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影絵  作者: 牧野 茉莉花
5/5

(  五  )

「どこに行くの? 真琴ちゃん。そっちじゃあ、ないでしょう? そんなに簡単に諦めちゃってもいいの?」

 最悪の目覚めだった。いや、むしろ悪夢だ。

 母は夢にまでも出てきて私を苦しめる。狐の執念は海よりも深い。

「女狐が!」

 手元にあった手鏡を投げつけた。何の罪もないその手鏡は、衝撃に耐えることが出来ずに粉々に砕け散った。

 自称・父の彼女を名乗る河中の宣戦布告から数週間。奴は週末に限って、平気で我が家に上がりこむようになった。これは不法侵入だ。犯罪だ。

「オバサン、またいるし。ちょーウゼー」

 うわ言のように言うと、奴は、

「真琴ちゃん、またゲームばっかりしてる。せっかく淳が学校まで行かせてくれてるのに、勉強もしないで勿体ないでしょ」

 と言う。

「あんたには、関係ないでしょ」

 私の目は、テレビ画面だけに集中している。私はまともに相手をするのを放棄した。河中のネチネチとした厭味も、独善的なお説教も、すでに聞き飽きた。私になんて毛の先ほどの興味もないくせに偉そうに説教すんじゃねーよ。わかりやすいアピールしやがってクソが。胃痛で寝込むほどに一時はストレスも極限状態にまで陥った。きっとこいつは私にストレスを与え続けて、この家から追い出そうとしているに違いない。私は、近づいてくるもの全てを傷つけるというように、籠に閉じこもり続けた。

 タバコの火を点ける父に、黙って淹れたてのコーヒーを出す河中が鏡越しに見えた。

「ああ、すまん」

 ひょいと顔をあげて父はずぞぞとコーヒーを飲む。そうそう、牛乳を少し入れないとダメなんだよねこの人。そこがまた可愛いところなんだ。って、なにしてんだこの女。なに勝手に人の家の台所に立ってんの?そして、なに訳のわからない中国茶らしきものを勝手に我が家へ密輸してお上品に嗜んでんの?冷蔵庫に鶴瓶の麦茶が入っとるから、それでも飲んどけや! コントローラーを持つ力が徐々に強くなっていく。鏡越しとはいえ、そんなやり取りを目で追ってしまう自分が情けない。恋人の目ではなく『女』の目をした河中と、鏡越しに小さく目が合ったような気がした。

「どう、おいしい?」

「あ、うん。ありがとう」

「最近、淳が飲みたいタイミングがわかってきたような気がするわ」

「あ、おう。さよか」

「こういうの、拈華微笑っていうのかな? なんか照れくさい」

 なにが照れくさい、だ! 恥ずかしくないのかこの女は。拈華微笑の意味が気になって、手元にあった携帯電話で検索をかけてみる。「ねんげみしょう」わざわざ難しい言葉使ってんじゃねーよ。オヤジだって、そんな言葉知らねーよ。

 出た。『もしかして‥拈華微笑』詳しい意味はわからなかったが、つまり、言葉はなくともお互いがわかりあえる。そんな感じの意味だった。呆気に取られて携帯電話の画面をしばし凝視していると、テレビ画面はゲームオーバーになっていた。せっかくハイスコアが出せそうだったのに…いやいや、そうじゃない。なに言ってんだこの女、ド厚かましいにも程がある! コントローラーを床に叩き付けた。

 父はいつも、ただうろたえるだけだ。女の冷戦が勃発すると口を閉ざし、パソコンに向かう。以前は、タバコをカートンで買ってきていた父だったが、最近は一箱ずつ買ってくるようになった。理由はきっと、外に出るための口実。

「タバコ、買ってくる」

 あぁ、ほら。父は、いつもこうして逃げる。見たくない。聞きたくない。もしかすると、関わりたくない。と思っているのかもしれない。

「はっ!」

 父が出て行ったのを見送れば、河中は水を得た魚になる。本性剥き出しの醜いメスが現れる。

「あんたね、ええ加減にしてくれる? 私と淳の邪魔をせんといてほしいんやけど」

 私は、そんな河中の豹変ぶりを父に話すことはしなかった。話したところで信じてもらえないであろうことも分かっていたし、なにより私はいい子でいたかった。しかしそれもそろそろ限界かもしれない。

