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001 虐殺世界へ

 寄せては返す銃声が、幾重の残響を束ね、

 命を洗う細波となって、魂を淵へと運ぶ。

 鼓膜を透る鉄火の咆哮、沁み入る泣き声。

 燃えたつ大地に寝そべる、幾百の骸たち。

 私の脳が視るものは、紛れもない現実で。

 それらは虐殺の光景。地獄の具現だった。


 みんな死んでいる。みんな死んでしまった。

 村を襲ったのは異国の言葉を話す兵士たち。

 悪夢に飲みこまれて、みな死んでしまった。


 少女は走る。

 ごう、と吹きつける雪嵐。

 夜陰に隠された針葉樹の不気味な葉擦れ。

 純白の雪道に曳かれた二条の轍。トラックが作った浅い窪みを、跨ぐように横たわる老婆が見えた。暗灰色のスカーフを頭に巻いていて、そこから覗く顔は懐かしい夢路から覚めたばかりのように微睡(まどろ)んでいたけれど、轍とともに穿たれた腹腔(ふっこう)からはピンク色の小腸が飛び出ていた。

 てらてら光る臓腑から、白い湯気が立ちこめている。零れた小腸が凍りつかないように、上下に捩じ切られた老婆の断面から、不凍液代わりの血液が噴き出しているのだ。数トンの圧力によって圧し潰された老婆の周囲は、熱を残した血潮のスプリンクラーのせいでみぞれとなっていた。

 (おびただ)しい惨状と臓物の臭気から逃れるように老婆から離れる。

 少し歩くと、今度は木のふもとに背を預けるようにして坐る青年の姿があった。その眼は虚空を彷徨っていて、青と緑のツートーンセーターにはいくつもの赤い斑点模様が浮き出ている。真正面から殺到した銃弾のあられが、青年の身体の中を思いのままに蹂躙し尽くし、背中から突き抜け、森の彼方へと飛び去っていったのだろう。青年の口許は固く結ばれ、まるで死の痛みに耐えているかのよう。


 少女は、轍の続く道を振り返った。

 夜の暗闇に薄らと滲んだ針葉樹の黒いシルエット。その輪郭の上で真っ赤な灯火(ともしび)がちろちろと揺らめいていた。


 少女が生を受けたのは東欧の辺境――そこは、絵葉書に描かれるような美しい村だった。

 人々は仕事に精を出して、一日の終わりに酒瓶を片手に牧歌を朗唱する。季節の折り目には、決して豪華とは言えずとも、歴史と人情溢れる祭りも開かれる。浮浪者はなく、俗世から離れた土地ならではの、緩やかで優しい時の流れがある場所だった。


 少女には双子の姉がいた。

 一卵性の双生児とかで、二人の顔立ちはとても似通っていたけれど、その性格はまるきり違っていた。

 姉は幼くして聡明な頭脳の兆しと静謐な瞳が。妹である少女には愛嬌のある笑顔に勝気な性格を。井戸端会議でも毎度のように話題に上る仲睦まじい姉妹には、親にすら打ち明けた事のない秘密があった。


 自分たちの異常性に気付いたのはいつだったか。

 隣家の幼馴染と河で遊んでいたとき?

 学び舎で退屈な歴史年表を諳んじていたとき?

 農家から貰った新鮮なタルトを取り合って喧嘩したとき?

 どれも違う。

 それは常に視界に在ったのだ。

 ある種の幻想美を備えた、もやの波。

 さながら、祭りで食べたわたあめに光を差したような揺らぎの塊り。

 それは暮らしの中、至るところで見ることができた。他人に打ち明けたのは命を分けた互いのみ。姉妹は秘密を二人だけのものとし、他人には口外しないことを湖畔の番屋で誓った。

