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018 闇で蠢く影

 澄み切った高音から、腹の底を揺さぶる重低音まで、雑多な建築音響が飛び交う造船所敷地内でも、倉庫脇の第二連絡橋梁(きょうりょう)は比較的閑静を保っている場所だった。

 現にいまも自分以外、橋梁付近に人影は見当たらない。

 ポリエステル製の雨合羽に身を包んだその男は、ごく自然な所作で雑談に興じる仲間の輪から抜け出し、人目を避けながら第二連絡橋梁上で定期報告を行っていた。

「そうだ……〝ミスター・アフリカ〟がここにいる。あぁ、……どういう訳だかな。これはチャンスだ」

 防水性の通信端末からクリアな音声が返ってくる。

「他に誰がいると思う? 驚くなよ、昼間の銃撃犯の片割れだ……男の方だが、連中も眼を光らせてる。助け出すのは無理だ……いいから、突入チームを寄こしてくれ。拷問が長引けばお陀仏(ゲームオーバー)だぞ」

 遠く離れた雲間から、眼も眩むような力強い閃光とともに、雷鳴が鳴り響いた。

「組織に潜って二年だぞ、こんな機会はもうない! 闇市場をわがもの顔で飛び回る(はえ)どもを踏み潰すんだ……ああ、それにバザロフの残った息子もいるんだ!」

 男は己の人生を、約二年に及ぶ生き地獄のような日々を、脳裏に反芻した。民間企業を恐喝し、薬漬けの女の世話をし、時には殺人の片棒を担ぐような日々。黒く塗り潰された世界。男は自分の心身が限界に近付いていることを感じ取っていた。


 ――日常に戻りたい。こんなイカれた世界からおさらばしたい。


 男の頭の中は、平穏な日々への回帰願望で埋め尽くされていた。

 だからこそ、男は声を潜めるのも忘れて、懇願さえ滲ませた怒声を通信端末の向こう側の人物――潜入捜査官である男の上司に向けた。

 端末から宥め賺す言葉が返ってくる。

 二年間、聞き続けた言葉だ。

「抱っこに寝んねにもうウンザリだ、あんたが代わってみればいい! 人間以下の猿どもと仲良くできるってんならな!」

 男は苛立ち混じりに水気を帯びた髪を掻き毟った。

 悪党どもを一網打尽にする絶好の機会。ここで動かなければ次はない。そんな確信めいた予感が男にはあった。

 神よ、どうかこの身を救ってくれ――固唾を飲んで上司の指示を待ち、ややあって発せられた了承の言葉。いっときが無限に思える空白な時間、その末に返ってきたのは男の考えを肯定するものだった。

 ロシア部も事の重大性は理解しているらしい。

 突入チームを準備するのに時間はかかるが、今日中にケリを付けるという上司の心強いアピール。男の人生を捧げた潜入捜査が実ろうとしていた。男は思わず歓喜の声を上げそうになった。




 検事局のビルの一室。手の中の携帯端末を折り畳んだ初老の男は、頭に乗ったハンチングキャップを煩わしそうに外した。被り物から出てきたのは、豆電球のような禿頭だ。

「これでよろしいですか、検事長どの」

 男は苦々しげな表情で、この部屋の主に言った。

 豪奢なオフィスチェアに腰掛けたハンプソンは、鷹揚に頷き、

「充分だ。現地の警察には、わたしから手を回しておこう」

「警察だけでも突入は可能ですが」

 これは警察の、ロシア部の仕事だ。男の口調は、法畑の人間がしゃしゃるな、と言外に滲ませていた。ハンプソンはアルカイックな微笑みを浮かべ、

「令状はね。わたしが言っているのは、国章付きの紙切れのことだよ」

「まあ、あなたの後ろ盾を得たと考えておきましょう」

 禿頭の男――ブラウンは、シニシズムの塊のような声を出した。




 手持ち無沙汰となった武器商人ティアドロップとその一味は、造船所の一角にある休憩所で紅茶を啜っていた。

 部下が持ち込んだティーポットセットに湯気が立つ熱々の紅茶カップ、出来合いのスコーンに苺ジャムがこんもり盛られた白磁の器、それらアイテムを無骨なスチールテーブルの上一面に並べて、優美の欠片もないクリーム・ティーへと洒落込んだ武器商人一同。

