( 一 )
「こんこん。狐さんだよ」
母は、いつもそうして笑った。
築ウン十年の薄暗い安マンション。煙草のヤニで黄ばんだ壁に、寂しそうな狐の影が踊る。ゆらゆらと揺れるその一匹の狐の動きはやけにリアルで、私は長い間それを本物の狐だと信じていた。
「狐さんはね、人間を騙しちゃうんだよ」
小さな私の顔を覗き込み、おでことおでこをくっつけて母は呟く。
「でもね、決して良い人間を騙したりはしないよ。嘘をつく子や、言うことを聞かない悪い子のところにやってくるんだよ」
「お母さんは騙されたことがあるの?」
多分、私はそう訊いた。
すると母は、こう答えた。
「お母さんはね、今よりずっと若い時は狐さんだったんだよ。まーちゃんに出会えて、お母さんは人間に戻れたの」
母はこの話をすると必ず涙ぐんだ。それはきっと、思い出すのも辛いことなのだと子供心にも感じていた。
「ほら。まーちゃんも早く眠らないと悪い狐さんが、まーちゃんにいたずらをしにきちゃうよ。こんこん」
再び現れた狐の影に脅え、私は逃げるように布団に包まる。
間もなく、マンションの扉が小さく閉まる音が聞こえてくる。なるべく音を立てないようにゆっくりと。ガチャリ。という鍵の閉まる音が、私の恐怖感を更に増大させた。
こっそりと布団から顔を出すと、母の姿はすでにそこにはなく、ほのかに残るタバコと甘い香水の臭いが部屋中を支配していた。ひとりで部屋にいる恐怖と、あまり好きではないこの母の臭いで息がつまりそうになる。昼寝をしている母の匂い。風呂上がりの母の匂い。台所で夕飯を作る母の匂い。母の匂いはどれもこれも大好きだったが、この臭いだけはどうしても好きになれなかった。それはきっと本能的なものだと思う。朝になれば母は帰ってきてくれる。いい子にしていれば狐さんはいたずらをしにこない。私はいい子でいなければならない。
夜になれば母はどこかに出て行ってしまう。割と早い段階でその現実を受け入れていた私は、ひたすらいい子でいるよう努力を怠らなかった。
こんこん、こんこん。
恐怖に耐えかねた私は、狐さんがやって来ないように祈りながら、暗くて狭い部屋で無理やり眠りに就く。
「大丈夫。私は良い子だもの。私のところに、狐さんは来ない」
そう言い聞かせ、恐怖と格闘する日々は中学校に上がるころまで続いた。
「真琴? 帰ってるの?」
今の私には小さく「んー」と答えるのが精一杯。何せ、一晩中遊びまわっていたのだから。時計が二周するほど起き続けていると、脳の働きが鈍感になっていくのが分かる。そして、怒りっぽくもなる。
「真琴? いるなら返事くらいしなさい!」
母も仕事明けで、少しヒステリーになっているのが感じ取れた。そのヒス声が、私の神経を逆撫でる。
「うるさいなぁ! 今から寝ようと思ってるのに、無駄に大きい声ださないでくれる!」
「真琴! 何なの、その口の訊き方は」
母は、美しい女性だった。
十八歳で私を産んだ母は、小さい頃は自慢の母だった。若くて綺麗でスタイルも抜群。記憶の片隅にしかない父と別れた後も、女手ひとつで私を育ててくれている苦労人シングルマザーだった。多くの友人からもそんな母を大変羨ましがられたし、友人の母親たちは一様に母を賞賛した。
「学校はどうするの。今日も行かないつもり?」
答えるのも面倒で無視していると、母はロックグラス一杯に並々注がれたブランデーを一気に飲みほして、か細い声で吐き捨てた。
「もう、勝手にしなさい」
大宮の、現役人気ホステスということを差し引いても、酒の似合う女だった。
タバコと酒を嗜むその横顔も、育児と仕事に疲れた三十路女の表情も、どこかそこはかとない妖艶さがあった。朝っぱらから酒の匂いをプンプンさせてんじゃねえよ。そう苛つきながらもついつい見とれてしまうような横顔。つり目で黒目の多い少しキツそうな印象を受ける顔に、ここ数年で徐々に失っていった表情。私と同じで背は低いが、少し痩せ気味で長く伸びた四肢。儚げ。というよりかは生気のないこの美人は、男から見ると高嶺の花だそうだ。その人生の大半を大阪で過ごし、時おり品のない大阪弁が飛び出したりもするが、一般的には美人。らしい。
