第二十二話 修復不能の宣告
ルサから王都へ戻った翌朝、保守局の空気は奇妙な静けさを帯びていた。
誰もが忙しい。
机の上には報告書が積まれ、境界の雨以降に増えた障害連絡はまだ減らない。
それなのに、慌ただしさの表面だけが不自然に抑えられている。
現場の人間がほんとうに嫌な知らせを予感しているとき、たいていこういう静けさになる。
会社でも何度か経験した。
大きな方針転換や、誰かの切り捨てが上から降りてくる前の静けさだ。
昼前、ミレイアが神殿上層へ呼び出され、戻ってきたのはかなり遅くなってからだった。
表情は崩れていない。
だが、その崩れていなさがかえって深刻さを伝えていた。
「中央机、空けて」
声は低く、普段より平板だった。
保守局の面々が手を止める。
グランツが立ち上がり、エルドも棚の前から振り向いた。
翔太は報告紙をまとめながら、嫌な予感が当たったことを悟る。
ミレイアは羊皮紙の束を机へ置いた。
上層部の正式通達らしい。
封蝋の印が押されている。
「調査対象を絞るよう指示が出た」
誰もすぐには口を開かなかった。
その一言だけで、ほとんど内容はわかったからだ。
広がっている障害に対して、人手は足りない。
予算も、権限も、時間も足りない。
そういうとき上がやるのは、たいてい“何を見ないことにするか”を決めることだ。
「具体的には」
グランツが問う。
「境界の雨による記憶混線と記録障害を、地方ごとの個別現象として扱えって」
ミレイアは答えた。
「“世界基盤障害”という総称は禁止。深層要因の追跡は現時点で凍結。王都周辺の結界維持と主要転移門の運用安定だけを優先する」
グランツが机を軽く叩く。
「ふざけるな。局所障害に見える段階はもう終わってるだろ」
「わかってる」
「じゃあ何で従う」
「従わなきゃ、保守局ごと動けなくされる」
ミレイアの声がわずかに硬くなる。
怒っている。
だがその怒りは上層部へ向いていて、いまここにいる誰かを責めてはいなかった。
エルドが低く言う。
「凍結、とは名ばかりの隠蔽じゃな」
ミレイアは否定しなかった。
翔太は通達の一文を読み、胃のあたりが重くなるのを感じた。
神殿上層は、世界が壊れていないとは言っていない。
ただ、それを“そういう名前で呼ぶな”と言っている。
名前を奪えば、問題の規模も小さく見える。
それは現実でも何度も見たやり方だった。
「理由は何ですか」
気づくと翔太が聞いていた。
ミレイアは視線を上げる。
「表向きは、混乱防止。世界全体の基盤障害なんて言葉が広まれば、市場も巡礼も転移路も止まる。王都の権威も揺らぐ」
「表向きは、ってことは」
「本音はたぶん別。責任の所在を深く掘られたくない」
グランツが吐き捨てるように笑う。
「古い仕様の継ぎ足しと神殿の管理怠慢が表に出るからな」
その瞬間、翔太の頭に会社の会議室がよぎった。
障害の根本原因が古い共通部品や過去の無理な改修にあると分かったとき、責任者たちはたいてい“いま必要なのは原因追及ではなくサービス継続です”と言う。
間違ってはいない。
だが、その言葉はしばしば、原因から目を逸らすためにも使われる。
「止めたら悪化します」
翔太は言った。
中央机の周りの視線が集まる。
異邦人の臨時保守要員が、上層部の判断へ正面から口を挟む。
言い方を間違えれば、それだけで危うい。
「個別対応だけ続けても、同じ現象が別の街で起きる。ルサで見た記録基準板のズレも、王都の境界雨も、東門系の揺れも、全部つながってる」
ミレイアは黙って聞いていた。
グランツも口を挟まない。
たぶん、内容自体は皆わかっている。
問題は、それを誰がどこまで言うかだ。
「わかってる」
ミレイアは静かに答えた。
「でも、上は“わかっていて止める”ことがある」
その一言に、翔太は返す言葉を失った。
無知だからではない。
理解していて、なお止める。
それが制度なのだとしたら、現場の正しさだけでは届かない。
「じゃあ、どうするんですか」
ミレイアは通達を折りたたみ、机の端へ置いた。
「表の仕事は従う」
誰かが息を呑む。
だが彼女はすぐ続けた。
「表の仕事は、ね」
その声に、グランツの口元がわずかに歪んだ。
エルドは鼻の奥で短く笑う。
保守局の人間たちは、それだけで十分意味を理解したらしい。
ミレイアは翔太のほうを見た。
「あなたはどうしたい」
問いはまっすぐだった。
同意を求めているわけではない。
巻き込まれる前に、自分の立場を確認しろという問いでもある。
翔太はすぐには答えられなかった。
帰る条件のことがある。
深く触れるほど帰れなくなるかもしれない。
その現実は消えていない。
それでもいま、上層部が“見ないことにする”と決めた先に、どんな壊れ方が待つのかは想像できてしまう。
「……止めると、もっと遅くなる」
それが出せた答えだった。
「直せる時期を逃すと、壊れ方が深くなる。現実でもそうでした」
ミレイアはわずかにうなずいた。
「なら、続ける」
保守局の空気が、静かに一段だけ変わった。
大声の決意表明ではない。
ただ、現場の人間が仕事を続けると決めたときの、あの静かな変化だった。
その日の午後から、保守局は表向きの通常業務を続けながら、水面下で世界障害の追跡を再開した。
記録の扱いは慎重になり、正式文書とは別に非公式のまとめが作られる。
誰が見るためのものかは明示されない。
だが、未来の自分と、信じられる少数の他人のためだということは皆わかっていた。
夜、仮眠前の静かな机で、翔太は一枚の紙にだけ、誰にも見せない文字を書いた。
修復不能とは、直せないことではない。
直す気を持つ側が、止められることだ。
それを書いたあと、彼はしばらく手を止めていた。
自分が今どこまで踏み込んでいるのか、書いた文字のほうが先に理解している気がした。