 何とも灰汁(あく)が強い光景を前に、やや困惑気味の表情で、席をともにする轟然たる風体のロシア人たち。もちろん彼らにも、ティアドロップ手ずから入れたお茶が振る舞われており、武器商人の監視役を兼ねた男たちの気概もなんのその、完全に休憩所一座はティアドロップの独壇場と化していた。


「というわけで、世間一般で後ろ指をさされる我々の商売を後押ししているのは、政府上層部や各国諜報機関群というわけでして。よぉく、事情通気取りが悪徳ビジネスだなんだと騒ぎ立てますが、実際、商品の流通をフレキシブル形態まで作り上げたのは、彼らのお膳立てもあったからこそなのです」

 呑気に茶飲み話を披露する武器商人の相手をするのは、医療ガーゼを片目に貼る男、ユーリだ。ミハイルから過剰な折檻を受けたユーリは、病院で治療を受けることもできず、眼前のプロデューサーもどきの茶飲み相手をさせられていた。

「聞いてますか? ユーリくん。世界経済の裏事情を聞く機会なぞ、そうそうありませんよ。何事も勉強! ニュースチャンネルでは報じない凄話(すごばな)です。わたしの話に耳を傾けて損はさせませんぞ!」

「ああ、聞こえてるさ……」

 片方が闇に包まれた視線を手元の錠剤薬入り容器に向け、ユーリは気もそぞろに返事をした。

「そういえば、米政府(ビッグブラザー)肝入りのパワードスーツが完成間近だとか。んん~、フィールドテスト見に行きたいですな! ユーリくんも興味あるならどうです一緒に。新時代の足音をともに拝聴しませんか!」

「いいや、結構だよ……」

「それは残念。なんでも流体磁性金属を用いてるとかで、防弾性と耐衝撃性の限界値がトンでもないことになってるとか。見た目はアイアンマン、中身はT‐1000とか激アツですな!」

「ああ、アツいね……」

 女みたく長ったらしいブルネットを振り回して、力の籠もった声で力説するティアドロップ。ナルシスの入ったヴィジュアル系バンドにも匹敵する、ブッ殺したくなるキャラクターっぷりにユーリの苛立ちは時間を経るごとに増幅していく。

「過去現在を通じて、戦地を駆ける兵士のペイロード上限は四〇キロが精々と言われてきましたが、こりゃブレイクスルーが起きますぞ。全身アーマーの不死身の軍勢が戦場を跋扈する時代が到来するのです、こりゃ革命ですよ革命!」

「革命ね、悪いが興味無いね……」

「ふむ、ユーリくんは現実に即した話題はお嫌いと……では、こういった裏話はいかがかな?」


 話題の転換。わざとらしい咳払い。


「医学、経済、テクノロジー、宇宙科学……米ソの競争が激化した冷戦時代の話です。星を夢見たフォンブラウンがナチスに協力し、V2ロケットがロンドンに落ちた緊張期。当時、世界をリードしていた各国は軍事戦略を大幅に見直さざるを得なくなりました。陸海空に加えて、新たに宇宙空間を主戦場とした戦術理論の開発が行われたのです」

 武器商人の話は多岐に渡る。その内容は、確かに裏事情とも呼べるものだった。

「超高高度からのピンポイント爆撃、大気圏外における活動可能域の拡張、月到達への大きな夢……」

 大仰な手振りで話を盛り立てる。

「ただし、実際人間を宇宙に放り込んだらどうなるか……熱放射、自由‐自由放射、スペクトル線といった宇宙電波に非熱的な多粒子系と、広大なフロンティアには人間の身体に害を及ぼす物質が溢れている訳です」

 中には専門知識を含んだトークテーマもあり、武器商人が面白がって、(うそぶ)いているのではないかと疑いかねない話もあった。

「悩ましい問題を前に、主要各国の研究者たちは〝あること〟を閃きました。要は、過酷環境に適応した亜人間(デミヒューマン)を作り上げてしまえばいいとね。結果、歴史の裏でニュルンベルク・コードを無視した非道な人体実験が繰り返されてきた訳ですな!」

 いつの間にやら、トークテーマは武器売買の歴史からSF分野にまで飛躍。話の締めくくりに、ティアドロップは満面の笑みをユーリに向けた。

「どうです、ユーリくん。与太話だと思いますか? なかなかに興味を引くでしょう! 今度、酒の席で女性に披露して御覧なさい。人気者になれますよ!」

「ああ、いつかな……」


 なんとも温度差のある会話だった。それでも、ティアドロップは気を害した風でもなく、ペラペラと最新の武器事情やらトレンドフォルムやらをユーリに聞かせ続けた。休むことなく浴びせられる怒涛の口撃に、聴き役に徹していたユーリも我慢の限界というものだ。