子供心にも気持ちが悪くなるくらいにメスの匂いを撒き散らしていた。口紅が付着したタバコの吸殻でさえ卑猥に感じられた。だからじゃないが私は、次第に母と距離を置くようになっていった。
中学三年生の夏休み、大学生の彼氏が出来た私は、家に帰ることがほとんどなくなった。悪友の平井が言っていたほど、初体験は大したことはなかった。彼氏のヨッシーは「最近の中学生スゲー」なんて驚いていたけれど、色々な意味で私の予想を遥かに下回るものだった。これ以上ないくらいに痛がったり、感極まって号泣してみたりしたほうがよかったのだろうか。ヨッシーは、少し不満そうに見えた。
「ねぇ。まーは家に帰らなくてもいいの?」
中学生の初体験まで奪っておいて、時々ヨッシーは悲しくなる言葉を放つ。
無視してタバコを吸っていると、ヨッシーは荒い息づかいで私の胸にゴツゴツした手のひらを忍びこませてきた。いつもの、甘えんぼさん。そんなヨッシーを力いっぱい抱きしめると、いつも不思議な気持ちになる。不意に襲うなんともいえない感情。空しいような、満たされているはずなのに何かが足りないような気持ちになる。そんな時、母に会いたくなる。ほんの少しだけ。
たまに着替えを取りに帰宅すると、母はいつも泥酔状態で私に気付くことはなかった。壊れかかっているのかもしれない。物陰から母を見ていると、まるで頭がおかしくなったアル中のようにしか見えなかった。流れているラジオに合わせ大声であてずっぽうに歌を唄い、肩を震わせて笑い、日が暮れてくると電気もつけずに影絵で遊ぶ。
「ほら、まーちゃん。狐さんだよ」
こんこん、こんこん。
こんこん? こんこん?
まるで、何かに取り憑かれたような?
気味が悪くて仕方がなかった。かつての美貌はそこにはなく、まるで孤独な世捨て人の一人遊び。こんなの、手に負えない。
ある日、一日中そんな母をずっと見ていたことがあったが、見るに見かねて胸がつまって泣いてしまったことがある。怖さと、きっと悲しさ。私はとてもそんな感情を持ったままではいられなくて、忘れたくてヨッシーに抱かれた。ヨッシーは決して私の欲しい言葉を聞かせてくれることはなかったけれど、それでも良かった。言葉の代わりに、母のことを忘れられる時間をくれるヨッシーが大好きだった。
春。出会いと別れの季節に久しぶりに母を見た。夜の報道番組で、ストーカー殺人の被害に遭った悲劇のシングルマザーとしてブラウン管に顔を出した母の顔写真は免許証用の綺麗に飾った写真で、私は幾分か救われたような気がした。それは私の、綺麗な自慢のお母さんだったから。
開花を待ちわびた桜の花びらたちが、堰を切ったように一斉に花開いた。そんな陽気でうららかな幸せな午後のことだった。
高校へは進学しなかった。というか、できなかった。
母の葬儀は、母の弟にあたる叔父さんがしてくれたらしい。とはいえ、私は出席すらしていなかったのだから、様々な[大人の話]は私の知るところではなかった。
品行方正でなくとも勉強が出来なくても、ごく普通の受験生ならまだしも、こんなにも分かり易くグレてしまったヤンキー娘に引き取り手などあるはずもなかった。「母の変化に気付かなかったのか」警察署で根掘り葉掘りと事情聴取を受けたが、私は何も話さなかった。はっきりいって、面倒くさかったのだろうと思う。
やがて、犯人が検挙された。人気ホステスであった母のファンのようなものだ。と、供述しているらしい。刑事の話によれば「狐に騙された」などと意味のわからない供述を繰り返しているらしい。小さな町工場の社長で五十代のオヤジだったそうだ、殆どというか、全く興味が湧かなかった。私は母の死を受け入れられないほど子供ではないし、悲しみに暮れるほどのキレイな思い出も少なく、もう終わったことなのだと思うほかないような気がしていた。犯人の動機も何も興味がなく、母がどんな最期を遂げたのか、犯人の刑はどうなるのか、全てがもうどうでもよかった。そんな態度の私に、事件の後日談を語ろうとする大人もいなかった。
