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影絵  作者: 牧野 茉莉花
4/5

(  四  ) 

「なぁ、ピアス開けてみぃひん?」

 化粧をした男の人がたくさん載っているよくわからない音楽雑誌を眺めながら、唐突に麻衣ちゃんが言った。

「ほんとに、痛くない?」

 麻衣ちゃんの両耳は、合わせて二十五個の穴が開いている。中学生の時に、好奇心でピアスを開けた麻衣ちゃんは、そのチクッとする刺激がクセになって、気が付けば二十五ヶ所も穴を開けてしまったらしい。パンクというか、ロックが趣味ということで、その攻撃的なファッションは人を寄せ付けない威圧感を放っている。顔と口とへそも合わせると、計三十箇所もの穴がある麻衣ちゃんは、ほとんど改造人間だ。

 少し病的だとも思う。が、楽しそうだった。

「痛ないよ。よぉ冷やすと、蚊に刺されたようなもんやから。うちなんか、最後のほうは冷やさんと直接やってたで」

「じゃあ、やってみる」

 恐る恐る言うと麻衣ちゃんは、ビニール袋に大量の氷を入れて持ってくるように指示した。私は、言われるままに指示に従った。よく冷えた氷を左耳に当てていると、段々と感覚がなくなっていくのを感じ、頭が痛くなってきた。

「そろそろええかな」

その無機質な声に、ドキッとした。「いくで」耳元で囁くその声が途切れた瞬間、麻衣ちゃんは右手に持ったピアッサーに力を込めた。

 カシャン!

 大した痛みもなく、私の開通式は無事終了した。自らをこの道の達人という麻衣ちゃんはその後の処置も迅速で、テキパキと動いていた。

「思たより痛なかったやろ?」

「うん。全然痛くなかった。まいまい、すごーい」

 私の耳に穴が開いた。親に貰った体を傷つけて! そんなことは微塵も思わなかった。もしも母がこの姿を見れば、ヒステリックに怒るだろうか。

 きっと怒らないだろう。それどころか、喜んでピアスを買ってきたり、自分のお下がりを無理やり渡してきたり。母はそんな人だった。

「なんか、いいね。もう一箇所やってよ」

 ねだるように言うと、麻衣ちゃんは口元だけで笑った。

「いきなり続けてやったらあかんよ。膿むかどうかも見なあかんし、その内またやってあげる」

「いつ?」

 麻衣ちゃんは、私の髪を撫でながら、

「今度ね」

 と言った。私は、その “今度”を楽しみに、毎日傷跡の消毒に勤しんだ。

 私の机の上には、麻衣ちゃんが残していった消毒液が、今もそのまま残っている。




 彼岸花を買った。

 いつもは無意識に通り過ぎていた商店街の花屋で、その鮮やかさに心打たれた。

 家に帰り、テーブルの上に活けてみる。殺風景な部屋に突如として現れた真っ赤な花は、この家の全てに恐ろしいほど馴染んでいなくて、私は、絵画の中に迷い込んだかのような不気味さを感じた。だが、その佇まいが逆に素敵に感じられた。こんなにも汚い家なのに。この子は、私に買われてしまった以上、この家で生涯を終わらせなければいけないのだ。この子は、私の気紛れで死んでしまう。私が水を与えなければ生きられない。この子の命運は私が握っている。

そんなことを考えていると、笑みがこぼれた。優越感に浸りながら、私は花を愛で続けた。「馬鹿じゃないの?」自分自身に問い続けながらも、歪んだ愛は益々膨らんでいった。




「久しぶり…」

 父と顔を合わせたのは、実に二週間ぶりだった。

 麻衣ちゃんと散々夜遊びをしている時も、父は私に対して何も言うことはなかった。まだ子供が小さい時に離れ離れになり、ある日突然その子供との生活を強いられることになった父だ。子供の怒り方を知らないだけなのかもしれない。