「いっちょ前に、押しかけ女房気取りかよ。見苦しい」

 テレビ画面に向き合ったままの状態で言った。河中は再び、はっ。と鼻で笑った。なんとも鼻につく笑い方をする女である。

「私は、あんたみたいなガキに構ってる暇はないねん」

「私もー、お前みたいなオバサンは心底どうでもいいよ」

 ちっ、と舌打ちをして、タバコに火を点ける河中。今日の河中はいつに増して好戦的である。その荒々しい口調は、先ほどまでの猫なで声と違いすぎて、とても同じ人間の声とは思えない。地獄の底から這い上がってくるような低く汚い声。

「あんたみたいな、世間を舐め腐ったガキには反吐が出るわ」

「それは、奇遇。私もお前みたいな痛々しいオバサンには反吐が出るよ。同時に、可哀想にも思うよ」

 ガチャン。と音がした。真後ろに位置する河中が何をしているのかを確認することは出来ないが、恐らく、コーヒーカップを叩きつけでもしたのだろう。育ってきた環境のせいか、私はこのような修羅場でも狼狽することはない。浮き足立つこともない。

「はっ。若さだけを売りにする、典型的な馬鹿女」

「お前はその若さに嫉妬する、典型的な年増女じゃん」

 逃げない。こんな女に、惚れた男を渡すわけにはいかない。

「あんた、私のこと馬鹿にしてるん?」

「いや、お前の(やから)っぷりは凄いと思ってるよ。これが他人事なら尊敬できる。むしろそのド厚かましさは見習いたいくらい」

 麻衣ちゃんや父の影響か、最近の私は明らかに今までになかったボキャブラリーが生まれている。端的にいえば、少し言葉が汚くなったような気がする。あんなにも嫌だった大阪弁が少しずつ伝染(うつ)ってきたのだろうか。

 背後から、毒々しいオーラが漂ってくる。感じる。

 これはほとんど殺意に近い。

「オバサン、私のこと嫌いなんでしょ?」

「大ッ嫌いやね」

「私も、お前なんて大ッ嫌いだよ」

「はっ」

 焚きつけろ。もっともっと、焚きつけろ。河中が理性を失うほどに。野良犬たちが騒ぎだした。間もなく父が帰ってくる。

 動物好きの父は、散歩に出る時には必ず店の余り物を持って出かけた。裏手に集まる野良犬たちに餌を与えるのが父の日課で、日々の楽しみにもなっているようだった。

「どうせ、」

「はあ?」

「どうせお前なんか、生活苦のパパにお金を払って関係を保っているだけの愛人みたいなものなんでしょ? たぶん、お前だけの一方通行だよ」

「…………」

「この間常連の神野さんに言ってたけど、パパは私が結婚するまでは誰とも再婚する気はないって言ってたし。お前、来年にパパと結婚するって思い込んでいるみたいだけど、それもどうせお前の独りよがりなんでしょ」

 河中の顔色がみるみる変化していった。オーラだけではない、その表情からもはっきりと殺意が感じられた。あと一押し、だろう。

「つまりお前は、勘違いしてるだけってことね。要するに、利用されてるだけなんじゃん。可哀想、まじウケる。そろそろ結婚したいもんねぇ、年齢的にも。切実だねぇ」

 勿論、でまかせだ。「そうならいいのにな」という私の希望ともいえる。しかし、河中のこの表情! 河中を疑心暗鬼に陥れるのには、充分な効果を発揮したようである。想像力とは、時として最強の武器となる。「鶴と亀が滑った」そう言っておどけて笑うと、河中の顔はみるみる紅潮していった。こうなるともう止まらない。今までの恨み、悔しさ、全てを河中にぶつけてやる。

「ねぇピエロさん、一人パントマイム楽しい?」

「ねぇ、どうして黙ってるの? 図星なの?」

「ねぇ今どんな気持ち?結婚したかったの? ねぇねぇ」

 矢継ぎ早に挑発を浴びせられた河中の表情は、まさに鬼のようだった。河中の周りをうろうろと回りながらも、次から次へと言葉が湧き上がってきた。すると河中は、私の腕を勢いよく掴み、何かで素早く私の頭を殴った。

 カラン、カラン、とステンレスの灰皿が転がっていくのを確認した私は、いきなりのことに少し驚きながらも、すぐさま河中に向き直った。灰皿の音はゴングだ。耳鳴りのように、遠くから雑音が聞こえる。

