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016 急転の報せ

 口の中を形容するならば、ぐつぐつと煮えたぎったシチュー、そう表現するのが妥当だった。ビーフ()スープ()コーン()の三つが、顔面に拳を受ける度に衝撃でかき混ぜられる。

 リズムもクソもなかった。

 空いた方の拳をがむしゃらに相手へと叩き込むだけだ。

 振り上げ、振り降ろす。バン!

 後ろ手を、勢い付ける。バン!

 回転させ、跳ね上げる。バン!

 脳味噌はとっくにシェイクみたいにどろどろで、口内で沸騰したコーン()がポップコーンみたいに外にはじけ飛ぶ。唾が顔面にかかった。自分のではない。癇癪を起こしたガキ大将のように、稚拙な暴力で世界を思うがままにしようとする相手の男のものだ。

「■■セルを――!」

 右の鼓膜はとっくにイカれている。だから、テッドには眼前の男が何を喚いているのかは分からなかった。眼底がグラつく。吐き気はない。吐しゃ物はとっくに足元に広がっている。つば付きニット帽をはぎ取られたウルフヘアからは湯気がほとばしっている。ただ、頭蓋骨を電動ドリルで無理やりこじ開けるような、ひび割れた痛みの濁流が定期的に襲ってくる。


 鎮圧剤が必要だった。

 プログラム被験者が、強力な能力を得たことによって、生涯払うことになる代償、それが〝薬〟である鎮圧剤の接種だ。特脳を用いない日常生活中でも、改善手術を受けた脳は、微弱な電磁波を自動的に検知してしまう。この働きは、ラジオのスイッチをオン・オフするみたく意識下で抑えることはできない。脳の働きが一定水準を超えて〝オーバーワーク〟の状態になると、脳圧および眼底下の圧迫が強まり、顔中の穴という穴から血が噴き出て、やがて死に至る。

 これが特脳者(イルミネーター)に課せられた運命というわけだ。

 そして、日常生活外――任務活動中における特脳使用状況下での昇圧の速度は、普段とは段違いだ。

〝オーバーワーク〟を避け、脳の状態をグリーンゾーンに維持するために鎮圧剤は存在する。とどのつまり、鎮圧剤は特脳者への枷としてあった――一般市場にはけして出回らない、特殊な製造過程を経て生み出される代物なのだから。


 真正面からの衝撃に首が後ろに飛んだ。

 鮮血が花開き、鼻骨が折れた音がした。

 もっとも原始的で、原初でもある闘争手段……握り拳を用いた殴打。破壊の意志が込められた左右二つのそれが、無尽蔵に繰り出される。

「クソ野郎ッ、クソ野郎ッ、よくも俺の弟を!」

 ぼんやりとした視界に分厚い眉に短髪の男が映った。

「貴様の顔を殴り潰してやる!」

 その胸元を見て、ようやくテッドは得心がいった。

「……ぞの、ネッグレス、じっでるぞ、見覚えがある」

「お前が殺したのは俺の弟だ。いいか、よく聞けよカマ野郎! 貴様をなぶってなぶってなぶりまくってやる」

「……ひひっ」

「何が可笑しい!」

 右の拳が頬を捉える。血飛沫がはじける。眼前の男――ミハイルは般若のごとき形相で、隣に佇む無表情の大男との対比がチグハグだ。にちゃり、とテッドは赤い口元を歪に歪めせ、言った。

「……あのトーシロ、馬鹿みだいに撃ぢまぐって…情げないっだらありゃしない、ひひひっ……」

 真っ赤な口内を三日月のように広げ、笑った。呼気が混ざった嘲笑いだった。ハイエナの鳴き声にも似た不気味な笑い声が、室内に広がっていく。

「……パーキー&ピンキーだ」テッドが呟く。

「なんだって?」ミハイルが眉根を寄せた。

「日曜の…あざにやってるアニメの…豚の兄弟のギャラグターさ……おまえら、そっぐりだ」

 弱者の嘲笑。パイプ椅子に紐でくくられ、悶えることもできない裸の男の蔑み。皮肉は死の特効薬で、その薬は常に恐怖を忘れさせる。

 ミハイルは歯がひん曲がりそうなほど、大きな歯軋りをした。その目は煉獄の炎のように無慈悲の赫怒(かくど)を秘めている。

 ミハイルは自分の拳を見た。

 皮膚はズル剥けていまにも骨が見えそうだ。

「拳を痛めちまった。次はこいつを使おう」

 舌打ち混じりに取り出したのは木製のバットだ。

 風切り音――

 テッドは自分の顔面に飛んでくる壁を捉えた。

 ブラックアウト。


 大量の水がテッドの頭を襲った。

 意識は千切れ飛んだままだ。

 数秒経ち、再びバケツ一杯の水が襲った。

 そこでようやく、朦朧とした意識が揺り戻される。頭の中には、ベーブ・ルースがホームランを打ったような快音の響きが、未だ残っている。

 体の重心が急に傾いた。後ろ斜めに引っ張られたのだ。

 顔面を白いタオルで覆われる。

 水の塊が上から降ってくる。一リットルに満たない量を浴びせられ、たったそれだけでテッドは溺れた。湿ったタオルは酸素を通さず、水の泡だけが分厚い布地を(とお)っていく。