 お粗末な治療を受けただけの左眼窩が熱を帯びる。針で刺すような疼痛に、昨日まであったものがないという不快感。ティアドロップのキーの高い声がひどく癪に障った。

 我慢ならなくなったユーリが銃を抜くカウントダウンに入った時、不意に横合いから声がかかった。

「おい」

 ラビだった。

「長いクソだったな」

「ちゃんと流したか? クソ野郎」

 テーブルを囲む男たちが囃し立てる。

「うるせぇな。寒いから、キンタマといっしょにケツの穴も(すぼ)まっちまったんだよ」

 男たちがどっと笑う。それらに構わず、ラビはティアドロップを真正面に見据えた。

「聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「お答えできることなら」

 椅子に寛ぎながら、猫のような愛想を浮かべる武器商人に、ラビは片手を(かざ)した。大したことじゃない、というように。

「いや、ただ、ちょっと気になっただけなんだ」

「いけませんなぁ、心にしこりを残すのは。さぁさ、なんでもお聞きくださいな」

 ティアドロップの飄々とした態度に、ラビは甘んじることにした。

「じゃあ聞くが。なんで、リヴァプールに寄ったんだ? あっちで船を解体(バラ)してるが、この国で時間を食えば沿岸警備隊の目に留まっちまうぜ」

 その疑問は他の連中も抱いていたらしく、ロシア人たちは一様にそのでかい図体をティアドロップへと向けた。当の武器商人はというと、男たちのプレッシャーにも動じず、ティーカップを傾けている。

 その疑問に答えるのは、ティアドロップにとってやぶさかではなかった。だが、肝心の答えに真偽を見出す術を男たちは持ち合わせていない。ティアドロップは笑みを深くした。

 意図的に漏らして構わない情報。

 決して口外してはいけない情報。

 今回の寄港にはさまざまな要因が絡んでいる。

 いっときばかり逡巡し、最適の答えを選り分けていく。

「どうなんだ?」

 ラビが催促する。

 しばし考えた末に、胡乱な口ぶりで、

「そうですな……実はインターポール内にある私のファンクラブに、航路のタレコミがあったらしくて」

「なんだ、仲間に裏切られたのか?」と、ラビ。

「その可能性も無きにしも非ず、ですな。まァ、敵の多い職業ですから致し方ありません」

「あの武器はアフリカの内戦に使われるんだろう?」

「ええ、まったく困ったものです。期限を守らない商売人など、馬に蹴られて殺されても文句は言えない」

 船の外装を弄り直し、新たな自動船舶識別装置を積み込む。船一隻を丸々リフォームするとなると、懐をホロ―ポイントで抉られる程度には痛い出費だが、禁輸措置をすり抜けるための必要経費というやつだ。

 男たちは納得したのか、姿勢を元に戻し、仲間内での雑談へと興じていった。ユーリに至っては冷めた面持ちで手元の雑誌へと視線を向けている。


 ポケットの中の通信端末がバイブする。ティアドロップは端末に送られたメールの文面に目を通し、「婆さまからです。カメラのレンズが曇って使えない、とかなんとか。『不変のFマウント』時代の人ですから」と、部下の一人にぼやいた。

 部下の頬が引き攣るのを見やり、

「まったくもって、困ったものです」

 ティアドロップは、ぽつっと呟いた。

 口から漏れた自嘲めいた言葉は、誰に聞かれることなく、男たちの喧騒に溶けて消えた。武器を運ぶ涙滴の死商人――その表情には、胡散臭い役者のような笑みが張り付いていた。


        ◇


 噛みつきブラットはホワイトの屋敷を出た後、東から西へと方々を飛び回っていた。行く先々で、政財界の後ろめたい経歴を持つお偉柄と密談と買収を行っていたのだ。ホワイトから預けられた五〇ポンド札がみっちり詰まっていたジュラルミンケースは、いまやすっかり、軽くなっていた。

 車の屋根を大粒の雨が叩いている。付けっ放しのカーラジオからは、本日昼頃から立て続けに発生した二件の銃撃事件と、連続爆破事件の関連性を得意げに語るコメンテーターの声が流れている。

