る。絞る。銃身のキックバックが三回、肩を蹴る。空気を切り裂きながら三方向へ広がった銃弾は、どれも違いなく、敵影の頭部に赤い花を咲かせた。
『フィン!』
「倉庫前はあらかた始末した! ズラかるぞ!」
燃え盛る建物の陰から二人の影が飛びだした。
ほぼ同時に、倉庫の屋根を貫く大きな爆発。鳴動する大気が四方に爆散する。倉庫の天井が崩壊。鉄骨や金属の塊、資材が瀑布となって空高く打ち上げられた。轟音と爆音の二重奏の中、瓦礫の雨が敷地に降り注いでいく。
グウェンとテッドの後を追うのは火達磨になった人間だ。
全身を灼熱の慟哭に染めた憐れな犠牲者はよれつき、倒れ、物言わぬ薪炭と化していく。
背後は煉獄。
脇目もふらず、二人は疾駆する。
盛大な花火にぴゅんぴゅんと鳴き声が混じる。みっちり箱詰めにされた商品が爆発したのだ。禍々しい爆煙を打ち上げながら、真っ赤な明りが敷地内を照らした。
走る。撃つ。かがむ。
派手になり過ぎたガイ・フォークス・ナイトを駆け抜ける。
こんなイカれたパーティーに参加したい人間は狂人か酔狂な奴だけだ。楽しむ余裕などない。グウェンは空いた腕を振るう。倉庫の真横から爆発音。野太い悲鳴。グリッドB‐2に配置した人形の自爆だ。その衝撃波で基部からへし折れたクレーンが、隣接する造船工場との連絡通路を塞いだ。
研ぎ澄まされた聴覚が背後から迫る銃声を感知。
ふたりの背中を守るように骨組みだけの折り畳み傘が、高周波の音を発しながら自律的に浮遊し、計八本の骨をお椀状に花開いた。傘布の換わりに展開されるのはサージ電流を瞬間的に拡張した電磁障壁だ。夜の大気に展張された紫電のほとばしりがシールドとなって、ふたりを射殺そうとする銃弾をはじいた。
バチュッバチュッと、自動的に脅威を感知する浮遊する海月傘が、降り落ちる雨と飛来する鉛を反発する度に、蒸気の煙が夜の大気に放射されていく。ヒト一人分の上半身を包み隠すほどの防御範囲しか持たない上に、傘をしょって走る姿は傍目からして珍妙だが、背後を気にせずに戦地を駆けられるだけで充分。
鋭利な擦過音がコートを掠めて、上質な布地に穴をあけた。
「援護してやる! 走れえ!」
フィンチが大きく叫んだ。
その手に持つ銃から、鈍色の薬莢をばら撒きながら銃弾を浴びせていく。
二人はぬかるんだ地面を蹴り続けた。土くれが跳ねる。
塀に囲まれた敷地の唯一の出口まであと一〇メートル。
前方に人影。出入りを見張る詰所から、ウジを持った男が姿を見せたのだ。何やら喚きながら、その銃口を上げ――同時に銃火を阻むように、夜気を震わす猛獣の雄叫びが響いた。
窮地に颯爽と現れたのは夜を駆ける漆黒のマシン。肉食獣の顎門と化したフロントバンパーが、背後から男を跳ね上げるように衝突。鈍い音が周囲に響き渡る。ウジを握りしめた男は、ボロ雑巾のように宙できりもみしながら、即死した。
侵入防止用のポールもろとも突っ込んだのはシェルビー・マスタングGT500だ。速度を緩めた鋼鉄の猛獣は、そのまま敷地に乗り込み、半円状にドリフトして停止してみせ、
「フィン! 迎えだ!」
グウェンのがなり声に、倉庫前方へと制圧射撃をおこなっていたフィンチが振り向いた。
マシンからドライバーが外に降り立つ。
甲高い擦過音が張り巡らされた戦場の調べ。その縁でぼうっと立ちすくむのは、救出作戦の事前に仕留めた巡回の死体であった。
男の胸元からグウェンがアンテナを引き抜くと、仮初めのドライバーは糸が切れた操り人形みたいに、四肢の関節をたわませながら、ゆっくりと泥中へと沈んでいった。
◇
「爆発っ、爆発ですよ!」
「見りゃあわかる!」