「なんや、この花」

 指先でつつく父に、私は小さく言った。

「彼岸花だよ」

 瞬間、父は指を引っ込めた。

「あぁ、狐花か」

「キツネ花?」

 間抜けな声で言った。父は、タバコに火を点け、煙を大きく吐き出した。

「昔は、この花のこと狐花って呼んだらしいで。俺のバアさんはそう呼んどったな」

「なんで、狐花?」

 私が聞くと、父は、

「さぁな。図書館でも行って調べたらええねん。ほれ、あの。阿倍野にあったやろ」

 と、無愛想に言った。そんな父の態度に少し苛立ちながら、子供のころ母が私に言った言葉を不意に思い出した。

「ママって、狐だったらしいね」

「え?」

 父は、明らかに動揺していた。理由は分からないが、その動揺の理由がやけに気になった。

「狐だったんでしょ?」

 続けて言うと、父は強く否定した。

「そんなわけないやろ。ほんならお前は、狐と人間のあいの子ってことか? アホなこと言うたらあかん」

「なにか隠してる」

「まさか。何を言うとんねん」

 そんなに必死になるか?ただの冗談なのに。考えれば考えるほど、父の態度が怪しく思えて仕方がなかった。

「あーやーしーいぃー」

 そんな私を無視し、父は冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、栓を抜いた。ポン! と、良い音が響いた。そのまま構いもせず、先ほどまでコーヒーを飲んでいた私のマグカップに並々とビールを注ぐ。しつこく食い下がると、父は観念したように呟いた。

「お父ちゃんが生まれたんは生野なんや。真琴が行っとる高校の近所やわ」

「そうなの?」

「おう、あの辺は目つむっとってもあちこちいけるわぃ」

「へー、すごーい」

 父との会話を噛み締めるように、私は久々に父と向き合った。

「いや、まぁそれはええねん。あこは当時も今も見た目は変わらんけど、もしかしたらあん時はもっと閉鎖的やった。かもしれへん」

 父が、なにを言いたいのかわからなかった。

「お母ちゃんと出会ったんは、そんな時や。赤い服着た可愛い女の子やった。真琴そっくりやったわ」

 父のため息雑じりに吐き出したタバコの煙が、天井に溶け込んでいく。長年に渡るタバコのヤニですっかり茶ばんでしまった壁紙はその全てを飲み込むように、父が吐き出した煙を飲み込んでいった。

「よくわかんない」

 私が言うと、父は眉間にしわを寄せて頷いた。

「せやな。真琴には関係ない話や。悪かったな、変な話して」

 父の話の意図するところがまったく理解できなかった。勝手に話を始めて、挙句自己完結だなんて。おいおい、勘弁してくれ。といった感じだった。

 何か反論しなければ治まらない。しかし、父は強引に話を終わらせようとしている。何か言わなければ! その言葉には、意味も理路もなくていい。極端にいってしまえば、父を困らせるだけでいい。私は、それほど追い詰められた状況だった。

「もしかして、ママの影は狐だった?」

 間接照明を利用して、影絵を作った。リアルな狐の影絵はこんこん。と、闇の中でその存在感を増していった。

「やめてくれ」

 嫌がる父を見て、思った。

「あの人、やっぱり狐だったんじゃない?」

 私の疑問は言葉となり、私の口から発されていたらしく、父は珍しく怒りを露にした。ここまでの露骨な怒りは見たことがない。

「ほんまに、やめてくれ。あの人のことはもう終わったことなんや。あの人はもう、死んだんや」

 必要以上に母の影、すなわち影絵に脅える父を見て、私は「まだ、何かある」と確信した。何よりも、父の背中がそれを物語っていた。




ついに、尻尾を掴んだ。

 といっても、狐の話ではない。父の恋人をついに発見した。宵も深まる深夜四時。何気なく父の店に立ち寄った私は、父に抱きつくオバサンの姿をこの目でしかと見てしまった。同時に、何とも言えぬ感情が私を襲った。

「わー、見ちゃった!」

 父の狼狽ぶりは分かり易いほどによく分かった。しかし、オバサンは全く悪びれる様子もなかった。悪びれる? 悪びれるはずもないか、こいつ等は不倫でも何でもない。極めて全うな男女関係なのだから。

「汚らしい」

 続けて言うと、オバサンはあっけらかんと言った。

「あなたが、真琴ちゃん。(じゅん)から話は聞いてる。よろしくね」

「は?」

 よろしくと言われても、突然父を名前で呼ぶオバサン! 私の所有物を名前で! 初対面で、しかも、とてつもなく恥ずかしい現場を見られたのにも関わらず、高圧的な態度で私との対話に臨もうとするこのオバサン! 

