( 二 )
女の子が、自転車をこいでいる姿を見かける度に思うことがある。どうして、あんな乗り物に乗るのだろう。学生の女の子はスカートをはためかせながら、ミニスカートのお姉さんはスカートの中が見えないようにと気を遣いながら、おばさんは完全武装された無敵のママチャリを傍若無人にこいでいる。
当然、私は自転車に乗れない。乗ろうと思ったこともない。殆どの人間は自転車に乗ることが出来るので、自転車で移動する必要があるときは後ろに乗せてもらえばいいではないか。ずっとそう思っていたし、実際、そうしてきた。
「どう思う?」
「うん。本当にまーちゃんはお姫様体質だね。でも、そういうことを口に出して言っちゃうと、同姓に敵を作っちゃうかもしれないよ」
リュウちゃんは淡々と言い、口元だけで涼しく笑う。
大宮駅東口での待ち合わせ、時間は午後四時を少し回ったところだった。
「私ね、野球見るの初めてなんだ」
何気なく言うと、リュウちゃんは苦笑いした。
「ほんと?まーちゃん、それでも埼玉県民なの。一回くらい行っとかなきゃ絶対にダメだよ」
リュウちゃんは本当に涼しげに、そして穏やかに笑う。そんな横顔にしばし見とれていた。
「なに?」
バチッと目が合うと、何だか恥ずかしくなった。
「ううん。でも、サッカーなら行ったことあるよ。浦和だったっけ? ヨッシーに連れて行ってもらった」
「あー。あいつはレッズファンだからね」
「リュウちゃんはサッカー見ないの? ヨッシーは逆に野球を見ないって言ってたよ」
リュウちゃんは私の質問には答えずに、肩に提げた手ごろなサイズの袋から、青色の小さな旗を取り出した。それを私に手渡し、困ったように言った。
「あいつのことは、忘れなって」
思わず、ハッとする。
私は思い出のひとつとして、共通の話題のひとつとしてヨッシーの話をしているだけに過ぎないつもりなのだが、もしかするとリュウちゃんには、未練がましく別れた男を引きずる女に見えるのだろうか。それだけは嫌だ、絶対に嫌だ。
しかし、変に釈明すれば深みにはまりそうで、これ以上リュウちゃんに誤解されたくなくて、黙っておこうと思った。口は災いの元、どうも私は墓穴を掘る体質みたいだ。単に言葉が足りないせいだろうか。
「ねぇ、この旗いったいなんなの?」
不自然極まりないが、強引に話題を逸らす。リュウちゃんは私が今まで関わってきた人間たちよりもずっと大人で、それ以上深く踏み込んでくることもなかった。
「それはね、ビクトリーフラッグっていって、ライオンズに得点が入った時にみんなでそれを振って、応援するんだよ」
「へぇ、なんか楽しそうだね」
「楽しいよ。球場に着いたら、まーちゃんの分も買ってあげるね」
リュウちゃんは私の手を引き歩きだした。「結構遠いから急がなきゃ」楽しそうに笑うリュウちゃんの笑顔を、ずっと見ていたいと思った。思っていたよりもずっと大きな手の温もりを、ずっと感じていたいと思った。
そんな自分の気持ちに気付くと、なんだかとてつもなく恥ずかしい気持ちになり、私は真っ直ぐ歩くこともままならなくなった。私の足元を照らしてくれるのはリュウちゃんなのかな。そんなことを考えながら、引きずられるようにして歩く。人の群れが交差するコンコースに集まるみんなが、私たちを見ているような気がした。