 ブラットは運転席の窓から空を見上げた。紫灰色の怒りを孕んだ雲が、稲光にぱっと照らされ、直後に雷鳴が轟然と近くを通り去った。


 ルームミラーで顔色を確認。

 見ようによっては愛嬌のあるブルドック顔がそこにあった。


 フェンスを挟んだハイウェイの高架下では、雨を凌ぐ浮浪者が、ドラム缶に火をくべて暖をとっている。フェンスの反対側には店内が真っ暗なパーラー、鋼鉄のバーをめぐらせたチケットブース、一昨年流行った宣伝広告が立てかけられた映画館、蜘蛛の巣状にひび割れた暴動用ゲート。半ばスラムと化している商業施設跡地の駐車場で、ブラットは最後の密談の相手を待っていた。

 約束の時間まで残り五分を過ぎた時、ハイビームにしたヘッドライトの光がサイドミラーに映り込んだ。黒の高級セダンだ。窓には光学スモークフィルムが貼ってある。

 特例警護車法の許可がなければ厳罰が下される高濃度透過率を持つガラスとして、政治家や高級官僚が好んで使用。盗聴や盗撮の一切を遮断する、特殊電磁フィルターの機能を持つ優れものだ。

 高級セダンはブラットの車の斜め後ろに離れて止まった。

 チカチカとパッシングが二回。

 こっちに来い、という合図だ。

 ブラットはネクタイをキュッと締めると、ジュラルミンケースを片手に車を降りた。見れば、高級セダンからも黒服の男が一人降りている。

 男はおもむろにブラットに近寄ると、その手を(かざ)した。

「武器は持たない主義だ」

 雨がひどい。濡れ鼠になる前にとっとと屋根の下に入れろ、と言外にブラットが告げると、

「あなたがスパイかどうかのチェックさ」

 男は渋い笑みを見せて、そう答えた。

 肩をすくめて待っていると、唐突に短い電子音が二回、立て続けに鳴った。

「後部座席にどうぞ」

 男がきびすを返したので、ブラットも後に続く。

 おそらく、袖の中に小型の盗聴電波探知機を仕込んでいたのだろう。背中がすすけている輩っていうのは、どいつもガードが堅い。


 呆れ調子になりながら高級セダンに乗り込む。中は薄暗かった。すでに後部座席には、先程の男よりも一回り歳を食った感じの中年の男が足を組んで坐っていた。男が車窓をノックすると、運転席に乗り込んだ黒服の男がセンターコンソールに手を伸ばし、1ペニー硬貨ほどの大きさのボタンを押し込んだ。

 小さな駆動音。薄紺色の電動パーテーションが、車の前後シートを区切るように垂直に昇った。運転席が透けて見えるほど厚みのないブラインドだが、遮音性能はかなり高いようだった。ブラットは感覚で、後部座席が密談の場にふさわしい完全個室になったことを感じ取った。

「君が噂のブラットか」

 歳相応の声色で男が告げるので、

「ええ、あなたが党の代理人(エージェント)ですね?」

「そうだ。クーパーとでも呼んでくれ」

 互いに確認の意味合いも込めて名乗り合う。

 窓枠上のへりに取り付けられたブルーのインテリア照明を頼りに、ブラットは先に乗り合わせた男の姿に目をやった。


 クーパー――そう名乗る男の姿は黒づくめだった。喉元までボタンをはめた黒いシャツに金のカフリンクス、手染めのシルク・タイ、黒い上下のスーツ、真っ黒な髪をグリースで総髪に撫でつけており、トライバル刺繍の入った銀縁眼鏡をかけている。アン・ライスの『ヴァンパイア・クロニクルズ』を現代風に書き直したら、きっと、夜の街を徘徊するのはこんな恰好の男になるのだろう。

 天下往来で映える光沢スーツを着た自分とは、水と油と言っていい真逆さだった。


「それで?」と、クーパー。「君は裏でこそこそと。なにを企んでいる?」

 ブラットは佇まいを正した。

「お互い忙しい身です。オープンにいきましょう」

「同意見だ。始めてくれ」

「はい。あなたにお願いしたいことはひとつ。現在、審議過程にある米国グリーンバイオインダストリー及び、当国ローテック・バイオテックグループの企業合併――この事案承認の妨害を協力していただきたい」