周囲も少し落ち着きを取り戻しはじめた頃、叔父と私が同じテーブルに就く機会があった。正確には無理やりなものではあったのだが。
「真琴ちゃん。これからのことなんだけどもね…」
独身でフリーターの叔父に私を養っていけるほどの経済力がないことは誰の目にも明白で、恐らく、どこかの遠縁にでも預けられることになるのであろうという空気が濃厚だった。となれば、この街を出て行くことになり、ヨッシーとも離れ離れになる。
「や。私は別に一人で大丈夫なんで」
安堵と困惑が入り混じった、何ともいえない表情で叔父は俯いた。
「うーん。真琴ちゃんが生まれ育ったこの町を離れたくないのは分かるんだけどさ。やっぱりまだ中学を出たばっかりだし」
三十過ぎにもなって、まだフリーターを続けていて、いつも母から「ダメ人間」と罵られていたのを私に見られていたからなのか、叔父の言葉は歯切れが悪かった。叔父に言われて久しぶりに、自分が最近まで中学生だったことを思い出した。卒業式にも出ていない身分なのだから、忘れていても無理ないかと自嘲気味に笑った。
「岡山の方に、真琴ちゃんの、おばあちゃんの実家があって、そこが真琴ちゃんの面倒を見てくれるそうだから、お世話になりなさい」
叔父の話し方は、説得というよりかは懇願に近く、いくら母の保険金が出るとはいっても、気楽で自由なフリー生活に終止符を打たれることを脅えているように感じた。
「だから、私彼氏と暮らしていくんで大丈夫です。もうバイトも出来るし、彼氏も来年には大学卒業するんで」
「な…」
出かかった言葉を無理やり止め、叔父は虚空を見上げた。
「そうかい。そこまで言うのなら好きにすればいいけど、もしダメになったら叔父さんに連絡しておいで。何か方法を考えるから」
どうも。とだけ言い、私はヨッシーの家に向かった。決して無理強いをしない叔父さんのこのスタンス好きだなー。私にそっくり。そんなことを考えながら時間をかけてゆっくりと歩いた。だけど、叔父さんが無理に強く言ってこない理由もわかっている。それ以上意見がぶつかり合うのを避けるため。もちろん言ってきかせたんですが、強情で僕の話を聞かないんですよ…。と、困ったように周りの人に説明できる結果を得るための話し合いの席だったのだろうな。という気がしてなんだか可笑しかった。同時に感謝もした。
初夏の紫外線は私の肌を刺し、埼玉県内でもあまり開けていないこの町は昼過ぎにも関わらずやけに静かで、街路を一人歩いていると初めて母を失った現実が私を襲った。だけど私は泣かない。私には、こんな私を愛してくれる人がいる。こんな私を好きだと言ってくれる人がいる。ヨッシーならきっと大丈夫。唯一の肉親を失った私の頭を撫でてくれるんだ。「心配すんな。俺がお前を幸せにしてやるからな」って、力一杯抱きしめてくれるんだ。それは、希望でも期待でもなく、願いだったのかもしれない。
口汚い口論なんて、したことがなかった。
私は、母のヒステリーを直に見てきて、感情的になる人間ほど醜い生きモノはないと学んできたはずだし、何かを議論をする上で、感情なんて不必要だと理解しているはずだった。何しろ建設的ではない。せっかくの議題も、そこに感情が入れば一気に興ざめしてしまう。母のヒステリーを反面教師に、私は冷静な議論が出来る人間だという自負を持っているはずだった。
「は? どういう意味?」
「だからさ。こんな大変な時期なんだし、お母さんのこともあるし、その叔父さんの言う通りにお世話になればいいんじゃないかな」