リュウちゃんは、以外に熱い人だった。贔屓にしている西武ライオンズに得点が入ると喜びを爆発させ、ピンチに陥るとハラハラし、ライオンズに本塁打が飛び出すと周りの人たちと抱き合って祝福した。リュウちゃんに売店で買ってもらったビクトリーフラッグを五回表終了時のライオンズ攻撃開始の際に振り上げた時には、まるで球場がひとつになったような一体感が感じられて、興奮した。野球のルールなど知らないくせに、気が付けば大声でライオンズに声援を送っている自分に驚く。
七回裏、ライトスタンドから舞い上がるジェット風船の余韻も覚めやらぬうちに飛び出した、この日二本目となる主砲中村の試合を決定付ける豪快なホームランは、屋根とスタンドの間にある外観から場外に消えていき、私もスタンドもボルテージは最高潮に達した。
「ちょーすごいね!」
「でしょ? おかわりを見るだけで、球場に来る価値があると思うよ」
不動の四番打者中村は、コアなファンの中では『おかわり君』と呼ばれているらしい。ライオンズの選手を説明するときのリュウちゃんの瞳はキラキラと輝いていて、無邪気なその姿がとてつもなく可愛らしく感じられる。
「おかわりは少し前まで怪我をしてたんだよ。でももう回復して、こうしてホームランまで打ってるんだ。」
「へー、すごーい」
興味がないはずの野球の話題でもリュウちゃんの口から出てくると、とても面白いお話に聞こえてくる。「まるで魔法みたい!」まさに、それは乙女の絶頂だった。
試合は、ライオンズの快勝だった。勝利が確定するとバックスクリーンから無数の打ち上げ花火が上がり、その光景は実に美しく、私は今日ここに来てよかったと心から思えた。私もリュウちゃんも気分が高揚していて、帰りの電車内でもリュウちゃんのアパートに帰ってからも、野球談義に花を咲かせっぱなし。
知らず知らずにお酒のペースも進み、止める者がいないのをいいことに、リュウちゃんとお酒を飲み続けて、気が付けば明け方になっていた。
「もう、そんなもんにしときなよ。昨日みたいなのは勘弁だからね」
一瞬、脳裏に浮かぶ。
昨夜。私が晒した醜態の一部。
「私、昨日なにしたの?」
リュウちゃんは、焼酎のロックをちびちびと飲みながら伏し目がちに笑った。
「あんまりさ、なんとも思ってない男にああいうことを言うのは感心しないよ。まぁ、酔ってたってことを加味してもね」
あ。少し思い出してきた。
「あれは、俺だったからよかったようなものの、そこらのバカな男だったら危なかったよ。まじで」
そうだ。私は昨夜、酔いの勢いを借りてリュウちゃんに告白をしたのだった。
「……」
「まーちゃん、今ほんとに寂しいのはわかるけどさ、あんまり自分を安売りしちゃいけないよ」
「そんなんじゃないもん。私は、」
「やば、明日も一限からだったじゃん。早く寝ないと」
リュウちゃんは、無理やりという具合に会話を打ち切り、枕替わりの雑誌数冊を抱えて押入れに逃げ込んだ。
照れてるのかな。朝早いのに遅くまでごめんね。ポツリと声をかけ、私はベッドに横になった。今はただ、隣から聞こえてくるリュウちゃんの寝息が嬉しい。
だいぶ夜明けが早くなった。使えるお金は残り少ないけれど、明日は服と化粧品を買いに行こう。もっともっと可愛くなりたい。可愛くなって、リュウちゃんに振り向いてもらいたい。
リュウちゃんは朝から夕方まで大学に通い、夕方から日付変更まで、駅前の安さが売りである大手居酒屋チェーンでアルバイトをしていた。大学でも職場でもすこぶる評判の良い典型的な勤労青年で、家に帰ってきてからはプロ野球ニュースを見ながらお酒を飲み、風呂に入って眠る。そして朝から大学に行く。それを夏休みに入るまでずっと続けていた。少しくらいの熱があったとしても、這ってでもバイトに行くような人だった。
