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コードの向こう側 改  作者: たむ


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第四十八話 喪失の支払い

支払いは、世界再構成の成功を確認したあとの静かな時間にやってきた。


最初は、翔太がただ疲れているだけに見えた。

実際、深層降下のあとでまともに立っているほうがおかしい。

顔色は悪く、視線も少し遅い。

グランツに「寝ろ」と怒鳴られ、ミレイアに半ば強制的に仮眠室へ押し込まれた。

そこまでは、誰もが想定していた範囲だった。


異変がはっきりしたのは、数時間後、目を覚ましたあとだった。


「……久保田」


翔太は夢うつつのまま、その名前を口にした。

久保田。

向こう側の会社の、転職組の同僚。

名前は出た。

だが次の瞬間、自分が彼とどんな会話をしたのかが思い出せない。

定食屋で何を食べていたか。

どういう笑い方だったか。

思い出せるはずの些部が、急に空白になる。


仮眠室の白い天井を見たまま、翔太は冷たいものを感じた。

来た。

とうとう来たのだと、理屈より先にわかる。


起き上がって記録ノートを探す。

手が震える。

ノートを開き、「向こう側の記憶」の頁をめくる。

字は読める。

自分の書いたはずの言葉も、意味としては分かる。

けれど、そこから立ち上がる映像の濃さが前より薄い。


専門学校の廊下。

入社初日。

木村。

久保田。

秋山。

田中。


名前はある。

出来事もある。

だが、触れたら返ってくるはずの温度が弱い。

映画のあらすじを読んでいるみたいに、自分の人生が一枚遠くなる。


仮眠室の扉が開いて、ミレイアが入ってきた。

彼女は翔太の顔を見るなり、表情を変えた。


「何が薄れた」


問い方が直線的すぎて、逆にありがたかった。


「……向こう側の、細かいとこです」


喉が乾く。

声がうまく出ない。


「久保田って人の名前は出た。でも顔の動きとか、定食屋の匂いとか、そういうのが」


ミレイアは少しだけ目を閉じた。

それからすぐ、実務の声に戻る。


「書いたものは読める?」


「読めます」


「読んで、違和感は」


「あります。でも、まだ意味は追える」


彼女は小さく頷いた。


「じゃあ、まだ固定点はある」


まだ。

その言い方に期限が含まれていることが、翔太にはわかった。


ミレイアは椅子を引き、仮眠室の机へノートを置き直した。


「話して。覚えてること全部。私が書く」


「え」


「いま喪失の支払いが始まってるなら、あなた一人で保持しないほうがいい」


その判断は早く、正しかった。

エルドが言っていた。

感情と結びついた記録を残せ、と。

ならば、いま言葉にできるうちに他人へ渡すのが一番強い。


翔太はひとつ息を吸ってから、向こう側の記憶を口にし始めた。


専門学校のこと。

会社の朝の匂い。

木村の机に積まれた資料。

久保田の「思ったよりちゃんとしてますね」という言い方。

秋山の、営業先へ向けた綺麗すぎる笑顔。

田中の眠そうな目。

アパートの狭い机。

夜のコンビニ。

エラーが壁に見えた日。

“未来の他人”という言葉を聞いたときの感じ。


話しているうちに、思い出せるものと思い出せないものの境界がわかってくる。

言葉は出る。

でも、その場の光の色が抜ける。

会話の順序はあるのに、手の動きだけが曖昧になる。

細部から削れる。

深層権限記録の通りだった。


ミレイアは途中で一度も口を挟まず、ただ書いた。

早く、正確に。

彼女がこういうとき、慰めより先に記録へ向かう人間であることが、今はありがたかった。


話し終えるころには、翔太はひどく疲れていた。

喪失そのものより、それを言葉へ変える作業が消耗する。

失われる前の輪郭を、いちいち指でなぞるみたいな疲れだ。


ミレイアは書き終えた紙束を見て、低く言った。


「まだ大丈夫」


「何が」


「あなたがあなただったことを、他人が証明できる」


その言葉に、翔太は少しだけ笑った。

妙な慰めだった。

けれど、たぶん今いちばん必要な慰めでもあった。


その夜、保守室へ戻ると、グランツは一度だけ翔太の顔を見て、何も言わずに苦い薬草湯を机へ置いた。

サナは視線を合わせたあと、何も聞かずにノートの控え紙を追加で持ってきた。

レオンは監視盤の外縁線を示して、「ベルナはまだある」とだけ言った。

それぞれのやり方で、喪失の支払いに立ち会っている。


翔太は机に座り、自分で一行だけ書いた。


支払いは始まった。

でも、木村の言葉はまだ残ってる。

意味だけでも残るなら、そこから書ける。


字は少しだけ震えていた。

それでも、書けたという事実が今日は大事だった。

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