 それは子供の遊び心。少女らしいロマンスへの憧れ。

 他人には見えなくて、自分たちだけが見える「神さまからの贈り物」――平穏な世界において、不可思議な力がもたらす小さな緊張感は姉妹の生活を色鮮やかなモノにした。


 不思議な光だった。

 建物と建物の間を繋ぐように。農夫と牛を結ぶように。空と大地を分かつように。眼に映る光は確かに世界に在ったのだ。

 姉妹は幸せだった。

 おとぎの世界は自分たちだけのモノだから。

 世界は美しく、神さまがくれた日常は永遠に続くと信じていた。

 信じて信じて、信じ切っていた。

 世界は移ろいゆくものだと知らなかったのだ。

 だから目の前に赤い景色が広がったとき、何かの間違いだと思った。


 迎えた満月の夜、村は業火に包まれた。


 少女は走る。

 人形のように可愛らしいと褒められた顔を、汗と涙に染めながら走る。季節は冬に差し掛かろうというのに、襲い来る恐怖が冷えた体の芯を滾らせ、全身の血潮をふつふつと沸騰させていく。

 夜の帳が降りた闇のなか、村のそこらここらで火の手が上がっている。黒煙が夜空に向かって伸びていき、天蓋を隠すように宙に敷かれた真っ黒なヴェールが星光りを遮断していく。


 少女は走る。

 窓ガラスの向こう側で、銀色に煌めくナイフが老人の喉を切り裂いた。いつも焼きたての菓子をくれるパン職人だった。昨日までの老人の優しい顔つきは、いまや絶望の表情のまま硬直しており、ぱっくり割れた喉笛から真っ赤な血飛沫を飛び散らしていく。ぱぱぱっと、血が窓ガラスに吹きかかり、透明なガラス板を赤く染め上げた。店内の蝋燭の揺らめきが赤い窓を(とお)り、蠱惑的な色模様を店先に映し出していく。


 少女は走る。

 教会の中庭の前に人だかりがあった。村の男衆で、夜中に叩き起こされた彼らは訳も分からずといった風に脅えていた。寝間着姿の彼らは囚人のように壁の前に幾列かに並ばされ、その後ろに自動小銃を持った兵士たちが立っている。

 その少し離れたところに三つの死体があった。たまらず、兵士に掴みかかってしまったのか、それとも状況を理解しないまま逃亡しようとしたのかは分からないけれど。それは失敗したらしい。

 猟師の青年が怒号を上げ、腰の曲がった老人が命の懇願をしている。抵抗を試みる村人たちを無視して、不気味な笑みを顔に貼りつけた兵士の一人が手を上げた。それを合図にほかの兵士が一斉に銃を構える。

 雷のような銃声が轟いた。それは小やみなく響き続け、銃口から吐き出された鉛玉が、村人たちの身体を容赦なく粉砕していく。

 掃射の音が終わると、あとには血煙だけが残る。もはや彼らには悲鳴を上げることさえ許されない。


 少女は走る。

 牧畜の飼料を保存する小屋に女や子供、乳児が押し込まれていく。その中にはいつも遊んでいる隣家の友人の姿や、祭りで美味しい料理を振る舞う体格のいい主婦たち、陽気な酒場の老婆――そして少女の母親の姿があった。

 扉が閉められ、外側から(かんぬき)が掛けられる。

 兵士たちは白いポリタンクをどこからか持ってくると、その中身を飼料小屋の壁に撒きはじめた。散布を開始してしばらくすると、風にのった揮発性の臭いがあたりに漂いはじめ、兵士たちが小屋から距離を置くのがみえた。

 そのなかの一人が口に咥えた煙草を小屋に向かって投げつけた。

 火種が壁にあたり、大火があがる。熱のゆらめきが一瞬にして小屋を覆い隠し、しばらくして、とても人間とは思えない引き攣れた叫び声があがった。それは、屠殺された家畜が今際の際に上げる絶叫によく似ていた。


 少女は走る。

 煤煙(ばいえん)に紛れ、顔を煤で真っ黒にしながら。時折響く大きな音に体を強張らせながら。走る、走る、走る。

 耳をふさいでは駄目だ。

 すぐ近くに迫った脅威が分からなくなってしまう。

 切羽詰まった大人の怒声、キンキンとした子供の叫び声、鞭打つような火の音、聞く者の心臓を一瞬で冷却させる銃声。それらを濃縮した狂騒が、少女の耳奥にこだまする。

 鼻をすすっては駄目だ。

 おぞましい臭気が胃の腑を突き上げ、嘔気を誘う。

 焼けた脂肪のにおいは、チキンのそれに似ている。あの豚小屋のなかで、かりかりになるまで炒められた母さんのにおい。燻った肉のにおい。髪の毛の焦げた臭い、焼けた内蔵から漂うアンモニアの臭い。それらが渾然となった臭いが世界を浸食するように、きんと澄みきった冬の空気は、あっという間におぞましさを帯びていって。