「ほんと、すごいね」
「え、なにが?」
私のグラスが空いていることに気付いたリュウちゃんは、素早く冷蔵庫から冷えた発泡酒を取り出して、丁寧に注いでくれた。リュウちゃんの家に上がりこんで二ヶ月弱、もうビールの味はとうに忘れてしまった。
「だってリュウちゃんは、毎日大学とバイトを頑張ってるし、」
「いやいや」
「きちんと、将来のことも考えてるし、」
「いやそんな」
「何より、誠実で真面目!」
「いやいや」
「でも、女のコにもてないんだよねー」
「いやいや!」
そんなオチいらないから。そう言って、リュウちゃんは冷酒を飲み干した。
夏休みに入ってからというもの、リュウちゃんはバイトを殺人的なシフトでこなすようになり、私もコンビニでバイトを始めた。それに伴って、少し活動時間にズレが生じてきた私たちが、こうして朝までゆっくりとお酒を飲むのは久しぶりだった。
今日はリュウちゃんの十日ぶりの休みということで、またまた野球観戦に行ってきたのだった。試合の方は、再び中村の豪快なホームランに、リュウちゃんが死ぬほど大好きだという西口投手の完封勝利という最高の結果だった。リュウちゃんは、かなりの西口マニアを自任していて、この部屋はポスターやカレンダー、サイン色紙くらいは当たり前として、サインボールやユニフォームなど、ありとあらゆる西口グッズで埋めつくされている。
そんな、リュウちゃんのヒーローの完封勝利だ! リュウちゃんも私も、否が応にもお酒のピッチが上がった。終始上機嫌なリュウちゃんは、私を勝利の女神と呼び、目じりを下げた。話は野球談義からお互いのバイトの愚痴、そして次第に恋愛観へと移っていった。
「俺はね、不特定多数の人間にもてたいとか思ってないんだよ。いつか、本当に大事に思える人に出会って、その人と愛し合えたらこれほど素晴らしいことはないよね」
「じゃあ、私がその大事な人になってあげる。だって私は、リュウちゃんのことをとても大事に思っているよ」
お酒の勢いを借りつつも、大真面目に今の素直な心境を吐露した。不思議と緊張はしなかったが、言い終わってからのリュウちゃんの沈黙で、はっきりと私の心臓が波打ち始めたのが実感としてわかった。
「ああ。うん、ありがとう。まーちゃんからすれば、俺ってお兄ちゃんみたいなものなのかな。俺も、まーちゃんのことは妹みたいに可愛い存在だし、好きだよ」
やんわりと否定されているということには全く気付かなかった。私の真意が正しく伝わっていないと、焦る気持ちが先行した。
「いや、違くて、」
「いいの、いいの。そんなこと改まって言われると照れるでしょ。明日もバイトあるし、そろそろ眠らないとね」
あれ、これも偶然? 寝支度を始めるリュウちゃんは、私から逃げるように、大きな体を折り曲げて強引に押入れの中に小さく納まった。私が転がり込んでからずっと、リュウちゃんはあんなにも劣悪な環境で眠り続けている。いつもいつも、この手の話題を振ると押入れに逃げ込むその姿勢に少し腹が立って、私の口からはつい悪態が吐いて出た。
「押入れって、ドラえもんかよ。っていうか、また逃げんのかよ」
リュウちゃんは何も言わず沈黙を守り続けた。その態度に益々苛立ち、更に雑言を重ねた。
「まただんまり? ちょーウゼー。男なんだから、何か言い返しなよ」
