2 これが現実
「アリス、起きてくださいアリス。ウェーン様がそろそろ怒り出しますよ」
黒い視界の微睡の中、ぺちぺちと頬に何かが当たる感覚がする。それを無視していると、もっと強い衝撃がお腹辺りに走った。
「ぐへっ!?」
女子を捨てた悲鳴を上げ目を開けると、私のお腹に手をめり込ませているアビの姿が目に飛び込んできた。
何て悪い目覚め。顔を青くして痛みの原因を睨んでいると、自分は何も悪くないとでもいうような笑顔を向けて、「おはようございます」。
「何がおはようございますだ馬鹿ーっ!」
慌てて彼の近くを離れるが、手を差し伸べてくる紳士っぷり。
いやいや、駄目だ駄目。優しい行動に惑わされないの自分。感じて、このお腹の鈍い痛みを!
自己暗示をして、差しのべられた手を無視し自分で立ち上がる。
「……で? ここはどこよ」
スカートを払いながら聞く。「自分で考えてください」と不機嫌そうに突き放され、私は困ったように周りを見渡した。
大きな窓が目立つその部屋は、床に真っ赤でフカフカなカーペットが敷いてある。天井は高く、見上げると首が痛くなる。そして――、左右にずらりと並んだ、トランプの柄が描かれたコートを着ている兵隊と、その向かい側に並ぶ真っ赤なメイド服を着た侍女。
彼らは遠くにあるハート型のメルヘンなドアから、目の前にある緋色の王座まで伸びている。王座には誰かが座っているようだが、私の所から背を向けるように置かれているのでどんな人が座っているのかは分からない。
「……アビ、ここ……、さっき言っていたお城?」
半信半疑で隣にいるアビに聞くと、ニッコリと笑って「はい」と頷いた。
変な森に真っ赤なお城と来た。もしこれが私の夢だとしたら、とんでもない欲望を抱えて毎日を過ごしてきたんだと不安になる。どんだけ現実逃避したいんだ自分。
そんな私の不安をよそに、アビが王座に腰かけている人に声をかける。
「ウェーン様。アリスを連れてきましたが……」
アビが少し頑なになってそういうと、王座から立ち上がる。さらりとその人物の長い茶髪が見えた。
歩くごとに揺れるサラサラの茶髪と、かっと音を立てるヒールの音から、女性だと言う事を期待する。
「……ようこそアリス。壊れた、滑稽でおもちゃ箱のようなこの国へ」
エレガントだが派手な真っ赤なドレスに身を包み、女性のように細く長い睫、緋色の瞳。手には大きな赤と銀色の、ハートが小さく描かれた大きな、私の腕の長さはあるであろう鎌。
それに加えて――、先ほどの声。
女性では低すぎるその声に首をかしげると、目の前の人は自己紹介を始める。
「僕は『ハートの女王』のウェーン。見た目は完璧に女だけど、声からわかるように僕は男。女性扱いすると殺意が湧くから気を付けてね?」
にやりと口角を上げて手の中の鎌を持ち直す女王様(しかし男)。
ウサギ男の次は女装女王様ですか。本当に何でもアリなんですね。
心の中で皮肉を言って、目の前の女王様に向き合う。
「それで……。記憶も何にもない私に、何の用ですか?」
「……君は……。訊かないのかい、僕が女装をしていることを」
「訊いても無駄な気がしますし……、肯定しちゃった方が早くないですか?」
思ったことをさらりと言うと、アビと女王様が目を合わせた。二人とも黙って首をかしげている。
沈黙に耐えかねた私がおずおずと声をかけると、女王様が眉を顰めながらも言葉を紡いだ。
「……不思議なアリス、ようこそ『不思議の国』へ。ここは誰もが『アリス』を愛し、肯定し、必要とする、歪んだ世界だよ」
決められた台詞を淡々と口にする様子の女王様だが、時折視線が宙を泳ぐ。何かに戸惑っているようだ。
「君はこの世界で喜ぶかもしれない、この世界の住人に囁かられる愛の言葉に。しかしこの、『不思議の国のアリスの冒険』と言うゲームのルールは単純ではない」
私の隣に立っているアビに目で合図をする。合図をされた彼はこくりと頷き、懐からきらりと光る何かを取り出した。
柄の部分に丁寧な装飾がされている小型ナイフ。それを認識したすぐ後に、私の喉には刃の部分が強くあてられていた。
初めて感じる刃物の冷たい感触に、ぞくりと全身が粟立つ。思わず見た彼のルビーのような瞳には何も映っていなく、虚無が広がっていた。
「な、何の冗談……?」
強くあてられた喉からは、一筋の血が流れて鎖骨辺りで止まる。
「……この世界から抜け出す方法は主に四つ。一つ目は記憶を取り戻すTrue End。二つ目はこの世界の住人になるNormal End。三つ目は僕の命令で君を殺そうとする白ウサギに殺されてしまうBad End。そして四つ目は白ウサギを誘惑して戦意を失わせ、逆に彼を殺すHappy End。そして最後はもう一つのBad End」
「って待って! 行き成りいろいろ言われて意味が分からないんだけど!」
「……口調がガサツになっているぞ」
アビにぎろりと睨まれてぐ、と口を噤んだ。喉に当てられたナイフに力が入る。
「いちいち心が小さいぞアビ。別に口調くらいどうってことはない。次はないがな」
口元に手を当て優雅に笑う。大きな窓からの光を浴びてきらりと光る鎌に思わず体が硬くなる。
でも、目が覚めて三十分くらいでこんな状況になったら、誰でもビビると思うんですけど。
「……それでは説明しよう、細部まで細かく。まずは君の正体からだな、『アリス』」
自分の名前のはずなのに、女王様から出たアリスと言う言葉は、まるで私ではない誰かに向けられているようだった。
「君はこの『不思議の国』を舞台に、とある一つのゲームを行ってもらう。勿論シナリオなんてものは存在しない。この世界は君を中心に廻るんだ」
「私を、中心――」
それだったら、なぜ喉にナイフが当てられているのかと聞きたい。
すると、そんな私の考えが分かったのか、女王様が大きく溜息をつきながら首を振った。
「……この国の住人達は皆『キャラクター』だ。君がゲーム……『不思議の国のアリスの冒険』の主人公だとすると、彼らは主人公の『アリス』に助言をし、導き、時に惑わす。彼らにはきちんと主な性格が振り分けられていてね。例えば、今君にナイフを向けている『白ウサギ』。彼は女王の命令に従順で、決して逆らえない」
成る程、これは女王様の命令なのか。だから私はこんな目に合っているのか、納得。
って、おい待て!
「じゃあ、私はあなたに何か機嫌を損ねるようなことしたんですか?」
「何だ、人を殺すのに理由がいるのか。面倒臭い性格のアリスだな」
「何の理由もなしに人を殺すんですか?」
「アリス」
女王様の、赤い手袋をつけた細い腕が伸び、私の頬をそっと撫でた。
「この国では、君の言う常識は非常識になるんだよ。少しここから歩いた先にある街だってそうだ。昼間は談笑をしながら食べるレストランや、雰囲気のいいカフェ、女性なら誰もがうっとりするような宝石店に服屋。だが夜はどうだ。煌びやかに誘うネオンに、絡みついてくる娼婦、男娼。あちこちではじき飛ぶ血飛沫。これが当たり前に起こる世界、それが『不思議の国』」
「……っ、でもそんな事……、」
「今回の『アリス』は本当に五月蠅いな」
頬に触れる物が、人の手から冷たい凶器に変わった。
「今迄みたいに肯定しろ。これは命令だ、アリス」