 いまにも叫びそうになる口を、少女は強く噛み締めた。

 視界には累々たる悲壮の屍と、空薬莢を蒔いた鈍色の河。

 見た事もない巨大な鉄の塊が、崩れた瓦礫の上を跋扈する。

 徒党を組んだ兵士たちがにこやかに嗤いながら、死をばら撒き、命を薙ぎ払っていく。パン、パン、パパパン。ここではないどこか遠くで、あまりに軽やかな銃声がハーモニーを奏でていく。


 死者の河。屍の群れ。

 ガラガラに崩れた建造物、その角ばった煉瓦の壁の稜線をはみ出して、こんもり積み重なった死体の山が見えた。山の表面には、恐怖の形で硬直した骸の顔がいくつも覗いている。山の麓には、現実とは思えない血溜まりができている。もはや池と呼べるほどの大きさだ。

 その臙脂色の液面にあちこちで炎上する建物の灯りが映りこんでいる。てらてらと輝く血の池が中央にそびえる死体の山を照らし、惨たらしい死の形象に神秘的なディテールを上塗りしている。

 それはまるで地獄が魅せる芸術だった。

 人間の骸がごろごろ転がる道を壁に沿って進んでいくと、やがて村の中央広場にでた。広場の真ん中には、サラダボウルのようにいくつもの鉢状の大きな穴が掘られていて、その内のいくつかは既に村人の死体で満杯だった。広場の端っこでは建設重機が新しい穴を掘っている。きっと、まだ何人も死ななければならないのだろう。

 悪魔たちに命の貴賎はなかった。彼らは、平等に私たちへと死を降り注ぐ。頭蓋の下半分が吹き飛ばされた男の子。泥の中で眠る、頭部を失った赤ん坊。その横で添い寝する、脳味噌を大気に曝す痩躯の母親。火に炙られて、針のように細くなった四肢のさきっちょを空に突っ張る、真っ黒な死骸。

 銃口から死の火花が噴き出すたびに、いまもこの村のどこかで見知った人たちが死んでゆく。死んでゆく。

 そう、母さんのように。


 いつの間に私は悪夢に迷い込んでしまったのだろう。そう、少女は疲れ切った頭で自身に問いを投げかけ、すかさず、これは紛れもない現実なのだと弱り切った心を叱咤した。

 目指すべき場所は湖畔の番屋。

 きっとそこにはぐれてしまった姉もいるはず。

 仄暗い獣道を、全身をバネにして走り抜ける。

 心臓の房がせわしなく伸び縮みし、肺のエンジンがとどまることなく蠕動し、未成熟な筋肉の筋が焼きついていく。そうした全身に蓄積した疲労が、関節と関節の隙間に粘土がこびりついているような錯覚を、少女に覚えさせる。

 それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。歩みを止めれば、きっと自分もあの地獄の餌食になってしまうだろうから。

 少女は、轍の続く道を振り返った。

 夜の暗闇に薄らと滲んだ針葉樹の黒いシルエット。その輪郭の上で真っ赤な灯火がちろちろと揺らめいていた。

 あの灯火は虐殺の熱気でできている。

 遠くで響き続ける銃声が世界の崩壊を悲しい旋律で報せてくれる。パン、パパパン、パンパンパン。なだらかで残酷なリズム。移ろいゆく世界が鳴らすチャイム、死の音楽。

 少女は首を振った。

 水の音はすぐそこまできている。

 彼我の境界。彼我とは日常と非日常のことだ。

 脳に付着していく死のイメージ……現実感のない光景を彷徨い抜け、真っ暗な雪道をひたすら走ってここまでやってきたのは、この場所が少女にとって、非日常を騙る日常の聖域だからだった。眼前に星光を反射する青い湖を捉えたとき、たしかに少女は、自分が彼我の境界を跨いだ感覚を抱いた。

 鬱蒼と生い茂った枝で、顔や首を切ってもかまわなかった。少女は湖畔の番屋めがけて、静謐な湖を展望できる丘を一息に下った。

 朽ちた木造りの扉を開ける。

 番屋のなかは空気が停滞していて、屋根にこしらえた天窓からやさしい月光が差しこんでいた。いつだったか母さんが話してくれた「青の光」、ここではない遠い国の伝説。お伽噺。