遠く離れた夜空が輝いた。
灰色の雨雲が不気味に照らされて、照りつけられた部分が乳白色の皮膚を露わにした。いくつもの熱気球を逆さまにして、無理やり連結したような、おどろおどろしい光景だ。
その下で再び爆発が起こる。ぶくぶく泡立った雲海の不吉な陰影がくっきりしていった。すこし遅れてから、大気を伝わった衝撃波が車の窓ガラスを叩く。
「っ、目標が加速します!」
慌ててアクセルペダルを踏もうとしたクレアだが、サイモンの指示がそれを遮った。
「待て、そっちじゃない!」
「どっちですかっ、見逃しますよ!」
「銃声が動いてる――海岸沿いに進め!」
◇
数多くの乾湿両用のドック、橋梁、倉庫が廃棄された再開発地域にて、激しいデッドチェイスが繰り広げられていた。
濡れた路面上には、雨で霞がかかったオレンジ色の街灯光が反射している。あぶれた光彩が、アスファルト上に美しいイルミネーションの光跡を作り上げ、まるで、真っ暗な夜に敷かれた光の絨毯のよう。さらにその上を、唸るエンジン音を轟かせたマスタングのタイヤ痕が、荒々しい波紋を引いていく。
「追手がついた! 三台! 撃ってくるぞ!」
フィンチが胴間声を張り上げた。
いかついヘッドライトが後方に光る。
銃声が轟いた。グウェンがステアリングを切る。左テールから火花が散る。
一発あたり六ドルにも満たないライフル弾が、最高出力八〇〇馬力を誇る、値打ちモノのヴィンテージカーに傷をつけていく。
連中も必死だ。なにしろ仲間の大半を殺され、追い打ちをかけるように商品も台無しにされたのだから。
もはや生け捕りなど考えていないのだろう。あらん限りの怨嗟を籠めた銃口が連続してひらめいている。連中は恐怖を感じていない。あるのはただひとつ、絶対に逃がす訳にはいかないという焦慮の感情だけだ。
銃口から火を噴かせながら、ミハイルが喚いた。
「豚どもめ! ブッ殺してやる! この星から抹殺してやる!」
胸元で火薬の炸裂光にさらされて、銀十字のネックレスに埋め込まれた血のように赤いルビーが、より艶めかしく輝いた。
「もっと加速しやがれ! 離されてるぞ!」
「これでマックスですよ! これが限界だ!」
彼らの誤算はただひとつ。
オッドフィッシュを構成するのが人間の枠を超えた特脳者であることだ。超常の力を持つ特脳者には同種の力を持つ者をぶつけなければならない。法の薔薇は無知だった。そして、理解の範疇を超えた死のみが平等に彼らに降り注ぐ。
それをはっきりと見咎めたのは、もっとも距離を詰めていた一輌目の運転手だった。
街灯が点すオレンジ色の光に照らされた野球ボールほどの球体。
宙に浮いた三つのそれは、側面についた取っ手のようなパーツを弾き飛ばし――、
「月までブッ飛ばせ、フィン!」
窓から身を乗り出し、目を眇めて狙いをつけたフィンチが、
「リヴァ・ファッキン・プールだ!」
ステアリング越しに声を荒げるグウェンに声高に返し、手中におさめた銃把を強く握りしめた。三つの銃音。勢い良く撥ねた三つの空薬莢。そして、宙を駆ける三つの銃弾が、敵車輌前方で踊る三つの手榴弾の中心を浸徹した。
局所的な爆発の帯が、立て続けに三つ起こった。
扇状に広がる破壊の渦が車ごと飲み込んでいく。
連鎖して爆風が重なり合い、倍にまで膨らんだ衝撃波が二トンを超すSUVをおもちゃのように持ち上げた。フロントが浮き、そのままぐるんと火を噴きながら半回転。ルーフから落ちた逆さまの車が、火花を散らしながらアスファルトの上を滑っていく。
その斜め左後ろを走っていた車は急な爆発にステアリング操作を誤り、横転。空回るタイヤは地面を掴むことなく、鉄の棺と化した一輌目と衝突。ひしゃげた車体から漏れた燃料に火花があたり、引火。轟音をたてて沈黙した。