私たちの愛の確認のために、面白おかしくヨッシーに叔父との話を説明した。笑い話になるはずだった。すると、この様に意外な答えが返ってきたことに動揺を隠せなかった。
違う。私はそんな言葉を聞きたかったわけではない。
「ヨッシーはいいの? こんな状態の私を放っておけるの?」
「いいも、なにも。俺はまだ大学生だよ? 先のことなんてまだ見えないし、まーだって将来を考えなくちゃいけない大事な時期にきてる。ましてや保護者がいないんだから、まーは本当に、真剣に将来のことを考えなくちゃいけないんだよ」
「その将来にヨッシーはいないの? 私と別れたいってことなの?」
ヨッシーは趣味のメタルを流していて、ボリュームを少し上げた。このアパートは極端に壁が薄く、隣のテレビの音すらも筒抜けになるくらい防音が弱かった。いつもそうするように、ふざけて私を不安にさせようとしているのかもしれない。だけどヨッシーはふざけているにしては醒めた口調で、はっきりとした意思をもったような鋭い眼差しで淡々と続けた。
「別れたいとかってことじゃなくてさ、今のまーには普通の生活が必要なんだよ。普通に高校に通って、普通に家族と過ごして。特にまーの場合は、こんな非現実な日常に慣れちゃだめだ。だって、まだ中学を出たばっかりなんだからね」
「だって、岡山だよ? 今、こうして一緒に暮らしているのに、突然遠距離なんて私は耐えられない」
「俺も辛いよ。だけど、俺とまーは親戚でもないんだし、何かあったときに俺だけじゃ対応しきれない。辛いけど、仕方ないよ。まーは、まだまだ中学を出たばかりの子供なんだから、わかってよ」
「出たよ。中学生なんだから」
「なに?」
ヨッシーの眉間が、ピクリと動いた。
「便利な言葉だね」
「なに言ってんの?」
「つまんないね」
「だから、なにが?」
「その言葉、つまんないねっつってんの。なにそれ。子供を諭す言葉って、高校とか大学で習ったりするわけ?」
「……」
どうしてだろう。こんな言葉で口汚く罵倒したところでヨッシーから同情を得られるわけではないのに、やめなければいけないのに、私の口はペラペラと饒舌に回り続けた。
「厄介払いですか?」
「は?」
「中学生だから、なんなの? 中学生のおこちゃまなあたちとは将来を考えられないのでちゅか? じゃあヨッシーは、私を中学生以上に見られないって思ってるの?」
わざと子供みたいに幼児言葉で挑発する。こんなことをしたって意味がないのに。よせばいいのに止まらない。
ヨッシーは面倒くさそうに頭を掻いた。聞こえよがしにひとつ大きなため息をついて、露骨に迷惑そうな顔を私に向けた。ヨッシーのこんな表情を見たのは初めてで、それは、出来れば見たくないものだった。訳もわからずに、苛立ちばかりがどうしようもなく募っていく。
「じゃああんたは、中学生にしか見えない子供とあんなことできんだね。それって、ロリコンって言うんじゃないの?馬鹿じゃないの? そんなにガキが好きなんだったら、そこら辺のガキンチョでも、」
「もう、別れようか」
私の言葉を遮って放たれた言葉に、それほどの衝撃はなかった。むしろ冷静に聞いていられた。その決別の言葉は、間違いなく私に向けて放たれたものだが、どこか人事のような気すらして、現実感が全くなく、ドラマでも見ているような感覚さえした。
「これだから、子供は嫌いなんだ」
私は泣き叫ぶ気力もなく、言葉を返そうにも台詞がうまく浮かんでこず、少し脱力した。なんだろう、この気持ち。こういうのなんていうのだろう。
「確かに。考えなしに、まーの初めてをしちゃったのはいけなかったと思うよ」
ヨッシーは、少し考えるように間を空けた。
「まーはきっと、理想ばかりを見すぎているんだ。俺なんて大した男じゃないし、とてもまーの期待には応えられない。まーはまだまだ若いんだから、もっと同年代のコと恋愛して、自分と、見る目を磨いていく時期なんだよ」
あはは。ご名答。 まじウケる!