 こんな人、要らない。

「よろしくも何も、自己紹介すらされてないんですけどー」

「あぁ、そうやったね。私、河中(かわなか)です」

「はぁ?河中さん? 河中って苗字ですか、名前ですかー? それとも、カワ・ナカですか?」

「……説明不足やったね、ごめんなさい。河中ユウコです。あなたのお父さんとお付き合いさせてもらってます」

 小さく舌打ちをした。バツの悪そうな、父の狼狽した表情が印象的だった。

「お付き合いって私、あなたとパパの付き合いを認めたつもりはないんですけど?」

「淳と付き合うのに、あなたの許可がいるの? お言葉やけど、この人を籠に閉じ込めないでほしいのね」

 フッと鼻で笑う河中に、苛立ちを覚える。

「カゴってなにー? 意味わかんない。オバさんきもーい」

 あくまでもバカっぽく対応した。河中の全身からはケバい香水の香りがして、こんな明け方に私が突撃してくるのは想定外だったにしても、こんなにも簡単に異性の臭いを感じさせる河中が汚いものに見える。かつて私は、こんな女を見たことがある。そこに見えるものは純愛とか、長いお付き合いから感じさせる一種の馴れ合いからくる安心感のような類ではなく、生々しい男と女の付き合いだった。私だけだ。この女のどす黒い心の中が見えるのは、確かに私だけだった。

「はぁ? あんた、まじ誰なわけ? 意味分かんないんだけど」

「じゃあ、この場を借りて。淳とは、親しくお付き合いさせて頂いています。具体的に、来年の六月くらいには結婚式を挙げようというお話もしています。真琴ちゃんは、私たちの娘になりますから、これからもよろしくお願いいたします」

 突如、腰が低くなったこの女。相当な世渡り上手であろうことが予想できる。うちの馬鹿は、こんなのに籠絡されたのか。

「素敵ー。ジューンブライドー」

 馬鹿っぽく言うと、何か発言しようとしている父を制し河中が笑った。心にもない笑顔。敵意をふんだんに含んだ笑顔。私は、このときの偽りの笑顔を生涯忘れないだろう。ただでさえ弱った胃に追い討ちをかけるような、胃もたれが原因で倒れそうになるほどの不愉快な笑顔だった。低姿勢に見せかけての勝ち誇った態度が許せない。それなりの年齢だろうに、妙に若者ぶった服装。少し白髪の混じった茶髪の縦巻きヘアー、ベージュ色でニットのレースカーディガン、デニムの切りっぱなしミニスカート。なのに、ここで店のお手伝いをしていたのか、少し小さめの長靴。「そんなアホみたいな格好で洗い場に立つんじゃねぇ」そう言いたい気持ちをぐっと呑みこみ河中を睨みつける。

そうだ、きっとこいつは頭のおかしい奴なんだ。こんなのにまとわり付かれて、きっと父は迷惑しているに違いない。追い払わなければ。今すぐこの女を追い払わなければいけない! 私の苛立ちは、覚悟に変わった。

