第九話 木村の沈黙
九月に入ると、朝の空気に少しだけ乾いたものが混じり始めた。
夏の終わりは、街よりもオフィスの空調温度で先にわかる。誰かが冷房を一度弱め、また別の誰かが暑いと言って戻す。その小さな攻防が始まるころ、季節はたいてい次へ移っている。
翔太はその朝、いつもより早く会社に着いた。
まだ人は少ない。電源を入れたばかりのモニターが、暗い室内に順番に白い四角を作っていく。
木村はまだ来ていなかった。
机に鞄を置き、ノートPCを開く。
チャットを確認し、今日のタスクを眺める。
仕事は普通にある。レビュー待ちが二件、軽微改修が一件、午後に打ち合わせ。
普通の一日だ。
だからこそ、その普通の上に別の疑問を乗せてしまっている自分が、少しだけ異物に思えた。
昨日の会議室で木村が言ったこと。
俺も昔見た。
その一言が頭から離れなかった。
八時半過ぎに木村が出社してきた。
いつも通りのシャツ、いつも通りの眼鏡、いつも通り少し急いだ足取り。
だが翔太には、その“いつも通り”がかえって意図的なものに見えた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「少し聞きたいことがあって」
木村は鞄を机に置く手を止めた。
その止め方だけで、翔太には話の内容が伝わったとわかった。
「始業前なら五分」
二人はまだ静かな会議室へ入った。
ブラインドの隙間から朝の光が細く差している。
翔太は椅子に座らず、立ったまま口を開いた。
「前に見たって、いつの話ですか」
木村はドアの近くで腕を組んだ。
「ずいぶん前」
「この会社に入ってから?」
「そう」
「誰と?」
「……ひとりで見たこともあるし、誰かと見たこともある」
その答え方は、隠しているというより、開け方を選んでいるように見えた。
「その誰かって、今いない人ですか」
木村は一瞬だけ視線を逸らした。
それで十分だった。
「会社立ち上げの頃にいた人?」
「久保田君に聞いたのか」
「少しだけ」
木村は息を吐いた。
疲れているときのそれではなく、覚悟を決める前の小さな息だった。
「名前は高瀬っていう」
翔太は初めて、その“昔いた人”に固有名が与えられるのを聞いた。
高瀬。
それだけで、ぼやけていた過去に輪郭が生まれる。
「すごい人だったんですか」
「すごかったよ。コードも読めたし、書けた。頭の回転も早かった。……でも、それだけじゃなかった」
「何があったんですか」
木村はすぐには答えなかった。
代わりに、窓の外を一度だけ見た。
ビルの隙間に朝の青空が見えている。
「高瀬さんも、変なログを見てた」
会議室の空気がひとつ沈んだ気がした。
翔太は何も言わず、次の言葉を待つ。
「最初は文字化けだと思ってた。夜だけ出る。保存すると消える。意味のある単語が混じる。君が見たのと、たぶん似てる」
「その人は、追ったんですか」
「追った」
木村の声は低かった。
「ずっと追ってた。業務の合間に、夜間対応のあとに、古い共通部品を洗って、ログ出力の差分を見て、意味不明なコメントを集めてた」
「それで」
「ある日、いなくなった」
言葉はあまりにも簡潔だった。
翔太は一瞬、その意味を取り損ねた。
「いなくなった……って」
「退職届は出てない。失踪扱いになった。警察にも一応話は行った。でも、大人が一人消えただけで、大きな事件にはならない」
翔太の喉が乾く。
朝の明るい会議室にいるのに、言葉だけが別の温度を持っていた。
「木村さんは、それが関係あると思ってるんですか」
木村は首を横に振らなかった。
だが、縦にも振らなかった。
「思ってる、じゃない。切り離せないだけだ」
それは肯定より重かった。
「高瀬さんは最後、何て言ってたんですか」
その問いに対して、木村は少し長く黙った。
答えたくないのではない。
思い出したくないのだとわかった。
「“向こうから読まれてる”って」
翔太は息を止めた。
「ログを読むだけじゃない。こっちが読んでると、向こうも読んでくる。そう言ってた」
会議室のドアの向こうで、人の足音がした。
始業の近い時間だ。
それでも翔太には、すぐ外にいる同僚たちが急に遠い存在に思えた。
「高瀬さんが消えたあと、どうなったんですか」
「プロジェクトは続いた。会社も続いた。共通部品は残った。コメントも残った。……残ったのに、背景だけが消えた」
その言い方に、翔太は胸の奥を掴まれるような気がした。
背景が消える。
木村が前にも言った言葉だ。
コードも、人も、背景を失うと“動いている事実”だけが残る。
「じゃあ木村さんは、どうしてここに残ってるんですか」
自分でもずいぶん踏み込んだと思った。
だが木村は怒らなかった。
「残ってるんじゃないよ」
そう言って、少しだけ笑った。
「まだ、閉じてないだけだ」
翔太はその言葉の意味をすぐには掴めなかった。
閉じていない。
括弧。門。高瀬。
ばらばらの点がまた少しだけ近づく。
会議室を出る前に、木村ははっきり言った。
「だから君は、まだ深く行くな」
「でも、もう仕事の中に出てます」
「出てる。だから余計に、足場を固めろ」
木村はドアノブに手をかけたまま続けた。
「好奇心で覗くと足を取られる。仕事として追うなら、生きて戻る準備をしろ」
その言葉の“戻る”が、ただの比喩には聞こえなかった。
その日一日、翔太はいつも以上に仕事へ集中した。
そうしなければ、会議室で聞いた話が頭の中を食い破りそうだった。
レビューコメントを返し、軽微修正を直し、秋山に業務確認を取り、田中とテストデータを作る。
手を動かしているあいだだけ、世界はまだ普通の会社だった。
だが夕方、古い共通部品に小さな修正が入った差分を見た瞬間、またあの感覚が戻る。
誰も全体を把握していない。
けれど、何かはずっとここにある。
そして昔、同じものを読んだ人間が消えている。
帰り際、翔太は無意識に自分の社員証を握っていた。
名前、所属、番号。
こういう記号が自分をこちら側へ繋ぎ止めているのだと、初めて意識した。