 タオルが外される。

 水を嘔吐する。

 タオルを被せられる。

 水を浴びせられる。

 単純にして、もっとも効果のある拷問ルーチンを、何度繰り返したのかわからない。気絶すると殴られるか、水をぶっかけられるかだ。

 閉じた目蓋の裏で、蛍光灯の無機質な明りがぼんやり、残影を残して消えた。

 何秒、いや、何分気絶していたのか、正面に立つ男が変わっていた。太眉男――ミハイルは少し離れたところでパイプ椅子に腰がけている。その脚を、苛ついた子供のように小刻みに揺らしながら、彼はただ、じっと睨みつけるようにテッドを見据えていた。

 いま、テッドの正面にいるのは熊のような体を持つ大男、イヴァンだ。

 殴り手のバトンタッチなのか、イヴァンはその巨躯を窮屈そうに曲げて、なにやら足元で作業をしている。

 かすれた視界にそれをおさめると、どうやらそれは、日曜大工で父親が使うような工具箱だとわかった。

 テッドが訝しげな視線を向けた。

 そんな折だった。

 いままで黙していたイヴァンが口を開いた。

「あいつを知ってるか?」

 カーテンのように吊るされているシーツを捲って、左目に白いガーゼを貼った男が台車を押してやってきた。荷台の上には丸まった人間が乗っている。

「ユーリ」

 ミハイルがあごをしゃくった。

 ユーリと呼ばれた男が頷き返し、荷台上で一ミリも動かない人間の頭を掴み上げ、テッドに見えるように向けた。


 それは哀れなジョージ・スイフトの亡骸だった。無残にも、その喉はぱっくりと切り裂かれ、手足の指は付け根から先がすべて無くなっていた。死後硬直によって全身の関節が中途半端に収縮していて、前衛的な彫刻のように奇妙な体勢で丸まっている。母親の胎盤に繋がれた赤子、もしくは死神の足音に脅える虜囚にも見えるその姿は、どちらにせよ、屠畜まがいの無残な殺され方だった。


「お前らが殺したアイルランド人の連れだ」

 ユーリが片目をひん剥いて言った。医療ガーゼの貼られたもう片方は、血がうっすらと滲んでいる。口角泡を噴きながら獣みたいに呻るユーリを尻目に、イヴァンが冷徹に告げる。

「お前はタフじゃない。もっともっと、みじめな思いをさせてやる。見ろ――」

 床に置かれた工具箱から、イヴァンが取り出したのは二対のブラシだった。毛先が銅線メッキで出来た工業用のカップブラシ。後ろ姿が熊にも見えるほどの大男であるイヴァンが握っても、十分バランスが取れている大きさだ。

「これから、ありとあらゆる苦痛を与える。仲間の情報を話したくなったら話してくれ。お前はただそこに坐っていればいい」

 奇妙なのはブラシから一本の黒いコードが伸びていることだ。床下まで垂れたコードはそのまま床を這い、小型のジュークボックスに似た機械に繋がれていた。

 テッドの視線に気付いたイヴァンが説明する。

「これは船の作業機に使う電源装置だ。いいか、いくら叫ぼうが泣こうが構わないが……絶対に気絶だけはしないでくれよ。いまから何をされるのか自分の目でしっかり見届けるんだ」

 そう言って、イヴァンはゴム手袋をはめた。便器掃除とかに使う肉厚なタイプだ。それから電源装置のスイッチを入れ、メーターの下にくっ付いているつまみを回した。電流がコードを伝って流れ、銅線ブラシがオレンジ色に染まっていく。