もしもテストで、キレイに女を振る場合のテストと解答があるとすれば、この台詞ならば九十点は堅いだろう。なにせ、隙がない。十点引きはあまりにも模範的すぎて面白みに欠けるところかな。
「なに笑ってんの?」
苛立ち、ここに極まれり。という目で私を睨むヨッシー。むしろ、この際殴ってくれたほうが清々しい。あくまでも自然に、上手に別れようとするそのやり口に人生最大級の怒りを覚える。あんたにとっては私なんて、このアパートで飼っていたペットみたいなものかもしれないけれど、私にとっては……。やめておこう。そう思った。
「考えなしにって、てめぇあの時好きだの一生離さないだの結婚しようだのベラベラ好き勝手吹いていたじゃねぇか」
「もう、いいよ。やめようよ。キミちょっと変だよ」
ヨッシーは小さな声でうめく。ああ、この人は本気で終わらせようとしているのだなと、馬鹿な私でもさすがに分かった。
「いいよ。私が面倒くさくなったのか、重いのか、他に女が出来たのかは知らないけどさ、別れてあげるよ」
すがりつきたい気持ちを抑え、気丈に言ったつもりだった。こんな状態の私を袖にして他の何かを選んだヨッシー。それは女かもしれないし、自分の将来かもしれない。でも、もう結果はどうでもよかった。何でもよかった。
私は、ヨッシーの一番になれなかった。残ったのは、その現実だけ。
私は負けたんだ。どこかの、私よりもずっと可愛い女の子に。
「こんこん」
薄汚れたアパートのぼろ壁に狐を作った。ヨッシーは、過敏にそれに反応した。
「知ってる? 狐って、悪い人間を騙しちゃうらしいよ」
無言で俯くヨッシーに、最後の言霊を投げつけた。
「ほら見て、こんこんこん。吉田くん。あんた、ろくな死に方しないかもよ」
壁に踊る狐の姿はリアルだけれども隠微で、私は自分を怖い女だと実感した。あんなにも嫌いだった女の汚さや醜さ、思い通りにならなければヒスを起こし開き直り、あげく被害者を演じ、泣く。これは私の母親だ。ああはなりたくないと強く思ったあの姿だ。自分で自分が信じられない。こうなったらもう、笑うしかない。
笑ってやる。笑ってやる。これがあんたに出来る精一杯の手向けだよ。いっぱい笑って、あんたを困らせてやる。ほらほら、あははは。
泣くのは一人になってからでいい。狐さんが一緒に泣いてくれるだろう。「見て見て!こうして指を傾けるだけでほら、狐さん耳を下げてこんなに悲しそう!」
パン!
強烈な平手に耳が痺れる。でも笑ってやる。
「頼むから出て行ってくれ」ヨッシーのその言葉に背を押されるように、私はまた一人ぼっちになった。
ガチャリ。
いつも開け閉めしていた、吉田が住むアパートの鍵の音。こんなにも無機質で、こんなにも冷たい。子供のころに聞いたあの音と同じだった。あの切なさを思い出して泣きたくなる。でも笑ってやる。
泣くのは一人になってからでいい。
しかし、現実には泣いている暇などなかった。私は、これからの宿を自分でなんとかしなければならないという問題に直面していた。
叔父の連絡先が書かれたメモを何度か見た。しかしどういうわけか、すんでのところで思い留まった。
叔父は確か、こう言った。「もしダメになったら連絡しておいで」
今がまさにそのときで、連絡をしなければいけない状況になっているわけだが、このままあっさりと泣きつくのも癪に触る。意地を張っている場合ではないのだろうが、張り通したい意地もある。そんな葛藤の狭間で私は喘いでいた。叔父は、きっとこの結果を予想していたのだろう。いや、叔父でなくともきっとた易く予想できたことだろう。そして、予想を一切裏切らない結末を迎えた自分自身が恥ずかしく思えた。会わせる顔がないというほど大袈裟なものでもないが、叔父には会いたくなかった。助けを求めたくなかった。大丈夫。きっとなんとかなる! そう思い込むことで自らを奮い立たせた。