「ステンレスかよ。せめて、ガラスにしろよ」

 いくらステンレスでも、正方形の角で殴られれば相当に痛い。が、痛いだけだ。その後しばらくの格闘の末に突き飛ばされた私は、必要以上に大袈裟に吹き飛び、食器棚の角に頭をぶつけた。心の底から湧き上がってくるような(ほのお)。私は、初めて人と戦った。初めて人に食ってかかった。初めて人を殺したいくらいに憎んだ。倒れても倒れても立ち上がり、血走った眼をした不逞の女と戦い、敗れ、結果として頭を強打した挙句、大量の血が流れた。不思議と痛みはない。同じ痛みでもヨッシーに喰らった平手や、体の痛みとは違うけれどもリュウちゃんや父に浴びせられた言葉のほうがよほど痛かった。

ダラリと、濃厚な血が額から流れ落ちる。額から流れた血は、自慢の高い鼻で二手に分かれ、口に流れてきた。私はそれを腕で拭き取り、舌で舐めた。何ともいえない酸っぱいような感覚に舌が痺れた。

「あ…、」

 私の血を見て、河中は理性を取り戻したようだった。しかし、もうこれはダメだろ。どう考えてもお前の負けだろ。そう思うと笑みがこぼれた。やがて、父がゆっくりと引き戸を開く音が聞こえた。

 グッドタイミングだね、まじで。私は瞬時に涙を流し、頭を抱えてその場を飛び出した。痛みよりも、笑みをこらえるのが大変だった。

「真琴!? どないしてん、その血!」

 すれ違いざまに、父が叫んだ。

「あの人に灰皿で殴られて、突き飛ばされたぁ」

 父の胸でさめざめと泣くと、父の着ている白いシャツが赤く染まった。私はそれを見て、綺麗だなと思った。

「ユウコ! ワレ、俺の娘になにさらしとんじゃ!」

 父の声は、釜ヶ崎全土に響き渡ったのではないかというくらい大きくて、河中は、小さく震えていた。

「淳、騙されたらあかん! そのコは狐や。狂ってる」

「なにを訳のわからんことを…、殺されたくなかったら、出て行け」

 父の一言で、河中は大慌てで走り去った。

「女狐め! 狂ってる、狂ってる、」

 河中の捨て台詞は空しく響き、私の作戦は予想以上の成果を得た。

 表では、この家を取り囲むかのように野良犬たちが集まってきていた。犬たちは一斉に吠え、その鳴き声は、まるで私に向かって吠えているようだった。救急車が到着するまでの十五分間、犬たちは絶えず吠え続け、頭が割れるように痛んだ。




 病院に担ぎ込まれた私の意識ははっきりとしていた。あまり、大した傷ではないだろうという気がしていた。事実、それほど大変な傷ではなかったが、検査のために数日間の入院を余儀なくされることになった。不本意だ。私が、こんなところで呑気に横になっているこの間にも、河中は父に接近しているかもしれない。そして、あの老獪な手練手管で父は籠絡されるかもしれない。あぁ。とため息を吐き、私は外を眺めた。大きな総合病院の敷地内にある小さな公園では、子供が砂遊びをしているのが見える。私の視線に気付いた子供たちは手を振っていたが、気付かないふりをした。

「真琴。頭、痛ないか?」

「パパ!」

 雑誌やお菓子、フルーツや着替えなどを両手いっぱいに抱えて父は現れた。

「今、先生と話してきて言うてはったんやけど、明日検査して、明後日には退院できるみたいやわ。大したことなくてよかったな」

「えぇ。もうちょっとゆっくりしたかったのに」

 意地悪く笑うと、父はにっこりと微笑んだ。

「じゃあ、お父ちゃんは仕事行くから。また明日来るわな」

「もう帰っちゃうの? やだ、寂しい」

 ぶ然と言うと、父は私の髪を優しく撫でた。

「ごめんな、いきなり店閉めるわけにはいかへんのや。せやけど、真琴の友達を呼んどいたから、ゆっくりしていってもらい」

 そう言い残し、父は仕事に向かった。大阪市内を一望できるほど景色の良いこの病室から、ずっと父を目で追っていた。父のオンボロセダンは相変わらずの荒い運転で、通天閣の方向に走り去っていった。