 それは灼熱の釜で熱した色で、毛先の周囲が熱によってぼんやりと空気が歪んでいった。

 両手に持ったブラシの毛先を擦り合わせた瞬間、小さな放電音とともに高温になった金属粉が閃光となって爆ぜた。

 火花が夏の羽虫のように散る。


 イヴァンはミハイルとは違い、幾分かの冷静さを保っていた。

 視線をテッドの体へと傾ける。

 鍛えられた体だ。銃創、切創、火傷痕……数多の傷が表皮に刻まれており、持ち主が過酷な人生を送ってきた証しでもあった。

 イヴァンは考える。

 ――こいつは過去に軍に所属していたかもしれない。

 男のへらへらとした態度はふざけたものだが、鍛え上げられた体つきは特殊な訓練をこなした者だけが得られるものだ。

〝この男は生半可な暴力では屈しない〟

 やるなら徹底的に。破壊の傷を刻みこむ。死んだ仲間の分まで。

 自然と唇の端が上へと曲がった。

 イヴァンは恐悦にも似たサディスティックな笑顔を(のぞ)かせた。

「血は水よりも濃い。仲間の死はお前の血で償え」


        ◇


「ババァ! これダイエットベーコンじゃないか!」

「うふふ。体にいいでしょ。なんと、塩分十五%カットよ!」

「僕の体は塩分と脂見で出来てんだ、勝手にレシピいじんなよなっ」

「節制は大事よ、マフィンちゃん」

「ババァにモンテスキューの名言を教えてやる。いわく、過度な食事制限は厄介な病気である、だ。そのつるってんの灰色脳襞パターンに刻みこんどけ!」

「ミルトン、あんたそのうち、自分のケツも満足に拭けなくなっちゃうわね。その腹みて確信したわ。オムツ生活になる前に、さっさとダイエットするなり自殺するなりした方がいいんじゃない」

「あ~、メイド型のオートマトン、ジャップどもさっさと開発しないかな。体温なくていいから、文句言わない従順な嫁がほしい」

「おい、グウェン。肉だけじゃなくてもっと野菜取れ。ロレッタにも言われたろーが」

「ちゃんとポテトもケチャップも取ってるよ」

「これ、ウィル! 食事中にピコピコやらないの!」

「マイクや、この赤いタイツをはいた悪魔みたいのが倒せんのだが」

「レッドアリーマーは奇襲のタイミングを先読みするんだよ。ジジィには反射神経がないから、僕があげたチートデータ使えって」

「ボケじじい! 早くやめないとしわだらけのケツを蹴っ飛ばすわよ!」

「五人分の食事なのか、これ。ここに来るたび太っちまう」

「あぁっ! グウェン、それ僕のコーラ!」

「水飲め、デブ」

 食卓を彩るのはアビーお手製のチーズ入りミートパイ、玉葱とジャガイモの揚げ物、オリーブオイルのたっぷりかかったトマト・コンフィ、人参のグラッセ。ローヌ風牛肉のマリニエールに、グウェンとミルトンが一切手をつけていないサラダボウル。

 賑やかなさざめきと食器が奏でる音が料理を覆い、この場にいる全員が非合法な職業に従事しているにもかかわらず、食事の時間は穏やかに進んでいた。


 ダックスフンドの耳のようなものが左右から垂れている奇怪な形状のテレビでは、今季二回目の党首選出を果たした英国首相が連続爆破事件についての質疑を行っていた。

 首相及び閣僚へのクエスチョンタイムだ。

 議会における議事日程の一つで、与野党の役職に就いていない議員から首相に対して質問できる時間帯を指す。

 野党議員からの質問は政府への追及、批判、失策を論じたりと気抜けする程度には見所があるが、同じ与党議員からの質問は当然ながら政府の正しさをアピールするものが多く、彼らの身内贔屓が鼻につく「下らない演劇」に見えるのは、北半球南半球、クロシロ黄色茶色問わず、どこの国でも同じことだろう。


 爆弾処理は成功しました! これもひとえに、各政府機関が協調にいたった結果です。われわれはテロ行為を断じて認めません! われわれは今回のテロ攻撃を断じて許しません!


 画面内にて、オーバーな身振りで大言を吐いているのは老年の与党議員だった。地上でバタフライでもしてるのかと疑わしくなるほど、頻繁に腕を振り上げし、連続爆破事件に対する政府の対応の誠実さを謳っている。彼が放言を腕でひとかき(・・・・)する度に、議場からは歓声とブーイングが交互に飛びだす。

 その姿は溺れた蛙みたいで、酷く滑稽だった。

 シミのついたゲームボーイを未だに離さないウィルが鼻で笑う。

「気に入られたいのさ。内閣の面々に」

「あら、いまの政権は頑張ってるじゃない。特に首相のニコラスなんて最高に渋メンだわぁ。あたしのハートに響いちゃう!」

「バカたれ! あんなのどこがいいんだ。顔だけのボンクラだ。どうせ、ニルヴァーナ聞いて育った若造がワルツ聞いて喜ぶと思ってる世間知らずだ。マイク! お前も色呆けバアさんに何か言ってやれ!」