「ナノバイオテクノロジーの応用による医学分野の発展は、この国に莫大な金をもたらしている。ナノボットを利用した薬物配送システム、組織再建、侵襲治療……いまやこれらの技術は、あらゆる市場において新しい価値を創成する魔法となったわけだが」

「DNAの結着性を利用したナノボットですね。DNAの配列を人工的に調整することで、特定の分子に出会った時にのみ、二本鎖の折り畳み構造がほどかれ、ナノボットの腹につまった薬が投与される最新医療システム。コンピュータと同レベルまで送出および制御精度を高めたナノボットが、がん患者から戦地での負傷兵まで面倒をみてくれる――もはや、先進国の社会構造発展度も、ナノバイオテクノロジーの漸進具合によりけりといっていいでしょうね」

「その通り」クーパーはゆるりとかぶりを振り、「そこまでわかっていながら、君は、世界最大規模になるバイオ企業の誕生を望まないと?」

「ええ」ブラットは端然と頷いた。「これはカーティス・ホワイトの意向と受け取ってもらって結構です」

 クーパーは腹を膨らませると一気に息を吐ききった。

「かのご老体はいまだに野心をのさばらすか」

「国益拡大基調の追求だけが、いまや彼の生きる理由ですから」

「でも、それだけじゃないんだろう?」

 クーパーの断言語調に、ブラットの首筋を汗が伝う。細めたまなこから覗く怜悧な視線。ブルーの車内灯に映し出された蒼白い肌色は、限りなくドラキュラそのものへと似寄っていた。

「ええ……もともと今回の合併話は重役会の一部、急進派と呼ばれるグループを中心に持ち上がったもの。旧メディテック社をめぐる買収騒動を覚えていますか?」

「何年か前に話題になったやつだね。ローズバイオ社によるメディテック社への強引な株式公開買い付けの末に誕生したのが、現ローテック社だ」

「何かしらの弱みを握られていたのでしょう。企業合併の結果は資本規模6:4に対し、役員比率7:3。メディテック側が一方的に割りを食うものだった」

「さぞや憤慨しただろうね。メディテックの人間は」

「アラビアに、『四つのものは返ってこない』という格言があります。口から出た言葉、放たれた矢、過去の生活、失った機会……旧メディテック幹部たちは巻き返しの機会を窺っていた」

 クーパーが鷹揚に頷いた。

「なるほど。現ローテック重役会の合併急進派を構成するのが、旧メディテックの重鎮というわけか」

「彼らはグリーン社と積極的に癒着することで、過去の栄華を取り戻す腹積もりのようですが、そうは問屋が卸さない。わかるでしょう?」

 ブラットが光沢ストライプの入った肩をわざとらしく揺すった。

 クーパーはふんと鼻を鳴らす。

「審議は三週目に入っている。生半可なネタじゃ止められないのは承知の上か?」

「もちろんですとも。あなた方には、ただお膳立てをお願いしたい」

 ブラットは高級セダンに持ち込んだジュラルミンケースを開いた。ケースから取り出したのは何枚もの書類を挟んだバインダーで、これはホワイトの閑散とした洋館でブラットが熱心に読み込んでいたものだった。

「どうぞ、面白いですよ」

 ブラットのふざけた科白に、クーパーが怪訝な顔をする。

 だが、その表情も、受け取ったバインダーに目を通していく内にほぐれていき、クーパーは思わずといった風に呻った。

「……なるほど、確かに面白い。これをどこで、と聞くのは野暮かな」

「出所はとあるコンサルティング会社。入手経路は、まぁ秘密ということで」

「過去五年分の違法献金リストか。これが世間に流出すれば、与野党関係なく、政界のダニどもが木端微塵に吹き飛ぶだろう」

「回顧録ブームのご時世において、政治家の口を黙らせるには腕力が必要でしょう」

「確かにね。それで? 何をしてほしいんだ?」

「聴聞委員会を開いてほしいのです。それも、我々の息のかかった関係者有志によるものを」

「テイクオーバー・パネルは民間の自主機関だ。わざわざ俺の手を借りなくても関係諸氏に頭を下げればいい」

「時機を見定めての設置となると、話は別ですから」

「無茶を言ってくれる」


 無茶だって? よくいう(・・・・)。ブラットは外面にはおくびも出さずに、心の裡でせせら笑った。自分がせせこましい権力暗闘の仲介人だとすれば、横に坐る黒一色に身をくるんだクーパー何某(なにがし)は、政治抗争の闇に線引きするだけの影響力を持った調停人だ。調べによれば、現・与党内閣……リンドバーグ政権樹立に対して、各界隈の有力者層から支持を得るように裏で働きかけたのもこの男だ。