 河中の話をしなかった父。家を留守にした数十分の間に、娘と恋人が血まみれの抗争を展開し、挙句娘の醜怪な容貌を見てしまった父の心情はいかほどのものだったのだろうか。

娘を傷つけられて、腹が立っただろうか。

子供に手をあげた恋人を、情けないと思っただろうか。

俺が頼りないから! と、自分自身を責めただろうか。

どれも違うような気がする。父はきっと困ったはずだ。めんどくせぇ。と思ったような気がする。所詮、私と河中は同列だ。ただ、あの時は河中が悪者にしか見えない状況だったから、河中を怒鳴っただけだろう。もしも私が河中に怪我をさせていたのならば、父は私を怒鳴っただろう。悲しいけれど、それが現実なのだ。

父は今日も、河中に会うのだろう。そんなことを考えていると泣けてきた。

「まこっちゃん、大丈夫? 泣いてんの? 頭、痛いん?」

 麻衣ちゃんが駆けつけて来てくれた。私はシーツで乱暴に涙を拭き、努めて明るく振舞った。

「まいまい、どうしたの? わざわざ来てくれたの?」

「お父さんから電話があって、ビックリしたよー。まこっちゃんの携帯やのに、男の人の声やし。なんか事件にでも巻き込まれとるんちゃうかなって思ったやんか!」

「ありがとう」

「どうしたん?」

 私は一部始終を話した。あくまで自分に都合良く、ではあるが。ゆっくりと日が暮れていた。うろこ雲が夕焼け空一面に広がり、西日に染まるまだらな雲を見ていると、自分がとてつもなく下らない生き物に思えてきた。麻衣ちゃんの角度からは見えないように、うまく西日を利用して泣いた。

「まこっちゃんの気持ちもわかるけど、ちょっとそれは、」

「まいまい。ピアス開けて」

 強引に話を変えた。 それ以上言わないで。わかってるの。私は馬鹿なの。麻衣ちゃんだけは、私を責めないで。

 言えなかった。

「え。 ここで?」

「うん」

「なんで?」

「いいから。十個くらい、一気にやって」

「でも…」

「いいから。やって」

「あかんよ。まこっちゃんはまだ若いねんから、もっとしっかり自分を」

 ああ、もういい。言われなくてもわかってる。どうして責められなくてはならないのだろう、あの女相手に立派に戦い抜いた私をどうして褒めてくれないのか。いや、褒めてくれなくたって構わない。せめて、何もなかったことにしてほしい。

 数分沈黙のまま、ぐずぐずと泣き続ける私を哀しそうな眼で見ながら、麻衣ちゃんは呟いた。

「わかった。でも、これが最後やで」

 渋々というように、麻衣ちゃんは私の耳に次々と穴を貫通させていった。麻衣ちゃんの可愛い鞄に通されている大量の安全ピンの中でも少し大きめのピンで、ためらうことなく素早く穴を開けていく。耳を冷やす氷もなく、ひとつ、またひとつと私の耳に穴が開いていく度に私は苦悶の表情を浮かべ、その痛みに耐え続けた。もっともっと苦しめばいい。このまま、激痛のあまり気を失ってしまえばいい。父が見栄を張って、個室病棟に入れてくれてよかった。でもたぶん、ここの費用も河中のお金なんだ。

「消灯の時間ですので、お見舞いの方は…」若い看護師が、たどたどしい口調で麻衣ちゃんに帰宅を促した。気付いているのかいないのか、看護師は私の血まみれの包帯をじっと見つめていた。九の穴が開いた私の耳。合計で十になった。だけど、麻衣ちゃんと同じ数になるにはまだ二十個も足りない。




 翌日、父は見舞いにこなかった。そんな気はしていたが、実際に来ないとなると、悔しさが募った。河中に対する嫉妬、といえなくもない。

 また翌日、退院した私は、真っ直ぐに家に帰宅した。父に文句のひとつでも言わなければ気が済みそうになかった。小汚い長屋の敷居を跨いだ瞬間、とてつもない悪臭が漂ってきて、顔をしかめた。