勢いよく言い終えた刹那、なぜかヨッシーの顔が浮かんだ。あの迷惑そうな、怒りと困惑が混ざった何ともいえない表情。リュウちゃんもあんな表情をしているのかもしれない。一度そんなことを考えると、もうそうとしか思えなくなり、たまらなく不安になった。元来私には、他人に嫌われるかもしれないという恐怖感がほとんど備わっていない。ヨッシーと付き合っている時もそれはそのままで、容赦なく物を言ったし、つまらない喧嘩もたくさんした。
もう、あんなことを繰り返すのは嫌だ。あんなにも侘しい気持ちはこりごりだ。この時初めて、言葉が持つ恐ろしさに気付いた。大好きな人に嫌われる怖さを知った。
「ごめんなさい。言いすぎました。ウザいとか嘘です」
壁に向かって独り言を放っているかのような錯覚すらした。リュウちゃんは確かにそこに居るはずなのに、まるで人の気配を感じない。
「なにか言ってよ。気に障ったのなら謝るから、」
「ごめんね…」
「え? なに」
「ごめんね、まーちゃん。俺は元でも、友達の彼女をそういう風に見ることはできないよ」
「どうして?」
聞かないフリをすればよかったのだろう。或いは、明るくおどけてみせるのも有効だったかもしれない。「やだー、なに本気にしてんの? 冗談に決まってんじゃん」言葉は喉元まで上がってきていたが、言えなかった。
「よくわかんないけど、道徳観念っていうのかな。例えば、俺がまーちゃんのことをものすごく好きになったとしても、まーちゃんが俺を好きだとしても、吉田と付き合っていたという事実がある限り俺はまーちゃんとは付き合えない。絶対に」
「ごめんなさい」
私は謝ることしかできず、どうして謝っているのかさえ分からずに、黙って目を閉じた。するとどういうわけか、涙が溢れて止まらなかった。真面目なリュウちゃんの古臭い思考にうんざりしたわけでもなく、自分の馬鹿さ加減に呆れたわけでもなく、ただなんとなく泣けて仕方がなかった。
あ、まただ。またこの気持ち。こういうの、なんていうのだろう。
面倒な女と思われないように、リュウちゃんに聞こえないよう声を殺して泣いた。まだ一縷の望みがあるのならば信じてみたい。
窓を大きく開けて、タバコの煙を吐き出した。手の甲で涙を乱暴に拭うと、アイラインが甲から腕にかけてだらしなく伸びる。仕事の出来なさそうな太った新聞配達員が気だるそうにポストに新聞を投函していく。一瞬目が合ったけれど、配達員も私も何も言わなかった。
夏が終わろうとしていた。
まだまだ残暑が厳しいとはいえども、夜になれば涼しい風が吹く。ゆっくりと、だが確実に季節は移ろいでいく。
ここ数週間の間に新しい日課が出来た。二十二時に終わるコンビニバイトの帰り道、いつも全く人気のない神社を発見した私は、ここでリュウちゃんが寝静まる時間までぼんやりと時間を持て余す。どうにもあの日以来どことなく気まずくなった私たちの会話は、生活をしていく上で必要最低限な会話のみとなり、かなり限定的なものになった。同じ部屋にいても会話は少なく、プロ野球ニュースを見て、風呂に入って寝るだけのリュウちゃんの後ろ姿は声をかけることすらためらってしまうほどに小さく見えた。この長い夏休みで、リュウちゃんはどこか変わってしまったのかもしれない。
コンビニから失敬してきた廃棄処分の稲荷寿司をお稲荷様に供え、街灯の僅かな明かりで携帯電話のつまらないゲームを続けていると、泣けてきた。「私、なにやってんだろ」思えば思うほど、惨めな気持ちが心の底を支配した。
「狐さん、私どうすればいいのかな」
力なく呟くと、薄暗い半影の中に佇むお稲荷様が少し傾いたような気がした。
けーん、けーん。
なんの音?