大宮駅東口・南銀通りを抜け、先を急ぐ。今夜は大宮駅近くに住む大学生の友達、ヨッシーの友人だったリュウちゃんの家に泊めてもらうことになっていた。リュウちゃんとはヨッシーを通して知り合い、三人で一緒にカラオケに行ったり、お酒を飲んだりと楽しくやっていた友達で、私のことを徹底的に子供扱いするリュウちゃんは、子供っぽいヨッシーよりも大分落ち着いた雰囲気があって、まさに人畜無害な紳士といった印象だった。周りに童貞であることをよくネタにされていたが全く意に介さず、
「俺は、お前らみたいに誰でもいいわけじゃないんだよ。俺はお前らと違って、猿じゃなく人間だからね」
と、決め台詞を吐いては、周囲の空気を凍りつかせる名人だった。場を読めないことを誇りにしている節さえあって、個人的には得意なタイプの人間ではなかった。インテリさんというのだろうか。何をさせても、ノリは最悪だった。
しかしこの状況下において、得意も苦手もないことは私が一番わかっている。私は彼を友人だと呼べるだけの厚かましさはない。元彼の親友というだけで、今私と彼を結ぶ糸はないに等しい状況である。終電ギリギリの時間になり、私の腹の虫は泣きわめいている。歩き疲れた足は悲鳴をあげている。なんなら身体のひとつやふたつ、簡単に差し出せるくらいの覚悟だった。
リュウちゃんは、私のことを好いてはいないだろうと思っていただけに、まさか泊めてくれるようになるとは予想だにしていなかった。どちらかといえば本意ではないが、その好意に甘えようと道を急いだ。
深く深呼吸をし、チャイムを鳴らした。
「あぁ。まーちゃん、なんか久しぶり」
風呂上がりなのか、バスタオルを肩に掛けた状態でリュウちゃんは扉を開いた。よく見ると、メガネが少し曇っていた。
「おじゃまします」
礼儀作法など、生まれてこの方あの母に習ったことはなかったけれど、友達の見よう見まねで、靴を揃えて、並べて、リュウちゃんのアパートに上陸した。
「はは。どうしたの? まーちゃん」
「なにが?」
「だって、なんか今日は女のコらしいじゃん。靴揃えたりして」
まただ。この子供扱い!
「それくらい出来るもん。いつまでも子供扱いしないでよ」
リュウちゃんは、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを出してきて私のうなじにくっつけた。驚く私の反応を楽しんでいるようだった。
「飲みなよ。俺は吉田と違って、ビールなんて買えないけどさ」
ヨッシーがいつも買っていたお酒とは違う缶を受け取り、それを一気に飲み干した。初めて飲む発泡酒は少し薄くて、味気なく感じた。
「ほんと、吉田って勝手な奴でごめんね」
リュウちゃんが唐突に呟いた。意外な言葉に驚いた。ヨッシーの話題は出てこないと思っていたのに。
うまく言葉が出てこず私は俯いた。リュウちゃんはそれ以上何も言わず、プロ野球ニュースを食い入るように見つめていた。 …いや、見ているフリをしていただけなのかもしれない。ぼんやりと「今日も西武勝ったじゃん、連勝キタコレ」とか、「中島はいい場面で打つねー」などと話していた。それは恐らく私に話しかけているのだろうが、言葉は宙を舞い、行き場を失くし、壁と壁に乱反射した。私には、大きなひとり言にしか聞こえなかった。
失言だと思っているのかもしれない。やがてリュウちゃんは、
「タバコ、買ってくるね。まーちゃんは、クールライトだったよね?」
そういい残して、部屋を出ていった。一人残された私は、子供の頃、母が仕事に出かけた後のような侘しさを不意に思い出した。誰もいない部屋で風の音に脅え、隣の部屋の夫婦喧嘩の物音に脅え、狐の影絵に脅えたあの頃が私の脳内を猛烈な速さで駆け抜けた。母のこと、ヨッシーのこと、色々なことを想っていると何だか泣けてきた。声を出して泣きじゃくっている私がいた。私の身長よりも大きな立てかけミラーに泣き喚く私が写る。そんな光景、今までに見たことがなかった。
「どうしたの?」