「うわ、くっさ!」

 台所のテーブルには、父秘蔵のウイスキー『竹鶴』が転がっている。いつも、「十二年モンで、更に十年以上寝かせてるからな。お前が嫁にでも行ったときに、ひとりで泣きながら飲むことにするわ」と、大いに自慢していた父の秘蔵酒である。なぜ、こんなところに転がっているのか。更に周囲を見渡すと、嘔吐物が所狭しと床を埋めつくしていた。吐いたのだろうか。私は、父の吐いた姿を見たことがない。

 父の姿を探した。トイレ、風呂、押入れ。考えられる場所は、しらみつぶしに調べ尽くした。となれば、残っているのは私の部屋しかない。

 勢いよくふすまを開けると、私のベッドに横たわる父がいた。

 瞬間、

「死んでる?」という不安が私を襲った。押し潰されそうな感覚がする。恐る恐る近づくと微かに寝息が聞こえ、私は胸を撫で下ろした。

「パパ! なにしてんの」

 痩せっぽちの体を強引に揺らすと、父は小さく空嘔吐をした。

「真琴?」

 あまりにも情けない声を出すものだから、ついつい笑ってしまった。

「また飲みすぎたの? 昨日、来てくれなかったでしょ。私、ちょー寂しかったんだから」

 とにかく、安心だ。いつもの飲み過ぎだろう。ただ、ここまでの深酒を見たことはないが。

「逃げられたわ」

「え?」

「ユウコに、逃げられた」

 いやいや、ユウコって河中でしょ? 逃げられたっていうよりかはむしろ、追い出したっていう表現の方がこの場合は適切なのでは?

 そんな怪訝な目つきでジロリと睨むと、父は大きく息を吐き出した。その酒臭い息だけで、私は酔いそうな気分になった。

「いいんじゃん? あんな女」

 ぶっきらぼうに言うと、父は私を一睨みした。

「真琴は相性悪かったかもしれんけど、俺は好きやったんや。本気で再婚も考えてた女やったんやぞ」

「いやいや、ただの傷害女じゃん。彼氏の子供に怪我させるような女が? 再婚?」

「お前には、わからん」

「うん、さっぱりわかんない。ちょっと何言ってんのかわかんないです」

 父は両手で顔を覆ってうずくまった。しかし、その指の隙間から確実に私を睨んでいた。

「なに? 殴る?」

 挑発的に言うと、父は吐き捨てた。

「ひとりにしてくれ」

 その言葉を聞いた瞬間、切った頭がズキッと痛んだ。

「淳くん。淳くんは、私からも真琴からも逃げられへんねんよ」

「は?」

 今、私、何を言った? 家の周りには大量の野良犬が集まり、民家の飼い犬も含めて、一斉に遠吠えを始めた。どういうこと?

 物語では、狐は犬に正体を見破られるわけで。だから、犬たちは鳴いているの? じゃあ、やっぱり私は狐の子供なの? 狐…? キツネ? 

気が付けば、私は父の上に乗りかかっていた。河中からのプレゼントであろうダイヤのピアスを強引に引きちぎると、父の耳からは血が流れ出した。私は、そのピアスを開通したての自分の耳に通した。ネトッとした体液が、どこか卑猥な臭いを発していた。

「お前、あいつなんか…」

 父の目は潤んでいた。その薄い胸板は頼りなく、だけど、とても愛らしく思えて、私はその薄い胸をペロリと舐めた。父の体が小さく反応した。

「うるさいなぁ、馬鹿犬どもが。喰うてまうぞ」

 父のズボンを脱がし捨てると、舌がざらついた。

「あんな汚い遣り手ババァみたいな女に淳くんを渡せるかいな。みてみぃ、あんなにキレイに花を育てて。甲斐甲斐しいやないか」

 ふすまの奥にうっすらとリビングが見える。私が入院している間誰も世話をしていなかった彼岸花は、少し元気がなさそうに佇んでいる。

「なぁ。お前の影、耳がついてるぞ」

「こんな感じ?」

 こんこん、こんこん。

 ブラインドから差し込む日差しが作る、ふたつの影。私の影と、私が作る影絵。あはは、

狐が二匹いるよ。ちょーウケる!

 ずっとずっと苛まれてきた狐は、私だったのかもしれない。もしくは、血を分けた本物の狐の執念なのかもしれない。でももう、どっちでもいいか。

「もう、許してくれ」

 父のか細い懇願は、我が家を囲む犬たちの遠吠えにかき消されていった。

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