 私と合っている目を少しも逸らさずに、河中はクスクスと笑っている。

「そうやね。ジューンブライドやね。淳とは、五年間付き合ってきたんやけど。ほんま、しょうがない男でね。なかなか結婚の一言を切り出してくれんかってね」

 父と暮らし始めて約一年になる。お前より父のことを知っている。とでも言いたいつもりなのだろうか。陳腐な誘い文句に、あえて乗る私がいた。

「へー、五年も! こんな、(こぶ)付き貧乏オヤジに五年! ちょーすげー、真似できねー」

 横目で確認すると、父の目は虚ろだった。死んだ魚のような目で、この人はこの時、確かに死んでいた。

「でも、素敵な人やで。真琴ちゃんはまだこの人の良さに気付いてないだけなんと違うかな」

 いちいち鼻につく言い方をする女だ。父にいつも迷惑ばかりかける私に対する厭味なのだろうが、こんな女、絶対に相容れない。役者が違うというのは分かりきっている。こんな、手練手管で社会の荒波を泳いできたような大人に口で敵わないであろうことも分かっている。

 しかし、引くに引けない。引いてはならない。

「でも、狐に化かされた馬鹿ですよー。今のうちに考え直したほうがいいと思うな」

「え?」

 脈アリ、だろうか。こいつと父を別れさせる方法など、いくらでもあるんだぜ。ただ、思いのほかジョーカーの出番が早かっただけだ。

「へへへ、オバさん。このオヤジはね、」

悪徳商法のような口調で河中に言うと、それまで沈黙を守っていた父が大声で怒鳴った。その怒鳴り声はあまりにも大きくて、少し離れた商店街『ジャンジャン横町』まで間違いなく届いていただろう。

「真琴!」

 父が怒鳴った。続けて、

「お前、ええ加減にせぇ!」

 そう、叫んだ。

 ここまで怒る父を初めて見たショックは大きくて、堪えても堪えても目蓋からは大粒の涙が溢れて止まらない。

 どうして? 実の父を、悪の女から守ろうとしている娘は悪者なの? あなたの一番は娘ではなく、この、得体の知れない女なの?

「目上の人に、何やその態度は! 大人を馬鹿にしとったらあかんぞ」

 瞬間、感情が弾けた。

「なんで? パパひどい」

 優越感に浸ったような、満足げな河中の表情を見ていると居ても立ってもいられなくなった。「どや!このクソガキが!」そんなことを言いたげな河中の表情を見ていると、吐きそうになった。なんだこれ、なんだこれ。こういう時は大阪弁でなんていうのだろうか。

 店先にあった父の自転車に飛び乗った。無我夢中で足に力を入れる。ガッチャンガッチャンと不吉な音を立てながら、タイヤはぐるぐると回る。何年使用しているのか、ボロボロの自転車を猛烈なスピードでこぐ。あはは、なんや。いけるやん! こんなもん、猿にでも乗れるやん。

 ハイになった私は、泣きながら自転車をこいだ。どこに行くのかなんてわからない。そもそも私は愛釜を電車以外で出たことがない。いつか、リュウちゃんと一緒に西武ドームで歌ったライオンズの応援歌を自転車のリズムに合わせ大声で歌いながら、途方もなく進んだ。

「光かがーやくー日はまたのぼるー!」

 覚えやすくて、私が一番に覚えた歌。ハハッ、日はまた昇るだって。笑わせる。

 私の体は、頼りなげにどこかに飛んでいった。風に流され、視線に晒され、どこかに飛んでいった。

「姉ちゃん大丈夫かいな!」

「なんや、あの姉ちゃんおかしなってしもたんかいや」

 愛釜を通っていると、明け方から路上で酒盛りをしている日雇い労働者の人たちが次々に奇異の目で私を見ていた。滑稽で、惨めな気持ちが私を支配する。

 あ。またこの気持ち。胸の奥から湧き上がってくるようなこの熱い気持ち。こういうのなんていうのだろう。

 なんとなく分かった。『悔しい』だ。


 母がいつも歌ってくれた子守唄を思い出した。

「籠の中の鳥は、いついつ出やる」

「うしろのしょうめん、だーれ?」

 でも、勘違いしないで欲しいんだ。

 籠の中も、案外居心地がいいのだから。

 どこまで来たのだろうか、皮肉なことに日はすっかり昇っていた。煙突の見える大きな橋の欄干にもたれかかって泣いていると、眠たそうな表情をしたお巡りさんに補導された。

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