もう一台は揺らぐ車体を安定させようと踏ん張り、バランスを維持。平べったいフロントにくすぶる火をものともせず、マスタングの後を追う。
そこにもう一台が追加された。
シルバーのシエラだ。青く光る警光灯をフリントグリル内で光らせ、けたたましいサイレンを鳴らすそれを見て、
「ハンドルを!」
首筋に予備のハイジェッターを打ち込んだグウェンが叫ぶ。窓から手を出し、集中。メモリが補えた今なら多少の無茶は可能だ。
電磁線の網のなか、強引に電糸を紡ぐ。指先から紫電がほとばしる。
アクセルを緩めるとともに、腕を丸く振るった。
「見ましたかっ、写真の女ですよ!」
クレアが唾を飛ばしながら叫んだ。後ろで小さな爆発音がした。
「ビンゴだ! 何としてでも確保するぞ! 後ろの車に注意しろ!」
そうこう言ってる間にも黒のSUVからの銃撃が続く。
まるで警察など眼中にないみたいだった。
「近づけ! タイヤを撃ち抜く!」
クレアが止める間もなく、サイモンはするりと窓から体を乗り出し、銃を構えた。たん! たん! たん! 断続的に乾いた音。SUVのホイールから火花が舞った。雨でぬめり光るタイヤは健在だ。
サイモンは舌打ちをした。豪雨に暴風。光源はヘッドライトの明かりとオレンジの街灯のみ。
これではバースデーケーキのロウソクの灯明の方がまだマシだ。車の振動で照準もまともに合わせられないバッドコンディション。こんな悪条件で寸分の狂いもなく目標を射抜くならば、ワイルド・ビル・ヒコックかバッファロー・ビルでも呼ぶしかない。
頬を冷たい雨が伝う。その時だった。
雨でぼやけた視界内でサイモンはそれを捉えた。
黒豹にも見えるマスタングの運転席からぬっと腕が出たのと、すぐ横を走るSUVのサンルーフから上半身を出す男がアサルトライフルの銃身をこちらに傾けたのは、ほぼ同時のことだった。
「マズい」
何がまずいのかはわからないが、五感が危機を訴えていた。長年の刑事生活で得た直感だ。サイモンはクレアに指示を出そうとして――瞬間、体を振り落とされそうになるほど、シエラの車体が大きくブレた。
足元からクレアの悲鳴が聞こえる。
ヘッドライトがSUVを捉える。
そして、そのまま加速をつけたシエラはSUVの腹を抉り、濡れた道路に摩擦痕を残しながら、重厚な金属音を鳴らし、二台とも停止した。
フロント部から白い蒸気が立ちこめる。SUVのヘッドライトが不規則に明滅を繰り返し、その車中に動くものはない。
サイモンが、すんでのところで車内に引っ込むことが出来たのは僥倖としかいえない。それでも体の節々は悲鳴を上げ、じっとりとした汗が背筋を垂れた。
「……ケガは?」
「……ありません」
クレアの額はガラスの破片でぱっくり割れていた。
「血ぃ出てるぞ。ったく無茶し過ぎだ。これじゃあ、連中を追えない」
口では文句を言いつつ、ジャケットの内ポケットからハンカチを取り出し、クレアの傷に当てる。
「……何が起きたのか分かりません。突然、腕が誰かに操られたみたいに自由が効かなくなって……すいません」
ぽつりぽつりと言った。サイモンは溜息をひとつ、ついた。
「傷口を抑えてろ。俺は前で伸びてるクズどもを縛ってくる。それと壊れてなきゃ、無線で応援と封鎖を要請しておけ」
「サイモン」
「なんだ」
「このハンカチ、可愛い絵柄ですね」
サイモンは答えなかった。
漆黒の逃走車の姿は、もう見えない。
すぐ脇を、軍の装甲車のようなバンが猛然と通り過ぎていった。青い光を散らしながら――