 物語では村の異端者であるユンタが、彼女を魔女と蔑み迫害する村人に疲れ、水晶の窟を歩いて昇り、自身を慰め夢をみていた。ひと夏のあいだ村に休暇にきた異国の画家ヴィーゴーは、ひょんなことから百姓たちに投石をうけるユンタを助け、仲を深めていく。

 村を訪ねて二度目の満月の夜、不安に駆られた彼が外に出ていつとはなしにモンテイリスタロに輝く青い光に見入ったとき、突然ユンタの姿が月光に照らし出され、彼女は道のない道をよじ登ってゆくのである。画家は驚き、彼女のあとを追って、青い光の道を辿っていく。彼女を追い求めて――

 恋に焦がれる画家と、村から嫌われる乞食女。

 ユンタははたして本当に魔女だったのか。

 少女は物語の結末を知らない。

 母親が最後まで話さなかったからだ。

 でも、母親に聞かされた物語はいつだって少女の心にあった。それはおそらく姉もそうだろう。ここに水晶の窟はないけれど、姉妹には光のもやがあったからだ。幻想的で甘美なゆらぎの塊りが。

 少女は視界を埋め尽くす光の波に、安堵の息を漏らした。

 だから気付かなかった。

 部屋に入ったのは彼女一人ではないことに。すぐ真後ろに漆黒の衣服に身を包んだ、枯木のような男が立っていることに。

 月光を背負った影の男がゆるやかに手を伸ばした。その鳥の骨を想起させる細い指で淀みなく少女の肩を掴むと、万力のごとく締めつけ――それは少女に取って唐突すぎる暴力で、彼我の境界を非日常が浸食してきた合図でもあった。死にたくない――震える喉から溢れんばかりの悲鳴がほとばしる。少女の意志に反して、喉が勝手に震えたのだ。

 男は少女の絶叫を意にも介さず、顔を眼前のうなじに埋め、じっくりとねぶるように嗅いだ。現実的な死の気配を前に、少女は気が遠くなるのを感じた。

 私の命はここで終わってしまうのか。覚悟にも似た諦観の境地で思考が停止しようとした刹那、わずかに宙を切った視線が、部屋奥にあるキャビネットの折れ戸の隙間に焦点を合わせた。

 黒々とした闇からコバルトブルーの瞳がこちらを覗いている。

 妹である少女には、その瞳が誰のものなのかすぐにわかった。

 自分と違い、静かで安らかな色をした瞳。蒼穹の瞳。

 瞳は間違いなく姉のものだった。

 助けを求めようと縋るように姉の瞳を見返し――長い時をともに過ごしてきたからか、あるいは母体の中で魂を分け合った故の精神的絆によるものか。

 少女は完璧に理解した。


 姉は私を見捨てるつもりだ。


 唯一残った希望は瞬く間に絶望へと切り替わり、運命の転換を頭が理解するよりも、いち早くそれを悟った体が重みを増した。少女は、自身の身体が人形のそれへと移りゆくような虚脱感を覚えた。

 万力の如く少女の肩を押さえつけていた男の片手には、いつの間に取り出したのか、小さな注射器が握られていた。

 注射筒には透明の液体が入っている。

 男は少女の細い首筋に一切の躊躇なく針先を食い込ませ、次いで押子をゆっくりと動かした。目盛を黒いガスケットが全て塗りつぶす頃には、少女の肢体はだらりと床に垂れ、もはや一切の抵抗は不可能となっていた。


 混濁した意識の中で、ただ笑うしかない。

 幼い子供でも知っていることだ。

 誰だって自分の命より尊いものは在りはしない。

 それがこの世、絶対の真理なのだと。

 それだけのことだと嗤うほかない。

 哂わなければ心が砕けてしまう。

 人生は死を意識した時が本当の始まりだ。

 私はこの日、一度死んで、再度生まれ変わったのだ。


 そう……これは夢。

 過去の悪夢を追体験しているだけ。

 意識が浮上していく。

 狂乱の叫びで沸騰した世界に、場違いな電子音がこだまする。




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