けーん、けーん。
静まり返った郊外に、狐の鳴き声のような甲高い音が響いた。それは、こちらにどんどんと近づいてきて、やがて神社の前で止まった。静寂をつんざくその音は、不思議なくらいに神聖に聞こえた。
「小松さん、ちょっと待ってよ」
「嫌だ、ちょっと離してよ!」
なんだ、痴話喧嘩かよ。こんな時間になにやってんだか。そんなことを考えながら、先ほど響いていた音は、この小松さんとかいう女がヒールで全力疾走をしていた音なのだと気付く。
「いいや、離さない。俺の話を聞いてくれるまでは離さない」
「ちょっと。本当に嫌だってば」
この男、なかなか情熱的な男である。かなり強引ではあるが、男には時としてこのような強引さも必要だと思う。
「どうして逃げるの? きちんと俺と向き合ってよ!」
確かにその通り。小松とかいう女よ、その強引男の気持ちを受け入れるにしても、受け入れないにしても、逃げてちゃダメなんだぞ。強引男のこの台詞、リュウちゃんに聞かせてやりたいものだ。
「落ち着いてよ、竜二くん。 私、彼氏いるんだよ。知ってるでしょ?」
「吉田なんかと付き合ってても、絶対に幸せになれないよ。だってアイツ、小松さんと付き合い始めてすぐ、別の中学生のコとも付き合ってたんだよ!」
なんだ? その聞いたことのある名前と展開は。
私は、まさかの思いで茂みの影から痴話喧嘩カップルを覗き見た。祈るような気持ちで顔を挙げた。しかし、まさかはやはりまさかだった。毎日見ているこの顔を見間違えるはずがない。中西竜二、あだ名は『リュウちゃん』
裏切られたというにも、そもそも付き合っていたわけではないし、二度もやんわりと断られているわけで裏切りとはいえないのかもしれない。それよりも心に引っかかったのは、リュウちゃんが先ほど宣ったあの強引な台詞! そして、私の告白を断る時に使用した道徳観念だとかという意味のわからない言い訳! これほどまでにセコい男だったということが哀しかった。下らない。リュウちゃんも、私も、恐らく小松とかいう女も。
「こんこん、こんこん」
修羅場のふたりが挟む電信柱に影絵を作った。「きゃあ!」小松とかいう女は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「え…、まーちゃん?」
この世の終わりのような表情の小松よりかは幾らか冷静だったものの、リュウちゃんの狼狽ぶりが手に取るように伺えた。
「ううん、私はまーちゃんじゃないよ。お稲荷様だよ。こんこん」
「なにしてんの?」
今までに見たことのない、リュウちゃんの目だった。その鋭い目から読み取ることができるのは、凄まじい敵意と侮蔑。
どうでもよくなった。私の中で、何かが壊れた。そんな瞬間。
「きゃはは、ちょー漫画じゃん。まじウケる」
「まーちゃん…、ちょっと引くよ。ていうか普通に怖いよ。いや、キモいよ」
「うるせぇな。てめぇ吉田と付き合ってた女とは付き合えねぇとか言ってたくせに、自分はちゃっかり吉田の現彼女に猛アピールしてんじゃねぇか! ま、全然相手にもされてねぇみたいだけどな。馬鹿じゃねぇの。ていうか、まじ馬鹿」
リュウちゃんは少しの沈黙の後、呻くような低い声で言った。
「お前には関係ないでしょ。キミ、どう考えてもおかしいよ、常識的に考えて」
はっきりと、怒りが伝わるトーンだった。
――しかし、引くに引けなかった。
「お前呼ばわりすんじゃねぇ」
「ごめん。ちょっともう、キミ出て行って」
「はは、こっちから願い下げだっての」
小松は、訳が分からないという具合だった。目を凝らしてよく見てみると、キツいメイクではあるが、美人系統の顔だった。
私は、リュウちゃんのすぐ横に唾を吐き捨て「さようなら」との捨て台詞を吐き捨ててその場を去った。小松は、まだへたりこんだままの状態だった。こういう反応が可愛いのだろうな。こういう女が選ばれるのだろうな。ヨッシーにもリュウちゃんからも選ばれた小松は、心底脅えているような表情で私を見ていた。でも、私からすればアンタのほうがもっと怖いよ。そう、目で話しかけた。ヨッシーに買ってもらったのだろうか、高そうな鞄を大事そうに抱きかかえている。