「ひょっ」

 話題を振られたミルトンが素っ頓狂な声をあげて、背筋をピンと張った。

 二人がやんやと言い合っても関知しないでおきたかったのだ。

 ミルトンの脳内には先程の局長の言葉がぐるぐると渦巻いていた。

 どこに仕掛けを施した黒幕とやらの地雷があるか分からない。

 過去の経験上、踏み込んではならない一線があることを、彼はいやというほど理解していた。

「あぁうんいいんじゃない僕に似てるし五〇から始める恋もアリさ」

「なんで棒読み」

 手に付いたムースを舐め取りながら、グウェンは呆れ顔で呟いた。


 演説台では、政治に無縁なおばさま方を、虜にしてやまない渋い顔立ちの首相が、力強いトーンで声を張り上げている。

 グウェンはローストビーフをかじりながら、胡乱げにテレビを見た。

 ニコラス・ジョン・リンドバーグ――かつて陸軍大尉として戦場を駆け、アフガニスタン駐留中に敵の待ち伏せを受け、負傷。榴弾の破片を浴びながらも、増援が来るまで味方車輌を敵攻撃から守ったとして、一等級勲章であるヴィクトリア十字章を授与される。

 アフガン帰還兵として軍役を終えた彼は、国防関係担当スポークスマンとして活躍。当時の実績を買われ、影の内閣(シャドウキャビネット)に閣僚として参加。その後、軍閥からの支持を受けて〝強健な国家(スローガン)〟を掲げ、新たなテロリズムが横行する世界に危機感を覚えた国民の支持層を中軸に、二年前の総選挙で保守党を地滑り的勝利に導いた人物。

 画面には頬を張り上げ、鋭い視線を傾けながら、声高に正義を主張するニコラスの姿が映っていた。

 俳優だとブライアン・クランストンに似ているだろう。


 ――ムカつく顔だ。

 グウェンはニコラスの顔が気に食わなかった。

 純粋にタイプじゃないこともあるが、時折カメラに向けられる流し目や、いかにもマチズモらしい喋り方だったり、着ているスーツのセンスなど、自分とは真逆の人間のようで気味が悪いのだ。

 カメラがニコラスの表情を追う度に、何とも言えない気持ちになり、手近にあったパイを喉にかき込む。

 トマトの酸味とミルクが染みた肉汁の味が、胸にわだかまる不穏な感情を塗り潰してくれる気がした。そんな心境を知ってか知らずか、隣に坐るアビーが満面の笑みでサラダボウルを差し出した。

「さぁさ、美味しいから緑も食べなさいな」

「いやよ」

「あなた、肌荒れちゃうわよ? 知ってる? 日本人の女が長寿で若々しい理由」

「男社会で踏ん反り返ってるからでしょ」

「ちっが~う! 彼らは規則正しく、質素に、バランス良く三食を食べるからよ。あたしみたいにお肌ピチピチでいたいなら、ちゃんと食べなさい」

 ピチピチのところでミルトンがえずいたが、アビーはお構いなしだ。表情筋をひくつかせるグウェンの手元に、銀のボウルをずずいと寄せた。

「……一口だけね」

「それでいいわ。残りはマフィンちゃんにね」

「おい、ババァふっざけんな!」

 レタスとパプリカの和え物をフォークで一刺し。嫌々口に運び、ニコラスもかくやの渋い顔で咀嚼し飲み込んだ。

「子供舌はイカんぞ」と、ウィル。

「青臭いのが嫌いなの。付け合わせで十分」

「おい、グウェン。鳴ってるぞ」

 フィンチの指摘にズボンのポケットを触ると、携帯端末が浅く振動していた。表示されている番号はテッドのものだ。

 耳に当て通話ボタンを押す。

「テッド? あんた、いまどこに――」


『秩序が狂いました』


 テッドの声ではない。女の声だ。

 グウェンの表情が一気に険呑な翳りを帯びる。

「おまえ誰だ」

『私のことは何とでも。御好きにどうぞ』

 一変した空気にいち早く気づいたフィンチが、視線をグウェンに向けた。

『あなたのお友達、〝イワンの兄弟〟に捕まりましたよ。命が燃え尽きそうなやばい状況ってやつです』

「……」

『KB07RUS。助けたければ、お早めにどうぞ』

 ブツッ、と声が途切れ、それきりだった。無機質で規則正しいビジートーンだけが、グウェンの耳の奥でこだましている。

 ツー、ツー、ツー、

 音が三度繰り返すと、たちどころに着信履歴からテッドの携帯へとリダイヤルする。数秒が経ち、繋がったのは自動音声による案内だ。躊躇わずに舌打ちをしたグウェンを、周りの四人が訝しげに窺い見た。

 四つの視線が集中する。グウェンは小さく溜息をつき、

「テッドがさらわれた」

 声を低めて、静かに告げた。

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