ややあって、戻ってきたリュウちゃんは困ったように言った。涙と鼻水がとめどなく流れて、止まらなくて、私はリュウちゃんの顔をまともに見ることも出来ない。
「一人にして、ごめんね。辛かったよね。今日はいっぱい泣いて、いっぱい飲んで、いっぱい眠るといいよ。俺は何もしてあげられないと思うけど、もう、あんな奴のことは忘れちゃえばいいよ」
私の欲しい言葉をくれる人。欲しい優しさをくれる人。
胸に染み渡るリュウちゃんの言葉は、悲しいくらいに優しかった。
「わふっ」
犬の鳴き声で、目が覚めた。
近所の野良犬が、リュウちゃんの部屋のベランダにまで近寄ってきていた。この部屋は一階にあるので、犬だろうと人間だろうといとも簡単に侵入することが可能だった。
わふっ。わふん。
よく見ると、尋常ではない数の野良犬が集まっている。寝起きということも相まって、その状況に少し狼狽した。私が占領していたと思われるベッドには汚物らしき痕跡が生々しく残っている。――吐いたのだろうか。思い返しても記憶が定かではない。リュウちゃんに確認しようと周囲を見渡してみたが、どこにもリュウちゃんの姿はない。一体、どのような醜態を晒したのだろうか。考えただけで億劫だった。とりあえず、リュウちゃんの携帯電話に電話をかけてみようと携帯を手に取る。しかし、電話は直接留守番電話に切り替わり、なんだか脱力した。
ガリガリガリ!
窓の外の野良犬たちは、激しく窓を引っ掻きはじめる。なんだろう、これ。一人の部屋で、私は不安を感じはじめていた。
そんな時、私の携帯電話が鳴った。着信は、リュウちゃんからだった。
「まーちゃん?起きた?」
ガヤガヤと聞こえる雑音が、喧騒さを感じさせる。リュウちゃんは大学に行っている様子だった。
「あのさ、俺今、学校行ってんだけど、」
周りがあまりにも騒々し過ぎるのか、リュウちゃんは移動しながら話をしている。やがて、その雑音は嘘のように聞こえなくなった。
「あの、犬。犬が騒いでない?」
「うん。なんか、ちょー犬がいるよ! 十匹はいるよ、たぶん」
「え? 十匹も? そんなにいたかなぁ」
「いるよ。なんか怖いし。窓叩いてるし」
「やっぱり? 今日、エサやり忘れたからなぁ」
「リュウちゃんが毎日ご飯あげてるの?」
「うん。いつも学校行く前にね」
「あはは。なに、それ」
いけないな、と思いつつも笑ってしまう。だって、あまりにもリュウちゃんらしい。本当に優しい人だから放っておけないのだ。裏なんてない、偽善でもない。困っている人がいれば助けてしまう。たとえそれが犬であっても、人間であっても。
損得勘定も裏表もない、そんな人間性が羨ましい。
「なに笑ってんの? おかしいかな」
少しムキになったような言葉が私の心を癒してくれた。可愛い。なんて可愛い人なのだろう。電話口の私の表情は、緩みっぱなしだったことだろう。
「んーん。べつにぃ」
意地悪に言うと、リュウちゃんは観念したように小さな声で言った。
「流しの下に缶詰があるから、幾つかその仔たちにあげて。缶切は流しの引き出しに入ってる」
「りょーかい」
この人、すごい。失恋と身内の不幸というダブルパンチを喰らった私の心を、こんなにもすぐに解きほぐしてくれた。失恋ホヤホヤで不謹慎かもしれないが、私ははっきりとリュウちゃんに惹かれた。こんな感情が好き。ドキドキする、この感じ。ただしそれは説明しろと言われても絶対に出来ない。ただ、なんとなく好き。
「そうそう、まーちゃん。今日夕方くらいに大宮まで来てくれない? ちょうど野球の券があったんだ」
「もちろん、行くさ」
私は舞い上がって浮かれて、足取り軽やかに大宮駅に向かった。太陽が少し傾きはじめてはいたが、今日はじっとりと汗ばむ気温。私は前を歩く人の長く伸びた影に脅えることもなく、自分の影を踏まれることも恐れずに、威勢よく道のど真ん中を、大手を振って歩く。こんな気分は久しぶりだった。野良犬に缶詰を与えるときに、小さく甘噛みされた人差し指が少しだけ痛んだ。