私はいったい何なのだろう。私だって、ヨッシーに色々な物を買ってもらった。鞄や服、携帯電話にゲームセンターの景品。だけどそれが何だというのだろう。どれも私には背伸びの必要なものばかりだった。それらの似合う女になりたくて、年上の彼の隣を堂々と歩けるように努力した。
小松を見て分かった。なんのことはない。私がもらった品々は、小松のお下がりか小松の趣味に合わないものだった。馬鹿にしている。どいつもこいつも、私を馬鹿にしている。ははは。なんだ、これ。
タバコに火を点け、歩き続けた。時間にして三十分ほど歩くと、小さな児童公園が見えた。
大きなマンションに挟まれた、いかにも日当たりの悪そうな児童公園。開放している時間が決まっているのか、砂場はフェンスに囲まれていた。
蔦が巻きつき、天然の屋根ができている汚いベンチに腰掛けた瞬間、涙が溢れた。「クソ野郎」小さく呟くと、更にとめどなく涙がこぼれて止まらなかった。私はきっと、リュウちゃんが大好きだったんだ。それこそ、ヨッシーとは比較にならないほど大好きだった。誰もいない公園に、私の影が伸びる。
私と同じ動きをするこの影は、私の全てだった。この人は私を裏切らない。ずっと私に付いてきてくれる。両手を伸ばし、うんと背伸びをすると、私の影も同じようにでろりと伸びた。そんな私の分身は、マンションによって遮蔽され、街灯と月明かりによって生まれた半影の中にするりと消えていった。
時刻は三時前、丑三つ時。公園をゆっくりと回ってみると、相当な量の花が咲いていることに気付いた。花なんて、バラやヒマワリぐらいしかわからない私は、携帯電話のインターネットで花の名前を調べてみる。あった、これか。『夏の終わりから秋の始まりにかけて咲く真っ赤な花』こんなにキレイな花が毒花だなんて信じられない。あたり一面に咲き誇る彼岸花。私は時間が経つのも忘れ、彼岸花を眺めていた。根には強い毒があるということで、致死量などを調べているうちに、ぼんやりと夜が明けていった。
リュウちゃんからも叔父さんからも連絡がないまま、彼岸花は散っていった。
季節がいくのは早すぎて、冬の足音がすぐ近くまでやってきている。
悪友平井の家に上がりこんで一月弱。さすがに家に居づらくなった私は、どこか違う土地に行くことを決意していた。ひそひそと話していても聞こえてくる、「あの子、いつまでウチに泊めるつもりなの!」という母親の咎め文句は日を追うごとに頻度が増し、私にプレッシャーを与え続けた。
平井の家に上がりこんだ当初は、平井が盆に二人分のごはんとおかずを運んできてくれて、二人で突いて食べていたが、最近は平井が強制的に食卓に連行され、平井自身も母親の厳しい監視の下に置かれ、私に食べ物が回ってくることはまずなかった。野良犬や野良猫に餌を与えると居座り続ける。そんなところだろうか。どちらにしても私は、もうここに居てはいけない人間になっていた。
「ママ、ちょーウザいんだけど」
ブツブツと文句を垂れながら、平井はほとんど使われることのない勉強机からタバコを取り出した。
「あー。食後の一服がたまんないんだよね」
親の心子知らずとはこういうことをいうのだろうなと、ふと考えていた。
「ねぇ酒井、まじごめんね、ママ声でかいんだ、気にしないでね。お腹空いてない?」
「うん、私はバイトで食べ物はなんとかなるから」
「そっかぁ、酒井はコンビニだもんね。廃棄とかあるもんね」
「いいなぁ」小さく言い、平井は、だらしなく煙を吐き出した。
階下では、平井の両親がしきりに議論を繰り返していた。母親は少しヒステリーになっていて、今日は父親がそのヒステリーの犠牲になっているようだ。そんなヒス声を聞いた私は、ずっと忘れていた自分の母親を少し思い出して、気分が悪くなった。
「ウチのママ、ほんとウザいでしょ? キーキー騒いでさ!」
「そんなことないけど」
