5 白いキス
「……けふっ!」
夫人の小さな咳が聞こえて、俺は弾かれたように彼女の方を見た。……嫌な予感……。
「…………夫人? どうしたの?」
少し目を離していたすきに、夫人の顔は真っ白になっていた。……いや、顔色が悪いとかそういう事ではなく。粉だ。薄力粉を顔から被ったのだろう。粉まみれの手で顔を拭くも、余計に状態が悪くなるだけだ。色素の薄い彼女の前髪にもほんのりと白みがかかっている。
「夫人、白いよ」
「知ってるから払って! 目を瞑ってるから何も見えないの」
ぎゅっときつく目を閉じた夫人が、だんだんとシンクを叩き催促。「はいはい」と呆れながらすっと白い粉まみれの顔に近づく。
ふ、と長い指を伸ばし頬に触ると、ビクッと肩を震わした。小さく顔を背けるものの、両手で彼女の頬を押さえてこちらを向かせた。
「…………取れる?」
ふるりと唇を揺らして恐る恐る聞いてくる。「取れる取れる」と小さく彼女の耳に囁くと、「うう」と呻きながら首を竦めた。くすぐったいのだろう。
不安そうに下げられた形の良い眉に、震える唇。ただでさえ小柄な体を縮めて、それでも忠実に粉を落とすのを待ってくれている。
ああ、そんな顔をしないでほしい。俺の仮面を取らないでほしい。
「……夫人」
自然に彼女の唇に向かって行く顔を、自分の事ながらどこか客観的に見ていた。あぁ、キスしたらどんな反応をするのかな、関係は何か変わるのかな、――少しは俺を見てくれるかなと思いながら。
それでも心の中の『チェシャ猫』が足をつかむ。お前は『チェシャ猫』だ、さっさと顔を除けろ、と。
「エシル……? まだ?」
「ごめん、後ちょっと……」
ぎし、と音を立ててシンクに体重をかけると、首もとで小さい鈴の音がした。茶色い革製の首輪に繋がれた、金色のそれ。そこからでた爽やかな音が、俺の目に『公爵夫人』を映させた。
俺は『チェシャ猫』。彼女は『公爵夫人』。俺達の関係は飼い猫と飼い主。間違っても、――キス何てしない関係。
暫く何もしないまま黙っていると、夫人は流石に首を傾げ、不信そうに眉を顰めた。待たせすぎたようだ。
「……ごめんね」
唇の端を軽く上げ、顔を遠ざける。銀色のボウルがその反動でかたんと揺れた。
とりあえず粉を払ってあげようと思った俺は、パッパッとまず目の周りを優しく払う。次に口、おでこ、頬。
一通り終わった後、半信半疑で訊いてくる。
「取れた?」
「まあ、取れたけど――」
ようやく目を開けた夫人のスカイグレーの瞳に、俺が映った。思っているよりも近かったのか、警戒したようにばっと素早く俺から離れ、戦闘態勢。
「……近くね……?」
「まあまあ。これを機にスキンシップで仲を深めようよ」
「あんたの言う仲を深めるに恐怖を抱いたからノーセンキューよ」
じろりとこちらを睨んで来る夫人に、ニヤリとシニカルな笑みを浮かべる。
きっと今の俺は『チェシャ猫』。完全に役になり切っているはずだ。だったら――、多少のアドリブ位、許してくれるはずじゃないか?
「……じゃあ、」
す、とゆっくり、なめらかな動きで顔を近づける。再び至近距離になって驚いたように目を見開いている彼女の顔をまじまじと見つめ、
ちゅっ。
軽く音を立てて俺の唇と夫人の頬が触れ合う。柔らかい、まるでマシュマロのような肌が心地よい。不意打ちを食らって驚いた彼女がカシャン、とボウルを落としてしまった。
甲高いその音を合図に唇を離すと、ぽかんとして真っ赤な顔を押さえつけている二つの瞳と視線がぶつかる。
「――エシ、」
「薄力粉切れちゃったよねー。買ってくる」
何かを言いたそうに名前を呼んだ夫人の声を遮り、くるりと踵を返してドアに向かう。
まるで何事もなかったかのような俺の行動に首を傾げるも、ぽん、と手を叩く音が聞こえた所状況が理解できたのだろう。
「……エシルっ!?」
待ちなさい、と叫ぶ彼女を無視して、薄力粉を買いに屋敷を出た。
パソコンが使えないので携帯で更新です。
明後日にでも改稿します;;
短くて済みませんー><
明日塾の為、更新できないかもです;;