 複雑な政治的、法的、そして市場原理に基づく圧力を意のままに操るクーパーの力は、余りにも強大なもので。……結局のところ、もったいぶってるのだ。人のことは言えないが嫌な性格をしている。政界を切り盛りするこの人物にとって、たかが委員会の一つや二つ、屁でもないのは解りきっていた。


「代価はお手元のバインダー。政争で手にするには何よりの武器となるはずですが?」

 ブラットの言葉にクーパーは窓の外、フェンスの向こう側へと顔を向けた。そこには地球上で五指に入る先進国であるというのに、戦時下を思わせる混迷とした現実が広がっていた。一握りの権力者と一部の国民が物質的に裕福になる一方で、確実に国家が疲弊しているという現実だ。

 国家衰退の兆し――高級セダンを取り囲む光景が、そんな不吉な考えを頭によぎらせる。外に広がる灰色の世界が、何よりも雄弁に語っているのだ。スコットランド右傾化に端を発する、英連邦諸国の独立紛争・内戦。余波の拡大、社会不安の増大、出生率の低下、移民の流入と雇用促進政策の失敗。

 強い国家が求められていた。かつて、この国が栄華の手綱を握っていたように。覇権を背負っていたように。世界の中心であったように……

 クーパーは無意識のうちに口元を手で覆っていた。これは彼が深い思考をするときの癖だった。彼は考える。バインダーに挟まれた紙束が持つ効力を。持つべき者が有効活用した場合に起こる国家の未来を。そこへ、

「どんなもんですかね、クーパーさん。党利党略に使えそうでしょう?」

 頃合いを見計らってブラットが懇願口調で訊いた。

 クーパーの首が元の位置に戻り、目玉だけがくるっと動いた。鋭い視線がブラットの眼とかち合う。

「審議過程の無期限延期、承認文書の白紙撤回、浮き目を狙う投資家連中は阿鼻叫喚の悲鳴を上げるだろうよ」

 もはや、OKしたも同然の口ぶりだった。

 ブラットが顔を綻ばせる。

「世間の目がより大きな事件に向いている、いまがチャンスなのです。国民は爆破テロを防げなかった政府を槍玉に上げ、官僚は揃いも揃ってエリートパニックを起こしている」

「裏で手を回すなら、絶好の機会というわけだ」

「人選はすでに私が。承諾も取り付けています」


 承諾の取り付け――ブラットが国中を走り回り、ジュラルミンケースの中身ががらんとしている理由がこれだった。テイクオーバー・パネル事務局は、プロパー職員及び法律事務所や会計事務所、銀行、証券会社、事業会社からなる出向者で構成されている。

 そして、事務局の機能として、M&A当事者の照会や職権に基づく、個別事案の捜査、監視、シティ・コード(英国におけるM&Aを律する規則集)の解釈、紛争処理への関与がある。

 M&Aが完了した後にのみ、司法審査によって紛争が処理される日本や米国とは異なり、テイクオーバー・パネル(案件の進展と同時に、M&Aに係る紛争処理が行われる仕組み)を逆手に取ったブラットの一手は、まさしく奇策といえた。


「リストは有効に使ってもらって構いません。目的はあくまで聴聞委員会の開催のみですから」

 ブラットが目で、どうだ、と訊いた。

 それを受け、クーパーの唇の端が吊り上がった。先程抱いた心象のせいか、僅かに開いた隙間から覗く歯が、一瞬、好みの獲物にありつけたヴァンパイアの牙みたいに鋭くギラギラと瞬いたような、そんな幻影じみた錯覚をブラットは抱いた。

「余計な色気は出さないか……ふむ、いいだろう。神輿は俺が出す。合併審議に口は出さない。これでどうだ?」

「ええ、それで構いません」

 ブラットがひとつ頷き、

「これでようやく、ネクタイを緩められそうだ」

 垂れた両頬を持ち上げて、唇を剃り返すようにほころばせた。どんよりとした空模様に似つかわしくない、晴れ晴れとした表情である。ぽん、と膝上のジュラルミンケースを叩く。残り少なくなった札束――買収資金の余剰がブラットの取り分(ボーナス)だった。

 フェンスの向こう側。高架陸橋からずっと離れたところで、雷鳴が再び轟いた。

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