「そんなことあるよ! 私のママも、酒井のママみたいだったらよかったのに」
「私のママ?」
タバコの灰を、ぽろりと落とした。
「うん! だって酒井のママって、ちょー優しかったじゃん。ほら、前に私が家出した時も酒井のママは何も言わず、ずっと泊めてくれたでしょ? ご飯代くれたりしてさ」
あぁ、そんなこともあったっけ…。
平井の弾丸トークはとどまることなく、炸裂し続ける。
「それに引き替え、ウチのママってまじ冷血! 今だって、酒井がちょー困ってるのわかってんのにさ、まじであいつ、」
「それは、違うよ」
熱弁の途中で、口を挟んだ。平井は、呆気にとられたような顔をしていた。
「私のママは優しかったわけじゃないよ。単に、興味がなかっただけだよ」
「どういう意味?」平井は、低い声で言った。
「あの人は、守るものなんてなかったから、それができたんだよ。子供は分かり易くグレちゃったし、家族はグレた娘だけだし、私たちがバカみたいに騒いで隣から苦情がきたとしても、無視するか引っ越しちゃえば済む話だし。極端な話、私らがどうなろうと、どうでもよかったんだよ」
「なに言ってんの」
平井の目には、涙が浮かんでいた。どうしてだろう。泣きたいのはこっちのほうなのに。
「平井が私を守ろうとしてくれているのは嬉しいよ。でも、平井のママだってこの家を守らなきゃいけない。私みたいなダメな人間と付き合ってたら、平井が不良カッコ笑い。になっちゃうかもしれないでしょ?」
「ちょっと、やめてよ」
平井は私を抱きしめてくれた。平井の肩は小さく震えていた。私は平井を、なんて優しいコなのだろうと感じた。冗談ぽく聞こえるように、私は全然気にしてないよー。をアピールするように、単語の後に(笑)。すなわち、カッコ笑いをわざわざ言葉で付け足す平井の真似をしてみる。今にも泣き出しそうな平井の目を見ていると、私まで泣いてしまいそうだった。今泣いてしまうときっと止まらない。他人様の家に常識を超える範囲で世話になり、追い出さざるを得ない形で出て行くことになり、挙句泣いてしまうなんて迷惑もいいところ。今だけは決して泣いてはいけない。私は強く自分を奮い立たせた。
「素敵なママじゃん!」
繰り返し色を抜いたせいでバシバシになってしまった平井の髪をなで、笑ってみせた。
自然に笑ったつもりだが、どこか変だったのだろうか。平井の私を抱きしめる腕の力が徐々に強くなっていく。不思議なことに、平井をこんな風に感じたことは初めてだった。気を遣わず、気楽にバカをできる友達。そんな立ち位置だった平井と、この時初めて心が通ったような気がする。
「私、行くね」
着替え数点、歯磨きセット、化粧品、そして身ひとつ。私は、二週間余りもお世話になった平井家を出て行く。
玄関先に、平井ママが立っていた。このタイミングの良さ! もしかすると、私たちの会話を聞いていたのかもしれない。
「おじゃましました」
深々と頭を下げ、門を出ると、平井ママが小さく言った。
「酒井さん。また、いつでもいらっしゃいね」
そんな最大限の社交辞令。目を泳がせる私と同じく、平井ママの焦点はまるで定まっていない。少なくとも、私の目は見ていなかった。私はもう一度、丁寧に頭を下げた。
「はい。ありがとうございます。失礼します」
声に出すと、途端に泣きたくなった。泣いているのがせめて平井ママには見えないようにと上を向く。横目に、二階の平井の部屋が見える。きっと平井はこっちを見ているのだろう。
今風の建売住宅が並ぶこの区画は夜がふけると息がつまるほど静かで、鼻をすする音すらもはっきりと聞こえる。私は平井の部屋を見なかった。いつの間にか曇り空はすっかりと晴れて、空にははっきりと三日月が浮かんでいた。さいたま市の方角から、恐らくパチンコ店のものと思われるサーチライトが、夜空を煌々と指し示している。
「サーチライトって、どこまで届くのかな。月にまで届くのかな」
そんな馬鹿なことを言いながら、上を向いて、ひたすら歩き続けた。半袖の服では、少し肌寒かった。